8.そして、これからも……
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1985年3月9日
チヨ、もう私、メロメロになっちゃいそう。
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倒れた士はそのまま昏睡状態に陥った。やちよの連絡で士はやちよの父、
士の目が覚めたのは二日後のことだった。駆けつけた孝雪と看護師を見ると、士は二人をまじまじと見つめ、笑顔で呼びかけた。
「おはようございます」
その顔は幼子のように朗らかだった。
士は表向きは面会謝絶状態だったため、マスコミも近づくことができなかった。精密検査も受けたが、体に特に異常は見つからなかった。だが、河原で保護された以前の記憶はほとんど覚えていなかった。
3月2日午後。
定子はやちよと
「兄貴、何か思い出した?」
士は何も答えず、ピカーリマンに変身ポーズを取らせて遊びだした。
「まるで子どもに戻ったみたい」
やちよは不安そうに定子に話しかける。定子は手提げ袋から魔法瓶と紙袋を取り出した。
「士さん、『リッチ』特製クレープとコーヒーよ」
士は魔法瓶からカップに注がれたコーヒーを受け取ると両手で抱え込み、立ち上る香りを楽しんでいるようだった。定子が呼びかける。
「倒れる前に出してくれた士さんのブレンドよ。パパが覚えてたレシピを私が味見して確認したの」
士がコーヒーを一口飲み干すと、ゆるんだ口元が引き締まった。視線が定子に注がれる。
「確かにこの味です。あの時、僕は石を額に当てて……」
士は口を開いて何か喋ろうとしたが、声にならなかった。
「そういえばあの石、士さんが運ばれたときに落ちてたんで拾っておいたの」
定子は『リッチ』のマッチ箱を差し出す。受け取った士は中の石を取り出すと額に当てたが、何も起こらない。
「ただのガラス石に戻ったのかな」
やちよの言葉に士はうなずいた。
「でも、こうしていると頭の奥が熱くなるんです。中にあったものは僕の中に残っているのかもしれません」
「検査では何も出なかったのに不思議よね」
定子がクレープを配りながら相づちを打つ。
「体に障らないならいいんじゃないかな。それより、親父たちが血液鑑定で科学的にも親子判定したいって言ってるんだ。俺は賛成だけど兄貴はどうする?」
力の問いかけに士は少し考えると答えた。
「僕は手紙に書いたことをもう覚えてないですし、それで親子だと分かるのなら喜んで協力するつもりです」
「良かった。じゃ、みんなでコーヒーとクレープ食べましょ」
定子の言葉に皆は同意した。
3月9日。
『リッチ』には「本日貸し切り」の張り紙があった。今日は力の誕生日と、士の退院祝いを兼ねたパーティーが開かれるのだ。
「今日はチヨの家族も来るんだよね」
「うん。父さんも非番にしてもらったし、母さんもパートは午前中だから、おばあちゃんと三人で来るって」
「早く5時にならないかな」
定子が時計を見たその時、駐車場に車が入る音がした。定子は待ちきれずドアに駆け寄り、扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
到着したのは
「士さん、ネクタイもよく似合ってるわ」
うっとりと士を見つめる定子に、力が突っ込みを入れた。
「兄貴はまだ一人で締められないから、俺が手伝ったんだ」
力はトレーナーにタータンチェックのパンツ、ジャンパー姿で、いつもよりはややおしゃれである。
「始まるまでこちらでお待ちください」
やちよが席へと案内するが、士は落ち着かないように背広を脱ぎだした。
「だめだめ、今日は士さんはお客さまなんだから、ゆっくりしてて」
定子がなだめていると、扉が開く音がして、大柄なダブルスーツの男性が入ってきた。やちよが声を上げる。
「パパ!」
村橋家も到着し、後は食卓の準備をするばかりだ。その間に、村橋家は田城家と挨拶を交わしている。
「村橋孝雪です。娘がいつもお世話になっています」
「田城正です。こちらこそお世話になりました」
「妻のあかりと、義母の
孝雪の向かいに座る二人が一礼する。あかりはワンピースにボレロ、かつらは着物を着ている。
「おばあちゃん、お正月でもないのに着物着てこなくても良かったのに」
やちよがからかうように言うと、かつらは笑顔で返した。
「あまり着ないと着物が駄目になってしまうからね」
そこにエプロンを外した直定と利子がやって来た。直定はタートルネックセーターにコーデュロイパンツ、利子はチュニックにスパッツ姿だ。
「皆さんようこそ。そして士君、お帰りなさい」
直定の言葉で、パーティは始まった。
パーティは8時過ぎまで続いた。士と両親の血液鑑定の簡易結果も良好で、親子である可能性が高いという結果だった。これから公には亡くなっている士と再度親子になるという手続きが控えているが、田城家の人々はやる気に満ちあふれているようだ。
「俺、こんなに誕生日が嬉しいと思ったの初めてだ」
力の言葉が三人の気持ちを代弁していた。
最後に、士が皆にお礼の言葉を述べたいと言い立ち上がった。
「僕がここに戻れるようになったのは、定子さん、やちよさん、力を始め皆さんの力だと思います。改めてお礼を言わせてください。ありがとうございました」
士が一礼すると拍手が沸いた。
「僕はこれからも、もっともっと地球の生活に慣れ、家族を助けたいです。そして、もしできるなら『リッチ』でいろいろな料理を覚え、いつかは独り立ちしたいと思っています。色々と失敗もあると思いますが、どうぞよろしくお願いします」
拍手をしながら、定子は椅子に腰を下ろした士の顔を見る。その表情はとても安らかだった。
夜も更けた。楽しい時間も過ぎ、しばしの別れがやって来た。
駐車場で挨拶する大人たちをよそに、定子は士の姿を探していた。やちよと力は関本家に向かう定子の姿に気がついたものの、大人たちの中に姿を隠した。
士は関本家の軒下で夜空を見上げていた。その背中に暖かいものが置かれ、思わず士は振り向いた。
「みいつけた」
定子が微笑んでいる。
「どこへ行ったのかと思って探したの。もう心配させないで」
「すみません。なんとなく、空を見上げたくなって」
夜空にはオリオン座を初めとして冬の星座が輝いていた。あの星の彼方から来た人が今、ここにいる。定子は押さえられない胸の鼓動を感じていた。
「士さん、私……」
この時のために言おうとしていた言葉は、定子の咽に引っかかったまま出てこない。士はそんな定子を見つめていたが、やがて右手を差し出した。
「これからも君とずっと仲良くできたらいいな」
「ええ、もちろんよ」
定子は士の手を握ると星空を見上げた。星の彼方には、もう春の気配が漂っていた。
-定子とやちよの交換ノートから-
1985年3月11日
私はダッコの意見には同意できないな。だいいち士さんがキスを知っていると思えない。知っていたとしてもやるかどうかはギモンね。本当に士さんにキスして欲しいならダッコから教えてあげないと。何なら私も賭けるわよ。
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おわり
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