第1場 序曲——邂逅 (6)

「それで? その二人の聖者の法衣が——どっちだっけ? ええと——黒と白か? その色に塗られてるんだな」

 すると、結架が振り返った。表情からは悲しみが消えている。声の響き同様に、歴史的な宗教への知識欲を燃やす瞳が鞍木を映した。

 これほど多弁な彼女を見るのは今日が初めてだ。自身の考えや思いを頻繁に挿入するのも珍しい。

「そうよ。そして、彼らの足許には犬が描かれていてね」

「やっぱり、黒と白の斑模様なんだろ」

 彼女は大きく頷いた。

「ええ、そう。ラテン語読みにして『ドミニー・カネース』。意味は〝神の犬たち〟。それが即ち『ドメニカーネ』……〝ドメーニコ会士たち〟という寓意になっている訳よ」

「ははあ、それじゃ、壁画に描かれているのはその〝神の犬たち〟が別の種の犬に噛みついてでもいるところで、そいつがまさしく茶色いんだな」

 なんとなく思いついたことを口にしてみただけだったというのに、結架は瞠目した。

「その通りよ、鞍木さん。もしかして知っていらしたの?」

 鞍木は苦笑した。

「そりゃ、熱狂的かつ闘争的な聖ドメーニコ会の、聖フランチェスコ会との微妙な対立に、犬の寓意と聞けばね。大方そのあたりだと思うだろう」

「それもそうでしょうね。でも、噛みつかれているのがべつの動物だということだって、あってもいいのじゃないかしら?」

 なにも犬だけが寓意として用いられると決まっているわけではないわ——という結架の言葉に鞍木は頷きかける。

「けど、先刻さっき、同じ志を持つ人間同士で争って、とか言っていただろう。一応は同じように托鉢修道会なんだから、少なくとも動物としては対等だ。犬同士であるなら弱い者いじめでも捕食でもない。だから犬だと疑わなかっただけだし、第一、犬としか思いつかなかったんだよ」

 照れ隠しに頭を掻きつつ、鞍木は笑って、正直に本当のところを告げた。相手が結架であるなら、なにも取り繕うように自分を飾らなくとも良いのだと、鞍木は安心できた。

 彼女は、どんなに突拍子もないことを聞いても笑ったり無下にしたりはしなかったし、当然、そんなことをしたり言ったりした人間を馬鹿にすることもなかった。ただし、そうすることで相手の欠点を認めていたというよりも、というほうが正しいだろう。

 二人は回廊へ出た。緑の芝生に白い石畳が眩しい。アーチと、その上部の窓が整然と並ぶ。

 驚いたことに誰もいない。エルベ広場の近くにあるジュリエッタの家は観光客であふれていて近づくのも容易ではなかったというのに、ここは郊外だからだろうか。喧騒に会話が邪魔されなくて良いが、観光していて無人の空間に出会うと、鞍木などは不安を感じる。本来、入ってはいけない場所に迷いこんでしまったようで。

 青々とした芝生は陽光を浴びて生命力に満ち、緑の濃い木立がうむ日陰は涼しげで、寝転がって微睡まどろみに浮遊したら幸せそうだ。井戸の水でワインを冷やし、豚肉の腸詰ムゼットに酢キャベツと、ベッルーノ産チーズのピアーヴェがあれば最高だろう。

 鞍木は、結架が生まれた折橋邸、その中庭に漂う雰囲気と通じる空気が流れている気がした。思わず彼女の様子を探るが、穏やかな微笑をたたえた横顔には、なんの動揺も見られない。

 ほっとして声をかける。

「聖フランチェスコの名がつく教会や修道院は、イタリアじゅうにあるんだろう?」

 結架の微笑に曖昧さがあらわれた。

「ええ。多分、聖母マリーアに次ぐくらい多いということよ。でも、いくつなのかは正確には覚えていないわ。

 聖フランチェスコがこの世を去ったとき、彼の修道会はヨーロッパ全域にわたっていて、一、一〇〇も擁していたらしいの」

「一、一〇〇⁉︎」

 それでは覚えていないのも無理はない。

「第一、私はキリスト教自体の詳しいこととなると、それほど解らないもの」

 恥じいるように結架は俯き、顔を赤らめた。

 しかし、よく知らない、解らないと言いつつも、やけに聖フランチェスコに詳しいではないか。鞍木がそう言うと、結架は何ともいえない、切なげな笑顔で答えた。

「四、五年前に母の部屋の本を読んで知ったの」

 彼女はカトリックに可成り興味を持っていたらしいから、と続けて、結架は口を結んだ。

 成る程それで納得がいった。母親が所持していた本なら結架はどんな内容でも読むだろう。

 鞍木の父と結架の父は仕事上の知己しりあいで、懇意にしていた。だから結架の父親のことなら鞍木もよく知っている。だが、結架の母親のことは、鞍木の両親も、鞍木自身も、よくは知らないのである。それは彼女が生まれつき病弱であり、とくに当時は容態が悪化していたために面会謝絶の状態だったからなのであるが。

 結架の両親が亡くなったのは彼女が七歳になる直前だった。ということは、つまり彼女は物心がついてからとしても少なくとも四年ほどは共に過ごしたのであろう母のことを、ほとんど憶えていないということになる。それは鞍木も奇妙に思わないでもなかった。だが、それは結架が父親に連れられてたびたびヨーロッパに渡り暮らしていたことに加えて、結架と彼女の母親が同じ持病に苦しんでいたからだと聞いている。

 生まれてから五年間、結架はたびたび起こっていた発作と、その合間を縫って行われる容赦なく厳しい父の音楽教育レッスン、ヨーロッパ諸国での著名演奏家の舞台で触れた感動と興奮、そして、日本の自宅の一室で日本語を話す女性の——おそらくは母の——声だけしか憶えていないという。それから一年と一〇箇月ほどの記憶は、ピアノを弾いていたことと兄や鞍木と遊んだこと、自分を呼ぶ母の(だろう)声、と、そのぐらいの記憶しかないらしい。けれども我が身を省みれば、鞍木とて、その年ごろの自分の記憶など、たいして鮮明ではない。ただ、なにかの拍子にパッと思い出すときもある。それが結架には少ないというだけのことなのだ。

 鞍木が知っている幼少期の結架は、病気などはねのけてしまいそうなほど元気で、邸を駆けまわる活発な子だった。無意識に体を庇っていると思うこともあるにはあったが、彼女が鞍木の前で発作を起こしたのは初めて会ったとき、ただ一度きりだった。

「そういえば、鞍木さん」

「えっ? ああ、なんだい?」

 追憶に心を任せきっていた鞍木は、回廊を巡って舞い上がっていく、耳に心地よい結架の声に、夢から醒めた顔をした。

 白く細い指が、札を指し示している。

「ここの地下室に、シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』の、ジュリエットの墳墓があるのですって」

 言いながら、結架は床に目を落とす。

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