3.idle

 中学校の校門近くには、あふれるぐらいの桜の木が植わっている。その年の春は開花が早くて、入学式の頃にはもう満開を超えて散り始めの花びらが地面に抽象画の模様を描いていた。昨日の夜中に少しだけ雨が降ったせいで、道路の端にできた水溜りにうすピンクの花びらが幾枚か、やるせなさそうに縮こまっている。

 昇りきらない四月のおわりの太陽の光は暖かくて、昨日の雨のせいか吹く風は少し冷たい。徒歩三十分の通学時間が苦痛じゃなくなる貴重な季節だけど、この春独特の空気と匂いを嗅ぐとわくわくするのと同じぐらい、なぜだか胸が詰まったような苦しい感じにもなる。



 教室のドアを開けると、いちばん後ろの窓際の席に矢橋咲良がいた。机に座って足を組み、外を見る横顔に長い睫毛の影が落ちている。

 私はいつもかなり早く登校するので、先に誰か来ていることはほとんどない。それに、矢橋さんはホームルームの始まるギリギリに学校に来ることが多いのに。戸惑いつつもドアを後ろ手に閉めた音で、矢橋さんが振り返った。


 「おはよう」

 「お、おはよう」


 どもってしまった。正直、彼女に話しかけられたことに私はびっくりしていた。

 新しいクラスにも、一ヶ月もすれば人間関係の相関図ができてくる。ギャル、不良、人気者、普通、まじめグループ、おたくグループ。いわゆる類友な感じでだいたい仲良くなる子は同じ系統だから、今年も順当にグループ分けされて、それはそれで平和な光景だった。

 矢橋さんは、私が勝手に言うなら人気者ちょいギャル寄り、な立場。女子の学級委員をやってる山本さんたちとだいたい一緒にいるけど、もっと派手なグループの子とも仲がいい。

 それに比べて私ときたら制服は完璧規定内の膝丈スカートにすっぴん、瓶底メガネの冴えないグループ代表な見た目で、別に派手にしなくてもいいかという確固たる(?)思いのもとその格好を選択しているのが事実だとしても、矢橋さんみたいな人には、親しく(って、ただ挨拶しただけだけど)会話を交わすような対象じゃないと思っていた。

 というわけで私がびっくりしていると、矢橋さんはさらに言葉を紡いだ。


 「加藤さん、いつもこんなに早いの?」


 矢橋さんは少し掠れたアルトの声。私は地味な外見と真逆に声が高くて早口だから、彼女のような低くてゆっくりのしゃべり方に憧れる。

 う、うん、とまた若干どもってしまったところにガラッと大きな音を立ててドアが開き、何人かの女子が入ってきた。矢橋さんは彼女たちとおはよう、と挨拶を交わし、私も一応の挨拶を交わして、なんとなくその場を離れた。



 矢橋さんのことを、私は入学当時から知っていた。綺麗な子だなぁ、とも。それと同時に、平等という名目で同じ教室の中に放り込まれた人間たちに無意識に課せられるグループ化とランク付けという現実に対しても以前からほんのりと理解していたので、彼女と私が数メートルの空間にいたとして交わり合わないであろうことも知っていたつもりだった。

 でも、彼女が傍を通ったり、アルトの声で笑い声を響かせたりするとき、私はまるで恋しているかのようにどきっとするのだ。三年になって同じクラスになってから、なんとなく目で追ってしまう。

 いうなれば彼女は、私にとってアイドルのような存在なのかもしれない。


 アイドルとは、偶像。

 彼女のほんの表面的な姿しか、私は知らないというのに。

 だけど、大抵の人間関係なんてそんなものなのかもしれない。それでも楽しめたら、それが本物な気がする。


 そんなことをつらつらと考えながら、無難に一日を過ごす。授業が終わり、掃除をこなし、ホームルームが終わるころには、地面もすっかり乾いていた。

 鞄に教科書類を詰めて、さあ帰ろうかと立ち上がったところ、アルトの声がまた私を呼び止めた。


 「加藤さん」

 「はい」


 今度はどもらずに返事をした。敬語だけど。


 「今日、部活?」

 「ううん、今日は違う。部活は火、木、土だから」

 「何部だっけ」

 「美術部……だけど」


 なぜ?と言いかけたけど、会話の流れがあまりに自然すぎて、聞きそびれた。


 「部活、ないなら、ちょっと喋らない?」

 「あ、うん」


 取り敢えずそのまますとんと座りなおしたら、矢橋さんはふふっと笑った。


 遠巻きにして笑ってたりする仲間がいないなんて確認しちゃうあたり、私もいい加減卑屈。だけどそんなこともなくて、放課後の教室に二人っきりになって外が真っ暗になるまで、矢橋さんと私はほんとに他愛のない色んな話をした。

 さくらという名前が素敵だね、と言ったら、矢橋さんは名前覚えててくれたんだ、と言って驚いたように笑った。


 「矢橋さんは、私にとってアイドルみたいな人だもん」


 言ってしまって、しまった、と思った。言葉足らずなのはいつものこと、まともに会話したこともないクラスメイトからアイドルなんて言われたら私ならドン引きする。


 「なんだそれ」


 予想に反して、とりあえず矢橋さんは笑ってくれた。窓の外、頼りない街灯に揺れる桜の木が見える。少し風が出てきたみたいだ。

 そろそろ帰ろうか、と言って、立ち上がる。校舎の中はもう暗くて、しんとしている。昇降口に来たあたりで、施錠していた用務員のおじさんに早く帰りなさい、とちょっと怒られた。


 校舎の外に出て、校門まで桜の木の連なる下を歩いていく。しばらく二人は黙って、鞄の金具の擦れる音だけがかちゃかちゃと響いていた。地面は乾いたままだけれど月も星も見えず、夜空の黒をせめぎ合うように、うっすらと暗い色の雲がかかっていた。


 「さっきの、どういう意味だったの」


 ふいに訊かれて、狭い歩道の斜め後ろを歩いていた矢橋さんを振り返る。


 「さっきの?」

 「アイドル」


 突っ込まれてしまった。笑ってごまかすこともできたけど、暗闇は人を大胆にするようだ。


 「うーん、憧れの人ってこと」

 「なにそれ」

 「外見もだし、中身も」

 「そんなことないよ」


 矢橋さんの声が笑っていたので、少し安心する。


 「ごめんね、失礼なこと言って」

 「や、難しいことはわかんないけど、私も加藤さんと話してみたいと思ってたし、だから今日話しかけたんだけど、いつも周りに流されずにちゃんとしてるから、かっこいいなって思ってたし」


 今度は私が照れ笑いをしてしまった。かなり、自分の実像とはかけ離れてる気もするけど、嬉しかった。


 私がちゃんとしてるわけじゃないと思うのと同じぐらい、きっと本当の矢橋さんはアイドルなんかじゃないんだろう。偶像崇拝でドキドキするのも悪くないけど、もっと仲良くなれたらきっと面白いんじゃないだろうか。クラスの中での立場とか抜きで。

 そんなことを考えておっと上を見たら、ドラマのように雲の切れ間からくっきりとした満月が顔を出していて、私は妙に爽やかな気分で家に帰ったのだった。

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