世界

伴美砂都

1.New Year’s Eve

 2006年最後の日に、なぜ高崎健吾と海に行こうと思ったのかはわからない。時給百五十円アップにつられて九時から五時までバイトを入れて、十五分オーバーでさっきまで一緒に働いていた。

 バイトしている駅前のレンタルショップは慌ただしいぐらいお客さんが途切れなくて、山積みになった返却のDVDをやけくそに持ち上げながら、みんな暇だなー大掃除しろよ、と言って笑ったりした。


 彼は不思議な人だと常々思っていた。大学二年の冬を迎える私よりひとつ年下で、半年前に夕勤のバイトとして入ってきた。無表情で愛想がないわりに仕事を覚えるのは早くて、接客もそつなくこなしている。仕事上がりはさっさと帰ってしまうくせに、どうでもいい話をよくふってくるから、たまに会話を交わすようになっていた。

 バイト先から自転車で五分のところに住んでいる。地元出身で、バイトをしていると二回に一度は必ず友達が冷やかしにくる。デザインの専門学校に通っているらしい。私が彼について知っていることはそれぐらいだった。


 休憩室には、いつも何かしらお菓子とかジュースが置いてある。暖房を消してあったので部屋はひんやりと冷えていて、立ち働いて汗をかいた身体をじんわりと元のテンションに戻していく。接客は得意ではないけど、ここのバイトは嫌いじゃない。ぼんやりした肉体的疲労にまかせて、テーブルの上のチョコレートをひとつ口に入れた。

 ピッとタイムカードを押す音がして、ドアが開いて入ってきた高崎は開口一番、海行きませんか、と言った。


 「はい?」

 「や、海……」

 「な、なんで?」

 「だって大晦日なのにどこも行ってないっすもん」

 「朝から働いてたもんね」

 「そうですよー」

 「まぁ私もだけど」

 「じゃあ行きましょうよ海」

 「いいけど」


 なんでかちょっとわくわくした。


 というわけで、私は彼と近くの海岸へ向かった。寒かったけれど風はなくて、きんと冷えた空気にマフラーから出た耳が痛い。二十分ぐらいで海浜公園の自転車置き場に自転車を止めると、私たちは埠頭を歩いた。

 辺りはすっかり暗くなり、オレンジの街灯に照らされて小さな船が幾艘も留まっている。対岸の倉庫の壁に、七福神と鯨のイルミネーションが施されている。足下の海は黒く、ぞわりと寒気がした。


 埠頭の先には円形に手すりのついた釣り場があって、夏や早朝は趣味の釣りをする人でにぎわう。今は誰もいないそこで、私と彼は並んで手すりにもたれて立った。

 身体を支えるには少し低い位置で、金属の棒が手にくっつくようだ。少し、風が出てきた。私はマフラーを巻き直し、彼は黒いパーカーのフードをすっぽりとかぶった。はあ、と息を吐くと、白く空中に滞ってその後、ふわりと風に流される。


 「相模さん」


 心なしか波が高くなったようだ。外灯の弱い明かりを反射する水面が、白く泡立っている。呼ばれた声は、風に飛ばされそうだった。


 「なに?」


 彼は海のほうを見たまま、妙に真面目な声で言った。口説かれるのかと思ったけど、そういう雰囲気でもなさそうだし。


 「つまんないっす」

 「え?」

 「……や、なんでもないです」


 彼は子供みたいに口を尖らせ、寒そうに両腕を抱いてぴょんぴょんとその場でジャンプした。


 「なに、何か嫌なことでもあったの」


 ふいに他人の内面を覗いてしまったと思うとき、私はできるだけその人が望むことを掴もうとする。無理やりに聞きだしたいわけじゃないけど、普段突っ込んだ話をしない人から、ふと気持ちが漏れるのを見せられるのはうれしいことだ。


 「ないっすけど、それが嫌です」


 どうして、と私は言う。毎日嫌なことがなく生きていられたら、私はそれが一番いいのに、と。


 「何もなさすぎて、嫌っす」

 「平和すぎてつまんない?」

 「そうっすね、なんか……生きやすすぎて、つまんないっす、こんなもんかーって」


 高崎は、すごく端的なしゃべり方をする。きっと、誰に対してもそうなんだろう。

 生きやすい、という単語が彼の口から出たことが、私には少し意外だった。彼はどちらかというと、いつもどこか居心地が悪そうに見えたから。


 「意外だな」

 「何がっすか」

 「君はいつも居心地悪そうだと思ってたよ」

 「や、そんなことないっすよ」

 

 「好きなひととかいないの?」


 冗談半分で聞いてみたら、意外な答えが返ってきた。


 「叶わない恋っすもん、俺のは」


 彼氏いるんすよね、好きな子。と言って、彼は肩をすくめる。


 「じゃあ悩んでるじゃん、ちゃんと」

 「うーん、あきらめちゃうんすよね、いいかーって」


 ふうん、そうか、と私は月並みな相槌を打つ。高崎の表情がおどろくほど真面目だったから、慰めの言葉やらは要らないと思った。



 びゅうとさっきより強く風が巻いて、携帯の時計を見たらもう七時半をまわっている。


 「帰ろうか?」

 「そうっすね」


 高崎と私はまた自転車をこいで、バイト先の店の前まで一緒に来た。彼はまた明日もバイトに来るんだと言っていた。


 「元旦なのに……」

 「おつかれ」

 「相模さんも明日来たらいーっすよ」

 「明日休み取ったもん」

 「俺は来すぎっすよね」

 「でもさ、バイトないときも結構来てるよね?」

 「滞在時間誰よりも長いと思うっす」


 よいお年を、と言って別れた。私は家に帰って年越しそばを食べ、ラジオを聴きながら新しい年を迎えた。コンタクトを外すと、外の気温が残っているかのように眼球がひんやりと冷たかった。

 両親は早々に眠り、妹は友達と神社で年を越すとかで、とても静かな夜だった。少し開けた部屋の窓から冷えた空気が忍び込んで、閉めると風の音も遠くなった。

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