第1場 序曲——邂逅 (5)

「修道院といっても、いろいろなんだな。ただ、敵対というほどではなくても、フランチェスコ会とドメーニコ会に確執があったことは事実なんだろう」

 その確認に、結架は断言を避けた。

「……そうね、どうかしら。ドメーニコ会は異端を改宗させる熱狂的な色が濃くて、闘争的だったらしいから。いい例が、スペイン人礼拝堂の壁画だわ」

「さっきも言っていたな。その壁画は、いったい、どんな絵なんだ?」

 その質問に結架は沈黙した。

 絵画について説明をすることは、題材となるもの、小道具、背景、人物の背後事情や象徴、伝承などが複雑に絡みあっていて、話の焦点がぼやけないように説明するには、あるていど知識を咀嚼してから伝える必要があると思われた。なにを省き、なにを丁寧に語るかで、彼の質問が注目している点の答えが明らかになるかどうかが決まる。

 慎重に情報を整理しながら、細くて長い、白い足を踏み出し、サンフランチェスコ・アル・コルソ聖堂へ、ゆっくりと進んでいく。

 鞍木は結架と歩調を合わせながら、考えをまとめるのに注意が削がれている彼女が行き交う歩行者とぶつかることのないよう、周囲に気を配った。そして、背後の気配に気がついた。

 観光客たちだろう。団体の人垣だ。案内人の持っている黄色い旗が、中世の馨る風に吹かれ、はためいている。

 日本で、ごくたまに結架に付き添って歩くときと違い、人はあまり鞍木をじろじろ見ない。見たとしても、それはやわらかな視線で、何故かと問うようなものではない。精巧な人形のようにも見える結架に付き従う鞍木を、彼女のなにかと問うような。

 あたりまえだが、美しい女性をエスコートする男性は、人から注視されるものだ。

 鞍木は自分がそれほど魅力的な容姿を持っているわけではないことを承知している。ほかに目を奪うものも持っていない。ただ、彼は結架を護る義務を自らに課していた。彼女のマネージャーとなる以前から、また、その職務の範囲以上に、なんの見返りも報酬も期待することなく。

 彼はかつて、この世で最も大切とする人間に彼女を護ると誓ったのだ。それから、この世で最も愛する者に。結架の安全とともに、安息をも護ると。それは仕事上の問題、生活上の問題、ありとあらゆる問題を含んでいる。こうして道を無事に通行することさえ。

 サンフランチェスコ・アル・コルソ聖堂は簡素でありながらも端正な造りで、決して中世建築として貧弱ではない。

 敷地内は、ひんやりとした厳かな空気で充満しており、優しく、長い歴史じかんに亘って捧げられてきた、沢山の人々の祈りをいだいていた。

 救われた者も、救われないままに命を奪われた者も、ここで誰かの為に祈っていたのだろうか。そう思うと、不信心な鞍木でさえ、敬虔な気持ちになる。祈ることで誰かを救えるのなら、鞍木は今頃、神の御許しゅうどういんで暮らす者になっている。

「……きれいね」

 結架の囁きに、鞍木は一瞬、我を忘れた。

 みどりをおびた茶色い瞳が、感激に輝く。

「誰かを救いたいとねがっている人間同士が、どうして争ったり反目したりするのかしらね。ひとって、そういう生き物なのかしら」

 少し悲しげで、それでいて非現実的な声質こえだった。それは決して大きな声付きではないのに、堂内にやわらかく響き、広がっていく。それは神の内に満ちる慈悲と森厳さ、そのものだった。

 そのとき、不意に振り向いた結架の瞳が潤んでいるのを見て、鞍木は、どきりとした。この、厳格なまでに清浄な場所で、純真可憐としかいいようのない彼女のが、こんなにも艶麗さに満ちた光を含むとは。本人が、まったくの無自覚に放つ妖艶さであるがゆえに、それは、収まるのにも時間を要した。

「……フランチェスコ会の衣は——清貧を理念にしていたことから——いっさい染色していない素朴な茶色だったの。対して聖ドメーニコの聖者の衣の色は黒と白に定められていたわ。フィレンツェの聖母サンタマリーア・ノヴェッラ教会堂の敷地内に建つスペイン人大礼拝堂の壁に描かれている絵は、明らかに、それを意図して描かれたものよ。題材としては、キリスト教徒の救済と、異教と戦うドメーニコ派、そして、一四の美徳」

 鞍木は面食らった。結架のその言葉が、先ほどの自分の問いに答えるものだと気づいたとき、彼女は再び身を翻して歩みを進めていた。

 かつんかつんと結架の靴が石を叩く。

 通りぬけるようにして出ていこうとする人々のあいだを進み、彼女は彼らの賞賛のまなざしにまったく気づくことなく、堂内の中心へと向かった。

 鞍木は立ち止まったまま、結架の、今にも翼が生えてきそうな背中を注視した。細く頼りなげでいながらも、優艶なる姿。聖堂内の清らかさにも圧されることのない精美。

 たとえば、いまここで、本当にそんな奇蹟が起こったとしても、鞍木は驚かない。ずっと昔、そんな夢を視た夜があったが、そのときも、別に驚かなかった。彼には寧ろ、結架が人間であることの方がずっと不思議に思えるのだ。その彼女の方に歩き出しながら、鞍木は声を押し出す。

「服の色が、どう関係してるんだ?」

 レースの襟が胸もとを飾る白いブラウスに、胡桃色のスカート。今日の結架の服装だ。若い娘にしては地味だが、彼女の清楚な雰囲気には合っている。

 聖堂の天井に向けて顔を上げた結架の、艶やかな前髪が見えた。

「壁画に描かれている人々は、頭部に光輪を戴いた二人の聖人、聖ドメーニコと、聖トンマーゾ・ダ・アクィーノ。『神曲』を著した詩聖ダンテや彼と所縁のある詩人ペトラルカ、自らの人生も作品として語った『デカメローネ』の作者ボッカッチョ、それから彼らの寓意の女性であるベアトリーチェにラウラ……ええと……あとはフィアンメッタ、だったかしら? 代表的な人物でも、これだけ描かれているはずよ」

 まことに錚々たる顔ぶれである。当時の人々にとって、全員が高名な人物だ。

「ダンテの青年時代のころから、聖フランチェスコ会のサンタクローチェ教会堂も聖ドメーニコ会の聖母サンタマリーア・ノヴェッラ教会堂も、ある意味では大学のような役割を果たしていて、神学をはじめとした講座を開いていたそうよ。

 芸術や文学は宗教のもとで育ったから、彼らも聖ドメーニコと聖トンマーゾ・ダ・アクィーノと同じように、信仰を讃え、人々に教えを広めた存在として、同じ壁面に描かれたのかもしれないわ。おまけに、フィレンツェでしょう。あの、芸術の庇護者、メーディチ家の都ですもの」

 元、とはいえ聖堂内なので、結架の声は低く、静かに抑えられている。しかし、声色せいしょくは活き活きとした情熱に輝いていた。

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