姉と弟の矜持 その8

 パシッ!


 乾いた音が会場内に響き渡る。見ればマティアスの頬をリタが手袋で引っ叩いていた。

 痛くもなければ痒くもない。薄絹で作られたそれはまったく頬を傷つけていなかったが、反面、彼の精神へ凄まじい衝撃を与えていた。

 なぜならそれは、男からであれば決闘の申し込み、女からであれば決別を意味していたからに他ならない。


 言うなればそれはリタからの絶縁状に等しい。

 金輪際こんりんざいあなたには関わらないし、関わってほしくない。女に手袋で叩かれるということには、それだけの意味が込められていたのである。


 幼い頃から我儘いっぱいに育てられてきたマティアスは、持ち上げられこそすれ、人から避けられた経験がない。そのため気に入った女性から拒絶された事実がはなはだショックだったらしい。


「なっ……!」


 信じられないとばかりにマティアスが大きく目を見開く。彼が言葉にならない言葉を発していると、ここぞとばかりにリタが追い打ちをかけてくる。

 その顔には馬鹿にするような薄ら笑いが浮かんでいた。


「いかに愚鈍な貴方様であろうと、さすがにこの意味はわかりますわよね? それともその残念なおつむでは、言葉で説明されねばわかりませぬか?」


「な……な……なにを……」


「貴方様はわたくしを侮辱した。そして弟を愚弄した。それだけでは飽き足らず、さらに実家、両親までをも蔑んだのです。そのようなお方の傍に、どうして添うことができましょう?」


「く……く……」


「図体ばかり大きくて、頭の中は幼児と同じ。これまでお会いしてきた殿方の中でも貴方様が一番酷いですわ。――さぁ、いつまでそこに突っ立っておいでなのです? そんな醜い顔など見たくもありません。さっさとどこへなりともお行きなさいな」


「き、貴様ぁ……よくも……よくも……」


「それともまだお分かりになりませぬか? ならば、これでいかが!?」


 言うなりリタがテーブルの上からワイングラスを持ち上げる。そして間髪を入れずにマティアスへ中身をぶちまけた。

 

 バシャ!


 紫色に染まる金色の髪と厳つい顔。この日のために特別に仕立てられた純白の儀礼服さえもワイン色に染まり、あまりの体裁の悪さにもはや茶会どころではない。

 これにはマティアスもキレざるを得ず、とっさに腰の儀礼刀へ手を掛ける。するとリタが器用にも片方の口角だけを吊り上げて笑った。


「おや? もしやわたくしを無礼討ちになさるおつもり? ふぅん、面白いですわね。ならば遠慮なさらず抜けばよろしいかと存じますわ。その代わり、轟くほどの大声で悲鳴を上げて差し上げますけれど」


「なんだと貴様ぁ! 散々愚弄しおってからに! そのうえまだ言うか!」


「うふふ。ここがどこだかおわかりになってらっしゃいますか? おや? ご存じない? そうですの、仕方ありませんわねぇ。――ならばお教えいたしますが、ここは栄えあるプレ・デビュタントの席でございます。にもかかわらず流血沙汰など起こしたらどうなるのか、さすがの貴方様もおわかりになるのではなくって? それともそのおつむでは想像すらできませぬか?」


「うるさい! 愚弄してきたのは貴様の方だろう! 準貴族の娘ごときが、伯爵家を侮辱したのだ! 無礼討ちされて当然だ!」


「はて、果たしてそうでしょうか? ことろうに初対面の令嬢へ愛人になれと迫り寄り、断られたからと剣を抜く。真にとがめられるべきはどちらかなんて、もはや5歳の子供にすら明白でしょうに」


「ぐ……ぬ……」


「ほら、見てごらんなさいな。衆人環視、これだけの目があるのです。どう足掻あがいたところで誤魔化しようはありませんわよ?」


「ぬぬぬ……」


「しかも陛下のお耳に入りでもしたら極刑も止む無し。貴方様にその覚悟はおあり?」


 変わらず口は笑っているが、瞳は刺すように鋭く冷たい。

 それを見ていると、口を隠して「ほほほ」と笑っている姿が仮初かりそめにすぎず、この姿こそが正体なのだと思わざるを得なかった。


 やっとそれに気付いたマティアスではあるが、それだけで自制できるほど大人ではなかった。果たしてどんな結末を招くのか。それすらも思い至らぬまま勢いに任せて剣を抜こうとしていると、既所すんでのところで数人の男たちに取り押さえられた。

 

「おいマティアス、なにをしている!」


「やめろ! 自分がなにをしているのかわかっているのか!?」


「嬢の言う通りだ! ここはいささか分が悪い! 下がれ!」


「なんだとぉ! 離せ、貴様ら! 離せと言っている!」


「いいからこっちへ来い! こんなところで抜刀してみろ! どんな理由があっても極刑は免れんぞ!」


 それは若い男たちだった。

 皆似たような儀礼服を着ているところを見ると全員がこの式典の出席者らしく、恐らくマティアスの同郷の者たちなのだろうと思われた。

 三人がかりで取り押さえられたマティアスは、結局そのまま外に連れ出されて二度と戻ってくることはなかった。



 ◆◆◆◆



「あぁ愉快ですこと! たっぷり燃料を投下してやりましたわ。まさに、ざまぁみやがれ、ですわね!」


「も、も、も、申し訳ございません! ほ、ほ、本当に、も、も、申し訳ございません! ど、ど、ど、同伴者が、ご、ご迷惑をお、おかけしました! お、お、お気の済むまで、ど、ど、ど、ど、どうかこの身をい、い、い、い、い、如何様いかようにもしてくださいませ!」


 口を隠して「ほほほ」と笑う女の前で、小さな少女が頭を下げていた。

 高く結い上げた薄茶色の髪と、透き通る青い瞳が美しい中々に愛らしい顔つきの貴族令嬢。その少女が謝っている相手――リタとフランシスがその身を引き起こそうとする。


「ちょっとカリーヌ、やめてちょうだい。なにも貴女あなたが謝ることではないでしょう? 確かにあの男は貴女の同伴者ではあるけれど、べつに肉親ってわけでもないんだし」

 

「そうだよ。決して君は悪くない。謝る必要なんてこれっぽっちもないってば」


 マティアスが去っていったあとの茶会。

 すっかり毒気を抜かれて平常運転に戻ったその片隅で、リタとフランシス、そしてカリーヌがヒソヒソと話し込んでいた。

 とは言えそれは一方的にカリーヌが謝り続けているだけで、会話らしい会話にすらなっていなかったのだが。


 ともあれリタが、このままでは話にならないと場を取り成そうとする。すると暫しの混乱の後にやっとカリーヌが口を開き始めた。

 もっともリタの正体を知る彼女は終始恐れを抱き、必要以上にへりくだるのをやめようとしない。

 それを適度になだめつつ、意図的にリタは優しく接した。


「やっと落ち着いたみたいね。もう大丈夫?」


「ひゃい! だ、だ、だ、大丈夫れす!」


「……だから落ち着きなさいってば。べつに取って食おうって話じゃないのだし。それにあからさまにそんな態度をされると、他の者たちに私の正体がバレてしまうじゃないの」


「わ、わ、わ、若奥方様! も、も、も、もうしわけ、あ、あ、あ、ありません!!」


「だから……だめだこりゃ。やっぱり私が相手だと緊張するみたいねぇ、まぁ仕方ないけど。――ねぇフランシス。お願いがあるんだけど、彼女の隣に座って落ち着かせてくれないかしら」


「えっ? ぼ、ぼ、ぼ、僕がですか!? な、な、な、な、なんで!? ど、ど、どうやって!?」


 何気なく下されたリタの指図。対してフランシスが盛大に慌て出した。

 あわわわわ、とばかりに口を開け、姉とカリーヌを交互に見つめて途方に暮れたような顔をする。それを見たリタが再び大きな溜息を吐いた。

 

 おぉ、フランシス、お前もか……

  

 それでもリタは無理やりカリーヌの横へ弟を座らせると、そのまま話し始めたのだった。



「ねぇカリーヌ。今さらだけど敢えて名乗らせてもらうわね。――私は西部辺境侯ムルシア侯爵家のリタ・ムルシア。その名において貴女に幾つか尋ねるわ。よろしくて?」


「は、はい! なんなりと!」


「あなたはあのバカ……じゃなかった、マティアスと婚約する予定らしいけれど、それに間違いはない?」


 その質問をされた途端、カリーヌの顔色が変わり始める。もとより涙が浮いていた瞳はより一層濡れ始め、口も嗚咽を堪えるように真一文字に結ばれた。

 それを見ていると、どうやらその件には彼女なりに色々と思うところがあるらしい。

 するとその横で、同じような顔をするフランシスに気付く。やはり彼もその話題はつらいらしく、露骨に嫌そうな顔をしていた

 それでもリタは敢えてその質問をやめようとしなかった。


「ねぇカリーヌ、お願いだから答えてちょうだい。色々と言いたくないこともあるだろうけれど、これはとても大切なことなの」


「大切……ですか?」


「そう。あなたの答え如何いかんによっては計画を変更せざるを得ない。場合によってはあなたの家にも累が及ぶかもしれないのよ。だから包み隠さずすべてをつまびらかにしてほしいの」

 

「計画? なんですか?」


「ううん、こっちの話。いずれ詳しく説明するけど、今はまだ話せないわ。――ごめんなさいね、あなたにはすべてを話せと言っておきながら」


「いいえ、大丈夫です。――マティアス様とは未だ正式な婚約を結んでおりません。あくまでも内々の話でございます」


「そう。ちなみに、フランシスの同伴を断ってきたのもその辺りの事情なのかしら?」


「はい、そうです。直前にマティアス様との婚約話が持ち上がったのが理由です。その時点ではまだ公表する段階まで至っていなかったものですから、どうしても事情を明かせませんでした。申し訳ありません」


「こればかりは家と家との関係だから致し方ないわねぇ。あなたもさぞつらかったでしょう。心中お察しするわ。――それともうひとつ。ズバリ訊くけれど、あなたはマティアスをどう思っているの?」


「えっ……? どうって……」


 涙が浮かぶ瞳をしばたかせながら、必死にカリーヌが質問の意味を探ろうとする。けれど今一つピンとこない。

 果たしてなんと答えるべきか。言い淀むカリーヌ。するとリタが見かねて助け舟を出した。


「訊き方が悪かったわね。早い話が好きか嫌いかを知りたいわけ。――それでどうなの? マティアスのことが好きなの? 嫌いなの? このまま結婚してしまってもいいと思っているのかしら?」


 言いながらリタがじっとりとした視線で見つめてくる。するとなにを思ったのか、再びカリーヌが口を閉ざしてしまう。

 しかしそれも数瞬。突然意を決したように話し始めた。


「私は……マティアス様が怖いのです。幼馴染ですから彼の人となりはよく知っています。それゆえに彼との結婚生活がつらく苦しいものであることは容易に想像できるのです。もはやそこには絶望しかありません」


「……」


「マティアス様のことが好きか嫌いか、ですって? そんなこと訊くまでもありません。決まっています、ずっと前から決まっているのです! ――嫌いです、私はマティアス様のことが大っ嫌いです!」


 まるで吐き捨てるようなカリーヌの叫び。

 それを聞いたリタの顔に、再びニンマリとたちの悪い笑みが浮かんだのだった。



―――――――――



ここで宣伝です。

この度「拝啓勇者様」のコミカライズ連載がスタートしました。

詳しくは下記「近況ノート」をご覧ください。

よろしくお願いいたします。


https://kakuyomu.jp/users/chikuwa660/news/16817330656486071419

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