5.「幸せ」に入れたメス
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1985年2月24日
チヨ、今日はありがとう。
「僕は、記憶喪失の『
私は士さんにとってどっちがいいのか、決められないわ。
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23日は土曜日なので学校の授業は午前中で終わりだ(1985年当時は土曜日も授業があった)。
放課後、やちよは定子と共にサッカー部に向かおうとしている力を呼び止めた。
「力君、聞きたいことがあるんだけど」
「なんだよ」
ぶっきらぼうに答える力に、やちよは一呼吸置いてから切り出した。
「お兄さんのことについてなんだけど、一度きちんとお墓参りしたいな、と思って」
力の表情が変わった。むっとしたように答える。
「なんでいまさら」
「それで明日、やちよと直利さんと一緒に力くん家に行っても良いかな」
定子が切り出した。
「
力の疑問はもっともだ。定子は慌てて答える。
「この間、直利さんが持っていた石のこと、『ガラス石』って言ってたから、もっと詳しいことが分かるかな、と思って」
「ふうん。あの石なら、家にたくさんあるから知ってただけだ。午後からでいいか」
「ありがとう」
やちよと定子は顔を見合わせて微笑んだ。
翌日、定子と直利は
「今日は料金も払えましたし、もうバスも一人で乗れそうです」
直利は自分のバイト代が入った小銭入れをスーツのポケットにしまった。
「そういえば、石はちゃんと持ってきてます?」
定子の問いに、直利は茶色い紙ケースに入ったマッチ箱を取り出した。白文字で『珈琲とクレープの店 リッチ』と書かれている。中にはマッチではなく、緑色の石が入っていた。
「ちょうどいい大きさだったので」
「ぴったりね。裏にお店の住所と電話番号があるから、もし直利さんがはぐれてもこれを見せれば大丈夫よ」
定子が答えたとき、次のバスがバス停に止まり、セーラー服姿のやちよが下りてきた。手に花束を持っている。
「お待たせ。では行きましょうか」
3人は歩き出した。
上空は曇り空が広がっている。定子がしきりに辺りを見回す直利に呼びかけた。
「何か思い出したの」
「いえ、こんな広い道だったかな、と」
「この辺も道路が広くなっているから、昔と変わっているかも」
やちよの言うとおり、周りの家も新しい建売住宅ばかりだ。その突き当たりに2階建ての工場が建っていた。看板には『田城メッキ』の文字が書かれている。建物を見つめた直利は、何かを思い出したように話し出した。
「『工場には危ないから入っちゃ駄目』といつも言われていた気がします。だから僕は河原に行ったのでしょう」
直利は迷わず工場の裏手に歩を進めた。やちよが定子にささやく。
「もしかして、思いだしたのかも」
「そうだといいけど」
そう答えたものの、定子は直利の変化をどう受け止めればいいか迷っていた。
工場の奥にある平屋が田城家だ。やちよが呼び鈴を押すと、トレーナーにジーンズ姿の力がドアを開けた。
「親は買い物に出かけてるから、遠慮しないで入れよ」
「おじゃまします」
3人は居間に通された。奥に続く部屋が空いており、仏壇が置いてあるのが見える。その上には、位牌と写真立てが飾られていた。ここでも直利は辺りを見回している。そこに、オレンジジュースとコップをお盆に乗せた力が入ってきた。
「で、まず何から話せばいいんだ」
力は明らかに話を早く切り上げたがっていた。定子が尋ねる。
「家にあるって言ってたガラス石が見たいな」
「ああ、ちょっと待ってろ」
力は仏壇のある部屋へ入っていく。戻ってきたときには、ブリキ缶とアルバムを手に持っていた。
「これは、兄貴のアルバム。そしてこれが、兄貴の集めてたガラス石だ」
やちよがアルバムを開くと、男の子の写真が何枚も挟まっていた。幼稚園の制服を着た写真や、クリスマスツリーを前にケーキを食べる写真。その隣には、赤ん坊を抱いた母親と、父親と手を繋いだ男の子が映っている。
「初詣の写真。これが4人で撮った最後になった」
定子は力の言葉を聞きながらブリキ缶を開いた。中には緑や茶色や白いガラス石が詰まっている。定子は緑色の石を一つ取り出した。
「お兄さん、本当にガラス石が好きだったのね」
定子は直利にブリキ缶を渡そうとしたが、直利の表情を見て動きが止まった。直利はかまわずブリキ缶に手を伸ばし、ガラス石に両手を突っ込んだのだ。
「これだ!」
まるで子どもに戻ったようにはしゃぐ直利に、あわてて定子はブリキ缶を取り返した。そのまま力に差し出す。直利もすぐに我に返ったようで、縮こまったまま謝った。
「すみません」
気を取り直してやちよが尋ねる。
「それで、力君はお兄さんのことどう思ってるの。もし生きてたら、たぶん直利さんくらいだと思うけど」
力は定子の差し出したブリキ缶をテーブルの上に勢いよく置いたため、ガラス石がぶつかって音を立てた。
「こんな石のために川で溺れるなんて、そして死体も上がらないなんて、バカなヤツだ。親父もお袋も、口には出さないけどずっと気にしてる。だから俺はサッカーの強い大学に入って、流川の見えない所に行くと決めてるんだ」
「力君!」
やちよは声を上げたが、力はジャンパーを掴むと立ち上がった。
「とにかく、今日の墓参りにはつきあうが、兄貴の話はこれっきりだ」
田城家の墓地がある
「そろそろ帰ろうじゃないか」
正が文代の背中に手をかける。文代はハンカチで目の涙を拭うと、つぶやくように言った。
「士も生きていればもう
「わしらには力がいる。亡くなった士のことより、力のことを考えてやらんとな」
「でも、士は今でもあの川のどこかで沈んでいるんですよ。それが辛くて……」
その時、二人の後ろから怒声がした。
「親父、お袋、なんでここにいるんだ」
振り返った二人は力達の姿を見て固まった。文代が訴えるような目で呼びかける。
「力の誕生日が士の命日で、ずっと嫌な思いをさせてきたから、今年は先にお墓参りしようと思ってお父さんに頼んだのよ」
「余計なお世話だ!」
力は言い放つときびすを返して墓地を飛び出した。文代が慌てて後を追う。正も続こうとしたが、直利を見て立ち止まった。
「君は」
直利は思わず目をそらす。やちよがあわてて頭を下げた。
「すみません、私が無理を言ったばっかりに」
「いや、気にしないでくれ」
正は足早に墓所を離れた。
残された三人は改めて墓に向かい合う。横の墓誌には戒名と「俗名 士」の文字が刻まれていた。花立てには菊の花が供えてある。やちよはその横に持ってきた花を挿した。直利は、両親がそうしたように墓の前で手を合わせた。唇が動く。
「お父さん、お母さん」
涙が直利の頬を伝って流れている。隣で手を合わせていた定子は思わずハンカチを差し出した。涙の粒がハンカチに吸い込まれていく。
墓前では、まだ燃え尽きていない線香の煙が微かに漂っていた。
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