第5場 盃のみが知る懸想(1)

 その日は演奏会までの各自と全体のスケジュールなどを詳しく打ち合わせただけで楽器を出すことはなく、親睦会が開かれた。

 イタリアの夕食時間はヨーロッパ諸国のなかでも遅いほうに分類される。仕事を終えて、午後六時ごろにレストランに出向くと、二時間ほども待たなければ席につけない店すらある。そして、日づけが変わるころまで大いに飲んで、語って、食す……というのがイタリア人なのだ。

 つまり、まだレストランは開いていない。

 そこでミレイチェが知り合いの経営している酒場に行くことを提案した。隣にはレストランがあるということと、店内の詳しい特徴などを説明され、なかなかに落ちつけるだろう店だと判断した皆は揃って訪れることにした。案内役兼、通訳兼、運転手として同行することをミレイチェが申し出て、易く受け入れられた。しかし、鞍木は半分は気を回したのだろうが上司でもある自分の父親と連絡を取る必要があるからと辞退して、先にホテルへ帰って行った。

 結架は、皆や鞍木の意見に異論はなかったが、少し気が咎めた。積極的に楽しい時間を過ごそうとするのは歓迎できない。自分だけ皆と親しくなりすぎるのは、極力避けたほうが善いのだ。とくに、集一に接近するのは好ましくない。だが、その比類なき美貌に加えて、周囲の人から警戒心を消し去らせてしまう、現実味が無くなるほどに優しげな雰囲気を持ち備える青年に近づかないようにするというのは、結架には相当に難しいことだった。さらに同じ日本人で、彼女の既視感覚パラノイアを煽るようなところのある彼は、結架の心を揺さぶった。ヴェローナで出逢ったときに感じたことは、もう信じていなかったものの。

 ──そうよ。は、オーボエ奏者ではないはずだもの。

 そして、異性づきあいに疎く、近ごろは交友関係が甚だ浅い結架にしてみれば、人一倍に友好的なマルガリータの誘いを拒んで集一が参加している親睦会に欠席する度胸も口実もあるわけがなく、彼を徹底的に避けるなど、無理な話なのであった。

 時刻は午後七時を数分過ぎたころ。バロック時代に書かれたオーボエ協奏曲を奏でるためだけに結成された、珍奇な楽団の仲間たち、総勢一三名は、雑務を取り仕切る役目を任されたミレイチェの案内で、酒場へと向かっていた。

 広い車内は、浮き浮きとした男女たちが音楽や芸術の世界を語る熱っぽい声で埋まっている。自信に満ちた、騒々しいまでの応酬を聞きながら、結架には彼らが別世界の住人のように感じられた。不思議の世界へ迷いこんだアリスだって、これほどの孤独感は無かっただろう。寧ろ、好奇心と冒険心でわくわくしていたに違いない。

 ──ここは、私のいるべき世界ではないのかもしれない。

 それでも、結架は自分が〝いるべき世界〟に帰りたくはなかった。

 情熱に燃えさかる口調、穏やかながらも確固たる声質、頑迷で強い語調。そうした賑わしさのなかで、ひとり静かに微笑みながら、語り合う仲間たちを興味深げに観ている集一の所作が、結架には気になった。彼は実に自然に、大衆の中の孤独を演じている。それでいて、決して塞いでいるのではない。言葉をかけられれば応じるし、時折り、確かに笑ってもいるし、交流には加わっている。

「ねえ、ユイカは? どう思う?」

 突然に話しかけてきた声の主に、結架は慌てて顔を向けた。

「えっ? 何ですの?」

「いやぁね。聞いてなかったの?」

「ごめんなさい。なんだかぼうっとしてしまって……」

 マルガリータは意識的に呆れた顔をする。

「まあ、しょうがない。どうせシューイチに見蕩れてでもいたんでしょう?」

「そっ……そんなこと!」

 目を見開いた結架を見ると、マルガリータはつい、意地悪をしたくなってしまう。

「初対面のときだって、なにか二人だけで話していたでしょう。あれってなんだったのかしらねえ? 日本語で話していれば皆には解らないもの。ミスター・クラキも可成り驚いていたみたいに見えたけど、どうしてなのかしら?」

「それは……」

「あら、いいのよ。心当たりがないのなら、シューイチにも尋ねてみましょう」

「何ですか?」

 マルガリータにとって都合の良いことに、そして結架にとっては都合の悪いことに、いまの二人の会話を漏れ聞いた集一が、二人をまっすぐ見ていた。結架はこれ以上ないほど慌て、マルガリータは止められる前にと早口で言った。

「ユイカがね。あなたに見蕩れていたようだったから。それと先刻さっき、挨拶する前に、あなたたち二人で何か話していたようだけど、あれは何だったのかしら……と、気になってね」

「え……」

「マルガリータ……っ」

 集一に視線を向けられ、結架は身がすくんだ。彼が自分を見ていると思うだけで、彼女は居心地が悪くなってくる。動悸が全身を揺らしそうだ。

 いつの間にか、車内の人々の視線は結架に集まっていた。彼女の焦った声を聞きつけて、何事だろうと思ったのだ。注目を浴びた結架の頬は、淡く紅潮している。

「どうしたの?」

 カルミレッリが誰にでもなく問う。それはほぼ全員の疑問でもあっただろう。疑問に答えたのは、またもやマルガリータだった。全員、とくに意外とも思わないようで、しきりに結架を見てはうなずく。結架は状況に戸惑った。つい先般までは、自分と皆との間にガラスの板が張られているように感じていたのに、気づかないうちに何処かからマルガリータが入ってきて、集一が入ってきて、我に返れば自分が中心に座っている。

 幸いにも、全員が興味津々というわけではなく、なかにはマルガリータの説明を聞くなり無関心になって中断した会話に戻る者たちもいたが、カルミレッリやアンソニー、レーシェンは、程度の差はあれ、関心を持った。

「ふうん。そうなんだ?」

 少し醒めた口調でカルミレッリが結架を見やる。彼女のほうは冷めようとしても無理だろう。そんな余裕を失っていた。

「それは、私、なにもそんな……お一人にではなくて、貴方や、マルガリータやレーシェンも……とても綺麗な方だと」

「あら! それは嬉しいこと。まあ、真実ですけどね」

「臆面もなく言うのね、貴女は。少しははずかしいとは思わないの?」

「そりゃあ、思うわよ。こんなに美人だっていうのに恋人がいないなんて、まったく。いくらつりあわないからっていっても、門前払いのしすぎかしらね」

 本気で言っているのだろうか。カルミレッリと集一は反応に迷い、閉口してしまう。レーシェンとアンソニーは辟易と失調、結架はというと、話題が自分から逸れたことに安堵の表情を浮かべていた。ところが気を緩めるのはまだ早かった。

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