第1場 序曲——邂逅 ③

 二人は聖堂から出るとアディジェ川に沿って進み、ものすごい混雑の道を避けながらコムーネ宮、エルベ広場近くまで戻って繁華街マッツィーニ野外劇場アレーナへと向かった。二万五千人を収容する巨大円形競技場は、夏のオペラ上演の準備で立入禁止となっている。

「……ああ、もうすぐ、開幕するんだね。今年は——プッチーニの『トゥーランドット』か——」

 看板の柱から伸びた黄色いロープを、鞍木は恨めしそうに眺めやった。

 一九一三年にヴェルディの作曲した、エチオピア王女の悲恋物語『アイーダ』で開幕した夏のオペラ・シーズンは、今では毎年、主要行事として大いに盛り上がっているのだ。以来、『アイーダ』が劇場の目玉となっているが、今年上演の『トゥーランドット』も、ビゼー作曲の『カルメン』と並んで人気のレパートリーであるという。

「残念ね、鞍木さん。夏のシーズンは七月中旬から八月下旬までだから、私たちには到底、観るなんて不可能だわ。もう少し後だったら、なんとか観られたのでしょうけれど」

 鞍木は軽い笑い声で応える。

「ま、次の機会に期待するさ。大がかりな舞台装置や斬新な演出とやらを味わう絶好の機会だと思っていたんだが、ね。惜しいけど、また今度」

 そう言いつつ、腕を組み、鞍木は尚もぼやいた。

「ああ、でも、本当に残念だなぁ。開演合図の銅鑼を聞きつつ蝋燭を手に、劇場内を探索してみたかったのに」

 すると、ころころと玲瓏たる笑い声が耳に心地よく響いた。

「鞍木さんたら。二万五千人もの大観衆が犇くなかで、蝋燭なんて持って歩けっこないわ」

 可笑しそうに笑う結架に、鞍木は微笑んで見せた。

「だから、銅鑼は兎も角、観客が入場する前の会場整理の確認としてなら……ね」

 つまり結架が、この古代円形競技場兼野外劇場での仕事を得れば鞍木の希望が叶うというわけで、要するに、彼は結架に、もっと沢山の契約を結んで有名になれと言いたいらしい。そうすれば運良くこの劇場で演奏する楽団関係者の目に留まって声をかけられるかもしれない。

 結架は困ったように笑いながら、「それは無理よ」という言葉を飲みこんだ。そもそも、チェンバリストには難しいだろう。

「たしかに、素敵な考えね。でも、おじさまに知られては駄目よ。職務上怠慢と叱られてしまうかもしれないわ」

 戯けたように、結架は首を傾げる。

 ブラ広場の人波を、彼女は風にはためく捉え所のない旗でも避けるように、すいすいと、迷わず すり抜けて行く。鞍木にはついて行くのもやっとだというのに。

 人の群集を抜け、歩きながら反論した。

「いやだな。そういうのは、職務上役得というのだよ」

「まあ」

 振り返りもせず、そう言うと、突如いきなり結架は立ち止まった。そうして、追いついた鞍木には全く無関心で首だけを回し、劇場のほうに視線を飛ばした。

れるといいのにね、あの劇場で……」

 囁くように言った。

「私にかぎらず」

 その心情が窺えて、鞍木は黙って彼女から目を逸らす。暫く言うべき言葉を探したが、結局は適当なものが見当たらず、彼は口だけを、もごもごと動かした。

 返事を期待していなかったのか、それとも返答を諦めたのか、結架は気持ちをきりかえるのと同時に振りむいて、鞍木に明るい笑顔を見せた。

 屈託がないだけに、それは彼の胸を痛ませる。

「今日は、ここでおしまい?」

「いや——サン・フランチェスコ・アル・コルソ聖堂にも行こうと思ってる。清貧を説いた聖人、フランチェスコ派の元教会だそうだ」

「フランチェスコって、あの聖フランチェスコのことよね。アッシージ生まれの聖人でしょう」

 鞍木は思わず地図を広げる。教会や美術館などの位置に加え、最低限の案内が書きこまれている。

「聖フランチェスコ……そうだな、その名は地図にも書いてあるが……詳しいことは書いてない」

 結架が小さく呟きだす。聖ゲオルギウスについて語ったよりも、はるかに詳しく。

「一一八二年に、イタリア中部ウンブリア州の都市、アッシージの、織物商を営む裕福な家に生まれた聖人。キリストと同じく、馬小屋で産声をあげたといわれる……」

 結架は、よどみなく頭の中の情報を探し出す時間も必要としていないかのようにすらすらと語った。それは、日ごろから記憶の海の波間に浮かんで、いつでもやすやすと掬いとれる類のものではなく、よほど強く記憶に焼きつけておかないかぎり、必要なときにすぐさま正確に思い出せるほど ありふれたものとは思えない。

 しかし、彼女は詩でもそらんじるように視線を彼方に飛ばし、解説をはじめた。

「聖フランチェスコは、若いころ、気前のよい親分肌の性質から、荒れた日々を送っていたの。アッシージ青年団の重要人物で、法皇派グエルフィの都市ペルージャに敗北したことから、一年ものあいだ、牢に囚われていたことがあったそうよ。父親のおかげで釈放された後に病気になって、それまでの自分を反省したのね。信仰の道に進む決心をした」

 そして、ある日、フランチェスコが聖ダミアーノ教会で祈りを捧げていると、十字架像から天の声が彼の耳に届き、神託を宣った。

「行け、フランチェスコよ! 崩れゆく、我が家を守りたまえ」

 この託宣に、さらなる回心を決意したフランチェスコは、使徒に倣って清貧に徹し、高価な衣服を貧者のそれと交換したり、父親の財産や商品を持ち出しては施しをしたりと慈善に傾倒した。それが足りなくなると、ついには喜捨を乞う托鉢を始める。

 なにも知らない彼の父親は仰天して、なにを考えているのか皆目わからない息子を叱責した。

 ——親に養われている身の おまえが、何を馬鹿な真似を。これまでずっと、何不自由のない生活をしてきて、あたたかい家も、豪勢な食事も、身につける衣服さえも私に買い与えられているような おまえの いましていることは、所詮は綺麗事にすぎない。放蕩であれ、喜捨であれ、おまえが これまで我がもののようにばら撒いた金銭は、おまえの手が稼いだものではないのだから——。

「こう言われて、彼は皆の目の前で、着ていた服をすべて脱ぎ捨てて父親に差し出したのだそうよ。そうすることで自らの覚悟を示したのね」

 平然と結架はそう言った。

 鞍木には、彼女のそんな様子のほうが、聖フランチェスコの行動よりも驚きだった。日本では、こんな発言、このような表現を彼女の口から聞くことはないだろう。

「すべて?」

「そう、すべて」

 こうして過去のみならず、家族とも決別した彼は、正統派と異端諸派との狭間にある托鉢修道会を、スペイン生まれの聖ドメーニコと、ほぼ同時期に結成した。

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