姉と弟の矜持 その18
膝の腱を切られたマティアスは、もはや立ち上がることさえ叶わなかった。
出血は多く痛みも相当なものだろう。けれど彼はなにも感じていないらしく、怪我を庇う素振りさえ見せずに一気にリタへと斬りかかってくる。
さすがのマティアスも気付かされていた。ラインハルトの登場ですべてが終わってしまったことを。
決して逆らうことのできない絶対的な存在。確かにシェロン家とは派閥は違うものの、そもそもが東部貴族の纏め役であるラングロワ家になど歯向かえるはずもなかった。
ならば大人しく裁かれるしかない。
諦観の念がマティアスを襲う。とはいえこの状況である。国内最古の貴族家という名門の若奥方を
行き着く先は良くて斬首、悪くても斬首。
――なんという狡猾な女か。
どのみち助からぬ運命である。ならばこの女を道連れにしてやろうではないか。
そんな思いに囚われたマティアスは、今や身体の痛みさえ感じぬままに剣を振り下ろそうとする。
対してリタは剣を持ち上げられずにいた。
もとより重量級の剣である。これまでも肉体強化の魔術のおかげで振り回せていたにすぎない。
その彼女の頭上に渾身の一撃が迫る。
このままでは避けきれない。咄嗟にリタが対物理防護術式を展開しようとしていると、不意にそこへ何かが差し出された。
ギキンッ!
金属同士が弾きあう甲高い音色。
見ればリタの頭上に二本の剣が交差していた。
もちろん一つはマティアスのもの。そしてもう一つは――
「姉上! お下がりください!」
轟いたのは変声期特有のハスキーボイス。気づいたリタが横へ視線を向けると、愛する弟――フランシスが決死の表情で剣を受け止めていた。
大人と子供ほどの体格差がある相手である。いくらマティアスが満足に動けなくとも、その斬撃を真正面から受け止めるのはさすがのフランシスにも骨が折れた。
ギリギリと音が漏れるほどに歯を食いしばり、渾身の力で鍔迫り合いを始めたフランシス。咄嗟にリタがその背へ声をかけた。
「フラン! あなた一体なにをしているの!」
「くっ……か、間一髪でしたね。ここは僕にまかせて、あ、姉上にはお下がりいただきたく……」
口ではそう言いながらもまったくフランシスには余裕がない。腕はプルプルと震え、額からは汗が吹き出し、姉へ視線を向けることさえできずにいる。
実のところリタには、マティアスの斬撃を避けるなど容易だった。
魔術師が対物理防護術式を展開するには、どんなに急いでも数秒かかる。そのほとんどが呪文の詠唱作業に費やされるのだが、ご存じのようにそのすべてすっ飛ばすことのできるリタには、指先を軽く動かすだけで術式を完成させられる。
さっきもそうだ。確かに余裕はなかったけれど、決して間に合わないほどではなかったし、そのまま攻撃魔法をぶっ放すこともできたのだ。
弟の飛び入りはむしろ迷惑以外の何物でもなかった。この距離で攻撃魔法を発動すれば弟まで巻き添えにしかねない。その現実に思わずリタが躊躇してしまう。
すると横から別の影が飛び込んできた。
「なんだよ、面倒くせぇ奴らだな! ガタガタ言ってねぇでさっさと仕舞いにしやがれ!」
ばきぃ!
マティアスの左頬にラインハルトの右ストレートが炸裂する。
すらりと背が高い細身の体格のせいで、ラインハルトはあまり力が強いようには見えないが、さすがは次期東部軍将軍と言うべきか、鍛え抜かれた無駄のない肉体は想像以上の膂力を秘めていた。
その一撃をまともに食らったマティアスは、受け身もとれぬままもんどりうって地面を転がっていく。恐らく意識が飛んだのだろう。今や彼はぴくりとも動かなくなっていた。
それを見ろしながら呆然としたフランシスと不満げな表情のリタ。二人を睨みつけてラインハルトが苦言を呈した。
「なにやってやがんだ、この野郎! 『ムルシアの魔女』ともあろう奴が、こんな雑魚相手に手こずってんじゃねぇよ! 姉弟ごっこも時と場所を考えてやりやがれ!」
「藪から棒になんですの。せっかく弟の献身に感動していたというのに」
「なに言ってやがる。そんな余裕なんざなかったくせによ!」
「はぁ? まったく嫌な
「だから
「うなぁぁぁ! 乳ならお前の嫁も大概じゃろがい! それにまだババアじゃねぇわ、このハゲがっ!」
「なんだと、てめぇ! やんのか!」
「なによ! 文句あんの!」
売り言葉に買い言葉。状況も顧ぬままいつもの調子で二人が言い合いを始める。
それを呆然と眺めるフランシスと、ついに己の運命を悟ったセルジュ。そして事の終わりにほっと胸を撫で下ろすリタの付き人たちと、諦め顔のシェロン家の騎士たち。
それぞれの胸にそれぞれの思いを秘めたまま、こうして後に「ムルシア侯爵家若奥方誘拐未遂事件」と呼ばれる出来事は幕を下ろしたのだった。
◆◆◆◆
「あぁフラン! そうしていると、父上にそっくりねぇ……」
「うむうむ。幼い頃はエメラルダさんにそっくりだったが、段々とフェルディナンドに似てきたなぁ」
「えぇ本当に。灰色の瞳に銀の髪。見れば見るほどレンテリアの血を感じますわねぇ」
ここはレンテリア伯爵家の前当主が住まう邸宅。その一室に佇むフランシスを前にして、姉のリタと祖父のセレスティノ、そして祖母のイサベルが感心するような声を上げた。
学生という立場から、いつもは動きやすさを優先した格好のフランシスだが、今日に限っては髪をかっちり固めて特別仕立てのスーツを着ていた。
彼がそんな姿をしていると、父親――フェルディナンドの若い頃にそっくりらしく、祖父も祖母も懐かしそうに瞳を細める。
奥へ視線を向ければ、なにやら忙しそうな両親の姿もある。
テキパキと矢継ぎ早に指示を飛ばす彼らは息子の晴れ姿をゆっくり眺める暇もないらしく、代わりに祖父母と姉が今日の主役へ感慨深げな視線を向けていた。
さて、何故にフランシスがそのような格好をしているかと問えば、それは今日が彼の婚約の儀が開かれる日だからである。
そしてそのお相手とは――
「はいはい、皆さま。グラーツ子爵家ご一行様がまもなくお着きになりますよ。お出迎えのご用意をお願い致します」
パンパンと手を叩きながらリタの母――エメラルダが皆へ向かって声をかける。すると使用人のみならず家族の全員が居住まいを正した。
そう。誰あろう、フランシスの婚約相手とはグラーツ子爵家のカリーヌ嬢だった。
シェロン家のマティアスと婚約直前だった彼女だが、起こした事件によって取り潰された当のシェロン家も今はなく、マティアスも父親とともに処刑されてしまった。
様々な事情があったとはいえ、そんな家へ娘を嫁がせようとしたグラーツ家への風当たりは当然のように強く、事件の後からは干された状態が続いていた。しかしそんなときに手を差し伸べたのがレンテリア家だったのである。
普通であれば派閥を鞍替えするなど相当の理由がなければできるものではない。けれど傘下の家が事件を起こしたバラデュール侯爵家はもとより、その派閥の長であるランゲルバッハ公爵家までもが責任を追求されてしまっては、いくら不満があったとしても物申すことなどできるはずもなかった。
加えて相手が西の大貴族、ムルシア侯爵家の嫁の実家であれば尚の事である。結局彼らはこれ以上の痛手を避けるべく相手の言いなりにならざるを得なかった。
そうしたわけで、今のグラーツ家はラングロワ家直下の派閥家へと収まっていたのだった。
とはいえ、グラーツ家の辛い立場に変わりはない。
如何にレンテリア家の口利きがあったとしても、やはり周辺貴族家からは厳しい目で見られていたし、もちろんそれはグラーツ家も承知していた。
カリーヌ自身に罪はなくとも今さら嫁の貰い手もなく、社交界デビューなど夢のまた夢。
このまま一人で生きていくのかと覚悟を決めていたとき、突然フランシスが婚約を申し込んできたのだった。
フランシスといえば、言わずと知れたリタの実弟である。
彼自身はレンテリア伯爵家の傍系の傍系、爵位すら持たない準貴族でしかないが、実姉がムルシア侯爵家の若奥方で義兄が西部辺境侯爵家の嫡男、さらに縁戚が東部貴族の要であるところのラングロワ侯爵家と
フランシスと娘が結婚するということは、それら大貴族の親戚になるということ。
当然そんな者たちを相手に事を構えようと思う者などいるはずもなく、家の利益を鑑みればこの話に乗らないなどあり得なかった。
とはいえ愛する娘の行く末である。先のマティアスとの婚約話では忸怩たる思いを抱いた両親なので、まずは娘の意思を尊重しようと伺いを立てようとする。
するとカリーヌはまずは驚き、次にポッと頬を染めながらこう言った。
「はい……承知いたしました……喜んで」
グラーツ子爵家一家を乗せた馬車が屋敷の前に停まる。そしてそこから両親が、最後にカリーヌが姿を現した。
父親に手を取られ、ゆっくりとタラップを降りてくる美少女。
それはまさに天使だった。
小柄で華奢なカリーヌによく似合う、派手さよりも可愛らしさを演出した清楚なドレス。
胸元に飾られた花をモチーフにした控えめなブローチが、彼女の可憐さをより一層際立たせていた。
思わずフランシスが見惚れていると、リタがその背を悪戯っぽい笑みとともにポンと押す。
「ほら、フランシス。なにをしているの? あなたのお嫁さんになる子なんだから、丁重にお出迎えしなくちゃ」
「は、はひっ、姉上! りょ、りょ、了解であります!」
緊張のためか、盛大に裏返るフランシスの返答。
額からは汗が吹き出し、身体は震え、膝もがくがくとして歩くことさえ覚束ない。
その様子を眺めながら笑うリタの右手は愛娘を抱きしめる。
そして左手は、このところ少し目立つようになってきた膨らんだ下腹部を大切そうに撫でていたのだった。
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https://kakuyomu.jp/users/chikuwa660/news/16817330666400130666
よろしくお願いいたします。
黒井ちくわ
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