2.quiet room

 雨が降り出したようだった。

 その週は大学でもバイト先でもとにかく疲れることばっかりで、あたしは泣きたくて、眠りたかったのだ。彼の部屋のベッドはあたしには魔法で、横たわって二秒で眠れる。


 気が付くと外は暗くて、帰らなくちゃ、と思う。あたしの家まで一時間とちょっと、かかるので、早く帰らないと母の機嫌を損ねてしまうから。数秒、ぼんやりとして、そうだ、今日は泊まっていくと言ったのだ。


 タキはいつもドアを開け放しておく。そのほうが風が通るというのだ。はじめに聞いたときは、外から丸見えみたいで落ち着かないと思ったけれど、ここは角部屋だから誰も前を通ったりしない。

 坂の上に建つマンションの窓と開け放されたドアからは、両方に遠くまで町の灯りが見渡せる。どこの夜景より、あたしはここからの景色が好きだ。朝になれば、下の方に三つ並ぶガスタンクも見える。


 「モモ」


 呼んでいる。起きなきゃ。眠い、ひたすらに。眠い。ここでは、あたしは、なぜこんなに甘えてしまう。

 カレーの匂いがする。あたしが家に泊まると、タキはよくご飯を作ってくれる。あたしはいつも、カレーが食べたいという。いつもと同じというのは、それだけで安心材料だ。


 「ご飯」


 タキの声は優しい。あたしに対するときは、とくに。たまに怒ると、とても怖い。あたしは、タキが、怖い。

 怖くて、毒舌で、だらしがなくて、面倒臭がり、だけど、あたしはタキが愛しい。ときに厳しくて、ときに冷たくて、だけどだいたいにおいて、甘やかしていとおしんでくれるひと。


 開け放した窓からは、私たちの通う大学の校舎もよく見える。徒歩三分の距離なのに、タキは授業に遅刻する。



 あたしたちはもうあと数か月で、この部屋を去る。

 永遠などない。

 だけど、あたしたちはきっといつか一緒に暮らすのだ。

 そこまで考えたら、もう涙が出た。


 ベッドの上に起きあがったまま、寝起きのぐらぐらする頭のまま、あたしは泣いた。驚くべき、そして幸せなことに、彼はあたしが泣くことを全く責めないのだ。あたしは小さい頃から泣き虫で泣きたくないのに勝手に涙が溢れてしまうから、泣くことを責められるのはいちばん辛い。それをタキが知っているのか、知らないのか、きいたことはないけれど、ともかくそれはあたしにとってはとてもありがたいことだ。

 タキは自分もベッドに乗るようにして、泣きじゃくるあたしを抱きしめてくれた。ずんぐりとした体型の彼の胸も背中も広くて、あたしも背は高いほうなのにすっぽりと包まれてしまう。

 抱きしめられた背中越しに、開いたドアの隙間から、濡れた道路を映す街灯のオレンジと、坂の下の家々の光が見える。暗いのも雨も苦手なあたしは、だけどこの中でだけは安心していられる。


 だから、あたしは、生きていける。もしかしていつかお互いに嫌になって、さよならを言うとしても、もしかしていつか、どちらかが先に死ぬとしても、

 それまでが、あたしの永遠だ。この静かな部屋の体温の高い躰に包まれたここが、あたしの世界だ。


 「飲み物ないや」


 ふいにタキが言って、あたしたちは身体を離す。


 「カレーなのに」


 コンビニ行こうか、と言って、あたしは涙を拭いた。


 雨の音がさっきより強くなっていて、外に出るのは億劫にも思う。だけど私たちはおんぼろの大きい傘をさして、手を繋いで外へ出た。

 さっき窓から見えた街の灯りは、少し近く少し頼りなく、それでもふと見た彼の横顔にちらりと深緑の残像を残した。

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