第6話 身を震わす熱砂

 アルーフは荒野にいた。空の一番高い所に昇った陽の光が容赦なく地面を灼く中、黙々と歩みを進めていく。先の出来事を教訓に頭には大ぶりなフードを被ることも忘れず。悪目立ちしていた瑠璃紺のケープではなく、スイコが用意していた薄手のものだ。一面砂色の荒野にアルーフの姿はすっかり埋もれていた。襟元から何から血みどろに汚れていた上着も、風をよく通す幅広の袖のものに着替えてある。職人街の皆が着ていたものと同様のものだ。

 好意で用意されたわけではなく、きっちりとお代は取られた。「取れるところからは取るわよ」と、いうのはスイコの言だ。半ば押し売りに近いが、アルーフには支払う以外の選択肢が無かった。

 救出料も請求され、すっかり軽くなってしまった貴重品入れに心許なさを感じてアルーフはポーチの蓋を押さえつける。荷物が返ってきただけ良しとしよう。手元に武器や道具類があるだけで安心感は段違いだ。


「アルーフよ~……我、もう限界なんじゃけど~……」


 幾らか後ろを死霊のように着いてきているのはクロだった。初めのうちこそ意気揚々とアルーフの前を跳ねるように歩いていたものだが、一刻もしないうちに速度は落ちてゆき、二刻もすれば脚を引きずっていた。黒いローブの下からは次から次へと汗が滴っている。


「休憩って言っても落ち着ける場所もないし……」

「ええい! この際贅沢は言わん。あそこの岩陰でも構わぬわ!」


 クロが勢いよく指差したのはアルーフの膝下程度の高さがある何の変哲も無い岩だった。径はそれなりで、二、三人は岩にもたれることができそうだ。身を隠せるような大きさではないが、アルーフの返事も待たずにクロは左右によろめきながらその岩を目指した。言葉通り限界だったのだろう。陽射しのきつい荒野に黒色のローブは相性が悪い。


「ふぃ~……」


 岩影に入ったクロは座り込むなりローブを脱ぎ捨て、露出の多い身体を風に晒した。アルーフもその隣に腰掛けるが、クロとは異なりどうしても肩から上は岩からはみ出してしまう。少しでも後ろの音が聞き取りやすいようにと、アルーフはフードを取った。強い陽射しが直接頭に当たるが、そこはまあ仕方が無い。


「あ、水が……」


 水筒に口を付けたクロが嘆いた。いくら逆さまにして振ってみても一滴も滴ることはない。暑さに顔を真っ赤にしていたクロは天を仰いだ。


「これ飲む?」

「おおお! 良いのか!? 貴様いい奴じゃな!」


 まだかなりの量を残していたアルーフの水筒は瞬時にクロの手元に移動していた。クロは大きく一口だけ飲み込んで再び蓋をする。


「それだけでいいのか」

「うむ。スイコ達といつ合流できるかわからんでな」

「意外と冷静な判断」

「うぬぬぬ……もう貴様の不敬を叱る気力も無いわい……」


 魔族の中でも暑さに弱い種族なのか、そもそも魔族が暑さに弱いのか、それとも単純に身体が小さいから暑さに弱いのか、その全てか。クロとアルーフの弱り方には歴然とした差があった。


──しかしよりによってポンコツ二人組ではぐれるとは。


 アルーフは組んだ手で頭を抱えた。

 悪事の正体が掴めない限りどう動くのが効果的かわからないと言って、魔素の濃い荒野へと繰り出してしまったソウキ。噂の魔動機械の正体を早々に掴むつもりだったらしい。そもそも止めるべきだったのか、着いて行かないべきだったのか。後悔したところでもう遅いが。


 人買いから助け出された時の動きを考えれば、ソウキやスイコはたとえ一人になってしまっていたとしても無事オアシスまでたどり着けるだろう。むしろ目的のものを一息に見つけてしまうかもしれない。

 落下してきた崖を振り返る。歩きづめでここまで来たが、大して距離が変わらないように見えるということは、無理に戻らなくて正解だっただろう。あの戦闘の最中、皆散り散りになってしまった。崖を登り切ったところで人っ子一人残っていない可能性すらある。

 地中から破裂するように飛び出してきた巨大な魔物を思い返してアルーフは耳の先まで身震いした。出現と同時にクロを吹き飛ばした魔物は生理的に受け付けない姿形だった。

 長い身体に無数の細かい足。しかも図体の割に素早い。荷を積んでいた馬は強靱な顎に砕かれて即座に駄目になってしまった。


「あの魔物、ここまで追ってきたりとかしないよな」

「不吉なことを口にするでない! あの魂だけが宙空に取り残されたような感覚、二度と味わいたくはないわ!」


 真夏の犬のように舌を出して伸びていたクロは瞬時に飛び起きた。だがすぐに珍しくしおらしい態度で指を遊ばせて視線を足元の辺りに泳がせる。しばらくもごもごと口を動かすと、普段の半分くらいの大きさで言葉を発した。


「我を助けたこと、褒めてつかわしてやらなくもない」

「まあ、近くにいたし……」


 鉄鎖付きの短剣を武器にしている理由の一つだった。昔から足場の悪い所を単独で移動することが多かったために鉄鎖は使い勝手が良かった。今回のように崖上から落下するような事態も一度や二度では無い。張り出した岩場や枯れ木に引っ掛けつつ勢いを殺して滑り降りるのには手慣れていた。さすがに普段のの重さを支えての荒技に肩は外れかけたが。


「もう行けそう? 日が暮れないうちにオアシスまで行っちゃいたいんだけど」

「う、むう……仕方あるまい。このままでは干物になってしまうでの」


 渋々と再びローブを羽織ろうとした瞬間、地面を突き上げるような衝撃。


「うわっ!?」

「なんじゃ!?」


 よろめくほどの揺れの大きさだった。勢い余ってクロは尻餅までついている。揺れは続いていた。立っていられない程に次第に大きくなる揺れに、アルーフが岩を掴んだと同時に一気に視線が高くなる。

 魔物の背。

 最悪の状況に気付いたアルーフが顔を青くする暇も無く、岩の甲羅を持つ亀の魔物はむずがるようにぶるぶると身を振った。甲羅の上に取り残されていた二人からすれば堪ったものではない。三階建ての建物の上から突き落とされるようなものだ。

 振り落とされないように身を低くして甲羅の出っ張りにしがみつく。だがそれも一瞬の事だった。一瞬でクロの握力は尽きた。


「あばばばばっ!!」


 魔物が前足を高く上げると同時に尻尾まで勢いよく転がるクロ。尻尾の先端まで衰えることのない速度で到達したクロは、そのまま滑り台の要領で綺麗に転がったまますぐ側のサボテンに激突した。


「痛っー!!」


 尻に特大の針が突き刺さっているが、命に別状は無いようだ。

 その手があったかとアルーフは手を叩いたが時既に遅し。亀の魔物は背中の異物に苛立ち、あろうことかアルーフを背に乗せたまま走り出した。

 一歩踏み出すごとに鳴る大地。その重量は凄まじく、踏みつけられた小石は瞬時に砂と化し、足元をちょろちょろしていた灰砂蠍は砕ける。異変を察知した砂蠍達は蜘蛛の子を散らすように激震地から遠ざかっていく。


「ちょっと待てーい! 我を置いて行くでなーい!」


 しかし悲しきかな。どれだけ大きかろうが所詮は亀。ところで、クロの小走りよりも遅かった。だがその背は大きく揺れる。時折身を震わせたり、地団駄を踏んだりと予測できない動きも重なり、安全に降りられる状況にはほど遠い。

 そうは言ってもこのまま無闇な方向に連れて行かれては、干物になるのも時間の問題である。意を決してアルーフが跳ねる甲羅を掴みつつ魔物の後方にじりじりと這いながら移動し、飛び降りようとした──その時。


 ミシッ


 大地が軋んだ。耳を疑う音だ。大地は軋むものではない。

 変に冷静な頭がそう告げるが早いか、魔物の足元が薄氷のごとく割れた。ちょうど砂蠍が群れていた地点だった。すぐ後ろで魔物を追いかけていたクロも当然のことながら共に落下する。

 バランスを大きく崩した魔物は落下しながらひっくり返る。アルーフの身は大きく投げ出されたが、運の良いことに足元はただの空洞ではなく巨大な湖になっていた。

 一つ二つ三つと地下に大きな水音が四方に反響する。三つ目は特大だ。津波のように押し出された水は壁にぶつかり大波として中央部へ返る。亀の魔物は岩の身体を浮かせることができず静かに、そして着実に水底へと沈んでいく。

 その姿を水面で眺めていられたら真に幸運であった。


──溺れる!


 アルーフとクロの口から泡が大きく上がり、魔物の背で砕けた。巨体の下から抜け出そうにも、沈む岩肌の甲羅と浮力の間で思うように身動きが取れない。なんとか魔物の背伝いに脱出を試みるが、そう都合良く大人しくもしてくれない。魔物も岩に戻らぬようにと必死に手足をバタつかせるのだ。

 地上では強烈な陽射しから身を守ってくれるはずの外套は水を吸って身体に纏わり付き自由を奪う。脱いでしまおうにも紐は水気で固くなっていた。

 水底に着いたらどう足掻いても逃げられない。おしまいだ。

 焦りと共にアルーフが下を見やると、何故か足元が明るかった。沈む深度と比例して周囲が明るくなっていく。

 呆気に取られているうちに見えない壁に行き当たった。


──結界だ。


 甲羅の隙間になんとか身を捻じ込むことができた二人は辛うじて魔物の巨体に押し潰されずに済んでいた。

 探るようにアルーフが結界に手を滑らせると、その軌跡を辿るように複雑な文様が淡く青色に輝く。式術によって作られた結界だった。

 この際起きるかもわからない反動なんぞは気にしていられない。今死ぬかどうかの瀬戸際なのだ。

 アルーフは結界に手を当てたまま式の型を読む。これだけの質量を揺らぎなく支えるということは結界の強度は生半可なものではない。破るのは非現実的だ。だが決まり切った型で動く式術は書き換えに弱かった。魔素を直接操る手の者にとって壁は無いも同然。

 ずるりと音を立ててアルーフとクロの身体が卵からオタマジャクシが孵るように透明の膜を突き破った。無防備に落下した二人だが、足場までの距離はそう遠くはなかった。背中を打ち付けたわりに二人ともダメージは少ない。


「げほっ、ゲホッ!」


 水を飲んだクロが四つん這いになって咽せる。その横ではアルーフが大の字になったままだった。ようやく吸い込めた空気に安堵しつつ、周囲の警戒のために直ぐさま立ち上がる。聞き耳を立て、視線を上げた瞬間、足場の輪郭がぶれた。否、ぶれたのはアルーフの視界だった。

 急速に襲ってくる頭痛に目眩。それに耐えきれぬ吐き気。

 ふらついたアルーフは壁に手をついて胃の中の物を全て吐き出した。強烈な目眩も相まって壁伝いにへたり込んでいく。今朝方食べさせられた物を目の前に、アルーフは浅く呼吸を繰り返した。空っぽになってもまだ内臓がひっくり返る。

 最初に魔素が暴走した時の事を考えれば、軽く済んでいると言って良いだろう。暴走というよりも、魔素に酔ったとでも言うような状態だった。やはりここの魔素は何かおかしい。


「お、おい、大丈夫か……? 大丈夫……いや大丈夫なようには見えぬのだが……」


 横で狼狽するクロに向かってアルーフは片手を上げて応えた。声を出すほどの気力は無いが、症状は少しずつ落ち着いている。

 かくつく脚を叱咤して、少しばかり先に進んだ所でアルーフは座り込んだ。さすがにあの隣で休む気にはなれない。倣うようにクロも壁を背に座り込む。

 二人の前には巨大な地下空間が広がっていた。周囲を囲む壁こそ天然の岩肌のようだが、複雑に入り組んだ空中通路は幾何学的な文様を描きながら中央の祭壇らしき箇所に繋がっており、人工物であることは明らかだ。しかし経年劣化によるものか、いたる所が苔むし、通路も半ばで折れている物がほとんどである。精霊を祀る祭壇の遺跡か何かか。ただ一箇所、祭壇上に輝く塑像だけが妙に新しく、周囲の空間から存在感が浮いていた。


 静かだ。ずっと遠くの方で微かに響く水音のお陰か、居心地が悪くなるほどの静寂というわけでもなかった。

 頭上の結界越しに届く光はゆらゆらと揺らぎ、遺跡の中で茜色の薄布を作り出していた。水底の揺り籠に揺られて眠気がやって来る。アルーフが誘われるままに目蓋を閉じようとした時、子犬の鳴くような間抜けな音が地下空間に鳴り響いた。

 音の出所はクロの腹。丸い顔を赤くしながら下唇を噛んで両腕で腹を抱え込んでいた。食糧の大半は馬に括り付けてあったはずだが手元にも何かあるかもしれないと、アルーフは腰にいくつもぶら下げたポーチを検める。


「あった……けど、これ食べられるかな……」


 油紙に包まれていたのは燻された砂蠍の爪肉だった。新しい素材が沢山手に入ったからと快く分けてもらった塊だ。水没したせいで若干表面が湿っているが、食べられないことはないだろう。

 そのまま囓るには大きすぎる塊を小刀で削いで、広げた油紙の上に落としていくと同時にクロの瞳が輝きを増す。今にも飛びつきそうな落ち着きの無さだが、アルーフがナイフを仕舞っている間も律儀に待っていた。


「もう良いか? 良いに決まっておろうな?」

「ああ、うん。どうぞ」


 目にも止まらぬ早さで爪肉の燻製はクロの口に収まった。干された肉は相当固いのか、小さな口は上下に動きっぱなしだ。しばらくの沈黙の後に嚥下する音が大きく響いた。


「うむ! ……旨い!」


 クロは両手でしっかりと握った爪肉との格闘を続けていた。固い爪肉に力一杯噛み付き、牙のある歯で引きちぎる。その度に反動で頭が仰け反っているが、不満を抱くどころか妙に楽しそうですらあった。


「……食わぬのか?」

「あ~……別にいいや」

「魔族といえど、食事は重要な活力であるぞ? 我に遠慮をしているのであれば構わぬ。存分に食らいつくが良い! ……まあ、元々貴様のものであるが……」


 傍らで濡れた外套やら装備品をのろのろと広げるアルーフの前に裂かれた爪肉が差し出される。ソウキもスイコもクロも、三人揃って他人に何か食わせるのが好きなのだろうか。渋るアルーフの眼前に、「ほれ」と言いながらクロは今一度爪肉を突き出した。

 根負けしたアルーフは目の前の肉にかじりついた。初めて食べる砂蠍の味は生臭い木の皮といったところか。


「犬でもあるまいし、普通は手で受け取るじゃろ」

「らっふぇ、りょうふぇがふふぁがっふぇふぇ」

「貴様見かけによらず行儀の悪い奴じゃのう……」


 苦言を呈しながらもクロはアルーフへの餌やりを止めなかった。次々と木の皮を口に詰め込まれる拷問とは斬新だ。食糧が少ない中で、必要の無い食事を摂る罪悪感もあった。魔素を取り込める環境であれば腹も減らない。


 そこではっとしてアルーフは手を止めた。食事代わりの魔素の吸収。つまり、 使

 改めて考えてみれば思い当たる節があった。いくら身体が鈍っているからといって、元々衛士でもあった男が無抵抗に一般人に拉致されるのも、少女に蹴っ飛ばされただけでひっくり返るのも、術の制御が効かないのも、受け身も取れずに落っこちるのも、冷静に考えればおかしい。

 身体が急速に冷えるような感覚にアルーフは身を震わせた。

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