第一幕

第1場 序曲——邂逅 ①

 ——音楽を追い求める者よ、伊太利へ行け。さすれば汝の道は拓かれん——。

 この言葉を胸に、結架ゆいかは自立の道を踏み出したのだった。

 イタリアに赴くのは初めてではない。だから大丈夫だと何度も言いきかせ、期待の足を引く不安を打ち消す。

 結架はチェンバロ奏者である。

 チェンバロとはピアノの前身と云われる鍵盤楽器で、一六〇〇年〜一七五〇年にかけての、所謂いわゆるバロック時代に活躍した宮廷楽器である。キイを押すと、鳥の羽軸や皮で出来たツメが弦を引っ掛けて弾き音を出す仕組みなのだが、その為に、タッチによる音の変化は望めない。しかし、その独特の音色や響きは典雅にして優美なことこのうえなく、結架の寵愛を受ける楽器としては申し分なかった。

 愛情深く育てられてきた結架は、音楽家としての仕事を受けるときにも、家族から離れたことがない。過保護なほどに護られてきた。しかし、今回は別々の仕事なのだ。おまけに外国である。

 家族ぐるみの長い付き合いもあるマネージャーが一緒でなければ、もっと不安だっただろう。

 加えて、この数年間、二重奏や三重奏でしか演奏してこなかった結架には、久しぶりの大きい編成での演奏会だ。つまりは、関わる人間も多くなる。さらには、さまざまな事情から、今回は長い滞在となる。

 不安、期待、恐れ、歓び。

 いろいろな感情が混ざって落ちつかない。

 イタリア北部の街ヴェローナに着いたのは、七月七日。折しも日本では七夕と習わされている日。

「鞍木さん、本当に良いの?」

 結架はマネージャーの鞍木くらき興甫こうすけと、彼の運転する白い乗用車に乗っていた。目的地はここではない。

 信号に従って停車し、鞍木は軽い口調をつくった。

「たまには君も、外国なんかで観光するのもよいと思って、わざと間違えたのさ」

 態と——。

 結架は最初、ただ驚きを顔に表した。その美しい目もとと唇に、唖然とした、信じられないというような表情が浮かび、やがて、ゆるやかに微笑の兆しを示していく。

 そうしたのち、結架は朗らかに言った。

「まあ。あなたも叱られてしまうわよ」

 声の明るさには、瞳の暗さが窺えない。

「勿論、君の所為になんてしやしないさ。これでも おれは善良な人間でいるつもりだからね」

「そうね。その善良な あなたが、まさか、態と間違えて、私をヴェローナに連れて来たなんて。みんなが、私が騙されたのではないかと あなたを責めたら、どうなさるの?」

 珍しく皮肉っぽく結架がそう言ってやると、鞍木は右手をハンドルから離して自分の鼻の頭を掻いた。

 演奏会が行われるのはヴェローナではなく、トリーノである。結架がそれを知ったのは、つい先刻だった。

「それじゃ、すぐにでも、トリーノに向かおうか」

 信号が青に変わる。

 この仕事に就くことを決意したときから、鞍木は英語の勉強に励んできた。同じ理由から、左ハンドルのマニュアル・トランスミッション型自動車を運転するのに不自由を感じることのないよう、一八歳で運転免許証を取得したとき、国際免許も同時に手にして、機会があるたびに欧米での運転に必要な知識と経験を積んできた。その成果でアクセルとクラッチ、ギアを習熟した手つきで操作して笑みを浮かべながら問いかけてきた鞍木に、結架は慌てて首を横に振る。

「いいの! 私、喜んで騙されるわ!」

 その返答に、今度は鞍木が笑いだした。普通なら、怒り出すか拗ねるかしてもおかしくない。こうも素直に騙されるなどと言えるとは、全く純真な娘だ。

 結架はついこの六月に二三歳になったばかりである。だが、身体的にも大人として成熟している年齢に達しているのにもかかわらず、彼女は未だ少女のような部分を多く持っていた。

 若々しく、底抜けのように明るい、華やかな笑いを放つ結架は鞍木にとって、まるで自分自身の妹であるようにも感じられる。気難しい家族とは似ても似つかない、彼女の性格には好感を持てたし、我を忘れて見蕩れてしまうほど美しい容姿に不快さを感じるなど、あり得なかったからだ。かといって、鞍木は結架の家族が嫌いなわけでは決してない。確かに付き合いにくい部分もあるだろうが、彼らとて人間である。人間であるからには多少の欠点にも寛容さで接する覚悟が要る。完璧な友人を持っている者などいやしない。

 それを鞍木は固く信じていた。

 エルベ広場に雑然と並んだ日除け傘を車窓から見てから、鞍木は駐車場を見つけた。イタリアでは、一人でも多くのドライバーが駐車できるように、ぎりぎりまで近づけて車を停める者がしばしばいる。その位置から出ていくには前後の車を自分の車で押し動かして強引に隙間を作る必要がある。当然、誰の車も傷だらけ、へこみだらけである。車の保護も保証されるような駐車場に停めることの出来ない人間は、多少の愛車の傷みには目を瞑るほかない。

 鞍木が借りた車は比較的、傷が少ないが、それでもそうした形跡があった。

「やれやれ、日本じゃ考えられないな」

 呟くと、結架が小さく笑った。昔、ヴェネツィアに留学していた彼女も、勿論、その理由を知っている。

「ぶつけて傷をつけないように車間を開けて停めるのも、できるだけ多くの人が駐車できるように密着させて停めるのも、どちらも思いやりからの判断なのよね」

 優しい声で鞍木に応えた彼女の笑顔は明朗で、あたたかい。たぶん、結架にとっては、どちらの思いやりも難無く理解できるのだろう。

 目の前のものを決して否定から見ないのは彼女の備える美徳のひとつだ。だから、彼女は誰のことも非難したことがないのだろう。見えていない別の面になんらかの事情があるのではないかと考えて、責められない。

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