副八話 ワーグ

 空が暗くなると、とたんに空気も冷え、立ち上がり歩く元気もなくなってくるが、もう少し歩けば草原に出られそうな気がしたので、気力を振り絞って立ち上がる。

 すると、森のどこかで何かが動く音がする。その音はまっすぐに俺の方に向かってくるようだ。


 森の中はすでに真っ暗で、月もさほど大きくないから、月明かりで見える程度も限られている。

 俺は音のする方向を注視するが、何も見えない。そういえばライトも持ってきていない。

 もちろん、夜まで森にいる予定は無かったが、これでは万が一昼間に雷雨なんかが来て真っ暗になったときにも対応できなかっただろうと気付く。


 つくづく自分の森への意識の低さを思い知らされる。

 こんなにも森が難しいものだとは思わなかった。


 とりあえず近づいてくる何かが突然飛びかかってきたりしたときに備えて、ベルトに付けていたナイフを鞘から出そうとする。


 しかし、ナイフがなかなか動かない。


 鞘のどこかにナイフが引っかかっているのだろうかとベルトに目をやると、ナイフの柄尻を可愛らしい肉球が押さえている。

 その根本を目で追うと、狼と目が合った。


「ここで何をしている。」


 狼は流暢なビヴェハー語で言う。

 ビヴェハー語は古代ヨーロッパで使われていた言葉で、聖書の原本を読むために修道院で習うから、俺は多少話せる。

 人語を話せる狼なんていないから、これが話に聞いたワーグというやつだろう。

 俺が偶然この言葉を使えるから良かったものの、もし話せなかったらこいつはどうするつもりだったのだろうか。

 


 なんと説明しようか色々考えた結果

「道に迷った。」

と俺が言うと、ワーグは

「信じがたい。何か信用できるものは。」

と言う。

 俺を見れば道に迷っていることは明らかだろうとは思うのだが、

「この服や格好を見れば大したことは出来ないことは分かるはずだ。」

と言うと

「私は服すら着ていないが、十分にお前を殺傷出来る。それはナイフを持っているお前も同じだ。」

と反論された。


 なるほど確かに、俺に技量があれば十分このナイフでも戦えるのだろう。

 だが、俺に技量なんてものは全くない。それを説明するためにはどうしたらいいか。


「私はお前がワーグの領土に侵入した敵だと考えている。お前は確かに危険ではなさそうだから今この瞬間は生かしているが、私としてはすぐに殺してしまっても構わない。」


 俺はいつの間にかワーグの縄張りに入っていたのか。こいつが俺に接触してきた理由を察する。

 ともかく、こいつは俺の返事を催促しているようなので、なんと答えようか脳を全力で回転させる。

 …そうだ。


「お前と俺が戦って、俺の実力を見れば、俺がわざわざワーグの縄張りに入るような実力をもった人間ではないことが分かるんじゃないか?…もちろん戦うときにはお前には手加減してもらいたいが。」


 狼は意味がわからないという顔をしている。


「仮にお前が私達の敵だとして、私が勝てないとでも思っているのか?」


もちろん思ってない。


「お前が手加減しても、俺がお前に勝てなければ、俺に実力が無いことは証明できるんじゃないか?」


 狼は片前足をナイフの上に置いたままの不安定な格好で、器用に頭を傾けて考え込む。


「……分かった。やってやろう。」


「もし俺が負けたら、街の近くまで俺を連れて行ってくれ。」


「偉そうな奴だな。」


 そう言って、狼はナイフから前足を離すと、俺から何メートルか距離をとる。

 暗闇に目が慣れてきて狼の姿はよく見えるようになったが、考えてみれば、狼とどうやって戦うのか皆目見当がつかない。


 とりあえず高さ的に屈まないとナイフは当たらないし、近づいて蹴ってみようと思い、走り出す。



 俺は生き物を足蹴にしたことはないから、一瞬、狼を蹴るのを躊躇うが、勇気を出して足を振り上げようとすると、全く足が動かない。

 見ると、狼が前足で俺の足を押さえている。なぜこれだけで動かなくなるのだろうと驚いていると、その顔を見た狼はガッカリしたように首を左右に振る。


「こんなものか。」


 俺は元から負けることがわかっていたので大した落胆もなく、言う。


「負けたので、街に連れて行ってもらってもいいですか?」


 狼はさらにガッカリしたような顔でこちらを見る。


「お前にはプライドは無いのか。」


 もちろんあるが、今はそれどころではないんだ。早く街に帰らないと、門も閉まるし、外に締め出されたら死ぬ。それに寒いし、実はトイレにも行きたい。

 もうプライドを捨ててでもすぐに街に帰りたいんだ。


「お前のような人間を見ているとがっかりする。私はワーグとしては長く生きているが、十年前に会った、この領域に入り込んだ奴はもっと強い気骨があったぞ。」


 だから気骨とかどうでもいいんですって。


「喝っ」


 突然狼が大声を上げるので、俺は少し漏らしてしまう。恥ずかしいな。どうせ街のトイレまで我慢が保つわけないんだから、その辺で済ませてしまいたいのだが、少し失礼してもいいだろうか。


「軟弱者が。明日から毎日、お前はここに来い。私がお前を鍛えてやる。」

「毎日っていつまでですか?」

「私が許すまでだ。必ずお前が真っ当な人間になるまで鍛えてやる。」


 狼が真っ当な人間とは何かを理解しているとも思えないが、早くこの会話を終わらせたかったので何も言わない。


 話は終わったと判断し、急いで狼から離れて木の陰で、したかったことをするが、明らかに狼がこちらを見ていて気まずい。


「ここはお前の縄張りではないぞ。」


 と、いかにも犬らしい説教を受ける。

 しばらく俺は狼について森の中を歩いて、草原に出たところで狼と別れた。

 それからしばらく歩き、無事、閉門時間前に門までたどり着いた。


 

 門から走り急いでハウスに帰ると、ちょうど玄関から見える位置にいたヨシと目が合う。


「ただいま。」

と言うと

「何してたのよ?」

と訊かれるので

「夕食、もう食べた?」

と逆に訊き返す。不満そうな顔をしつつも首を縦に振るので、食べたらしい。

「俺の分とかって残ってたりする?」

と続けて訊くが、聞こえなかったのか、答えずに二階に上がっていってしまった。


 何か保管庫でも覗いて食べ物を探そうと台所につながるダイニングに入ると、何をしていたのかハカムがダイニングに残っていたので夕食について訊く。

 俺の分の夕食は作ってなかったらしい。


 台所で適当に炒め物をして、ダイニングに戻って食べ始めると、


「森、どうだった?」


 とハカムが訊く。思ったより準備が足りてなくて驚いたというと。


「いい経験だな。」


 と冷たく言われる。何か怒っているのだろうか。

 その言葉の後は沈黙が生まれ、気まずくなる。


「ワーグに会いました。」


 気まずさに耐えきれずに言う。硬直した雰囲気から、自然と言葉が敬語になる。

 ハカムは頬杖を突いて何か考え事をしているようだったが、その言葉に驚いたように手をテーブルの上に置き、俺をじっと見る。

 

「ワーグはよっぽど森の奥に行かなければほとんど会うことは無かった筈だけど。」


「道に迷っていたら、間違って森の奥の方に行ってしまっていて。」


 帰りに歩いた時間を考えると、確かに森の奥に行ってしまっていたことは間違いないだろう。


「コンパスを持っていかなかったのか。なんて…」


 ハカムは頭を抱えてため息をつく。まさか俺がそんなにも森に疎いとは思ってなかったのだろう。昨晩の話にも、コンパスを持つか持たないかという話はなかった。


「それで、どうやって帰ってきたんだ?」


 と訊くので、


「優しいワーグに森のはしまで連れて行ってもらいました。」


 というと、本当に運のいいやつで良かったと心底呆れられた。

 とにかく安心したら眠くなった、と言ってハカムはダイニングを出て行く。言葉の通り自分の部屋に行って寝るのだろう。

 もしかして心配してくれたのだろうかと思うと、少し申し訳ない。


 夜も遅いのでそろそろ俺も寝るが、その前に、今日の反省を忘れないうちにライトと方位磁針の魔法陣だけは書いておこうと思う。

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