第1場 序曲——邂逅 ②
結架と鞍木はデッラ・スカーラ家の歴代墓廟、それからサンタ・アナスタージャ聖堂の見学に行った。ここは
ここには、ピーザァ出身の画家であるピサネッロ、本名アントーニオ・ピサーノの円熟期の作品、『聖ゲオルギウスの生涯』がある。イタリアではサン・ジョルジョと呼ばれる この聖人は、ドラゴン退治で有名だ。カッパドキア——いまのトルコ——に生まれた彼は、セルビオスでドラゴンの生贄となる籤に当たってしまった王女を救い、住民たちをキリスト教徒に改宗させた。そう説明した結架に、鞍木が呟く。
「エチオピア王女、アンドロメダを海の怪物から救った、ペルセウスみたいだ」
神の威光を示すのに、怪物退治は効果絶大であったろう。絶対の正義こそ、迷える者、怯える者を導く。
「ペルセウス……ギリシャの英雄……?」
結架が首をかしげる。
鞍木はペルセウスについて説明した。
「神々の王ゼウスと、アルゴス王女であるダナエの息子だ。
神託で、ダナエの生む王子は祖父を殺すと云われていた。そこでアルゴスの王は娘のダナエを幽閉していたんだが、ゼウスは黄金の雨になって空気穴から侵入し、彼女を懐妊させた。父王は可愛い娘と人間の子とは思えない孫を殺せず、箱に閉じこめて川に流し、二人は島に漂着した。その島でペルセウスは成長したが、そこの領主がダナエに言い寄るようになって、彼にメドゥーサという怪物を退治してこいと言って追いはらう。
メドゥーサは、ゴルゴン姉妹という三人の美人姉妹のうち末の娘で、ゼウスの娘であるアテナよりも自分のほうが美しい髪を持っていると自慢したせいで怒った女神に醜く変えられてしまった怪物だ。もともとはポセイドンの愛人だったらしい。だが、アテナの呪いで自慢した髪は蛇に変えられ、見交わしたものを石に変えてしまう呪いに縛られることになった」
つまり、メドゥーサと視線を交わせば、命はない。
「愛するものと見つめあうことも出来なくなったのね」
あまりに むごい罰だ。
結架は悲しげに表情を強張らせた。だが、こういった、不敬罪に対する神の仮借ない仕打ちは、ギリシャ神話には数多く見られる。
織物の腕前を知恵と戦の女神アテナと競ったうえに神々を揶揄する図案を織って怒りを買い、蜘蛛の姿に変えられたアラクネ。
豊穣の女神デメテルの聖なる森の木々を伐った罪で自身の肉体をも食むほどの飢餓に取り憑かれたエリュシクトン。
月の女神アルテミスの水浴に居合わせて彼女の裸身を目にしてしまったために鹿に姿を変えられ、自らの従えていた猟犬に八つ裂きにされた狩人アクタイオン……。
説明しだすと長くなるので、鞍木はそれらを省くことにした。
「そうだ。その怪物を討ち取ってこいと言われたペルセウスは、ゼウスの息子なわけだから、神の庇護がある。
アテナとヘルメスという、いわば母親違いの姉や兄にあたる神に、鏡のような盾と空飛ぶ靴を貸し与えられて、母親を護るためにメドゥーサ討伐に行くわけだ」
それを成功させて母のもとに帰る途中、ペルセウスは、生贄とされて海岸に繋がれたアンドロメダを見つける。
不敬という罪によって海神ポセイドンの怒りに触れた母、カシオペイアの傲慢を引き起こした、そもそもの原因ともいえる美女、アンドロメダを、彼女への罰として食い殺そうとしていた、鯨ともいわれる怪物。
神が罰として放った、その怪物を、メドゥーサ退治からの帰路に居合わせた神の血を引くペルセウスは、斬首して携えていたメドゥーサの眼光で石化して倒したのだ。その英雄を、一八世紀後半から一九世紀前半、彫刻家アントーニオ・カノーヴァが、勇壮で凛々しい見事な像に彫り上げている。メドゥーサの首級を掲げるペルセウス像。それはバチカン美術館に所蔵されており、この伝説がキリスト教徒、殊にカトリック教徒にとって聖ゲオルギウスの偉業との相似性と寓意的な価値を持っているだろうことを想像させる。
遡ることおよそ三世紀。度重なる十字軍の失敗で揺らぎ衰えてしまった教会の権威を回復させるだけでなく、カトリック教徒としての人間の文化繁栄を極める基盤を新たに古代ローマ時代の自由な文化思想に見いだそうとしていた教皇ユリウス二世は、ヴァティカンにルネッサンス盛期の風を、ミケランジェロら不世出の芸術家たちとともに薫り高く吹かせた。枢機卿であったころからローマ古代彫刻を蒐集していたユリウス二世こそ、今日のヴァティカン美術館創設の基礎を生んだ人物である。そのころ、ギリシャ=ローマ神話は経典ではなく文芸書に書かれるものであり、美しい肉体と人間的な精神を持つ神々と精霊を理想としていた。そして、そうした世にも美しい芸術の威光は、長らくキリスト教を迫害していた、あの強大なローマ帝国も最後にはキリストの奇蹟に救われたのだと、そう広めるのに役立ったのだろう。史実はキリスト教の勝利にある、と。
また、ペルセウスの神話には、教会の理想と重なる部分が垣間見られる。
海神の娘よりはるかに美しいと母に言わしめたアンドロメダを、メドゥーサの呪いによって救ったペルセウスは、妻に迎える。それは、他者をその命を救って従属させたという意味において、
セルビオスのドラゴンは、世界をあまねく統べる絶対の神が万物を見通して、聖ゲオルギウスに倒されるよう、出現をおゆるしになったのであろうから。
そうした主題を描くのに、ピサネッロは一〇〇枚を超える素描習作を重ねたという。ただドラゴンを退治してキリスト教として勝利した、というだけではない、細部まで、綿密に考察された表現。
結架は、ドラゴン退治に向かう聖人と生贄の王女の絵を見た。
荘厳さに満ちながら、背景や人物、馬、犬は静かに存在感を放つ。それでいて実在性をもつ個々が全体となったとたん、夢のように美しい幻想的な印象を抱かせるのだ。その華麗で非現実的な世界から醸し出される特異な雰囲気に呑まれて、そして絵画全体から放たれる威に打たれて、結架は平素よりもさらに寡黙になってしまった。鞍木も同様に、黙りこむ。ただし、その理由はまるで違っていたが。
圧倒的な美というものが、生身の脈をもって確かにこの世に存在する不思議を、鞍木はつくづく考えた。まったく、結架はこの景色に、見事に溶けこんでいる。
「……世界の神話や物語は、いたるところで結びつくのね」
鞍木にも聞こえないほど小さな声で囁き、結架は暫く、ピサネッロの描いた場面から聞こえる音を聴き取ろうと、画面を見つめた。
「そろそろ行こうか」
鞍木が促すまで、彼女は くぎづけになっていた。
「はい」
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