新たなムルシアの誕生 その3

 ムルシア侯爵邸の片隅にある、それほど広くもない医務室。ここは侯爵家に雇われているお抱え医師――ポレット・ヌブーが常駐する部屋である。

 齢三十を超えたほどに見えるその人物は、名に姓があることからわかる通り貴族家出身の女性だ。


 多くの医師と同様にやはり彼女も優秀な「魔力持ち」ではあるのだが、もとより力のない子爵家出身であるうえに女性という弱い立場では国の言いなりになるほかない。そのため幾ら彼女が望んだところで個人の診療所を開く夢は叶わなかった。


 それでも夢を諦め切れなかったポレットは、国が運営する診療所への就職を蹴り、街から町へ、村から辺境へと国中を転々としながら庶民のために医療を行っていたのだが、ある日突然夜盗に襲われて絶体絶命の危機に瀕してしまう。


 それを助けたのがリタだった。

 偶然にも通りかかった彼女が夜盗どもを蹴散らして、もはや助からぬであろうと思われた瀕死のポレットを治癒魔法で癒した。


 読んで字のごとく、文字通り「命の恩人」であるリタに深く感謝し、その魔術の深淵に感銘を受けたポレットは、その場でリタに弟子入りを願い出た。

 けれど当時結婚したばかりだったリタは弟子取りの余裕など全くなかったし、そもそもそんなつもりもなかったのだが、結局ポレットの熱意に負けて屋敷へ連れ帰ることになる。

 そして紆余曲折の末、貧しい者たちへ医療の提供というポレットの活動に協力することにしたのだった。


 そんなわけで、実情はどうであれ表向きはムルシア家お抱えの医師となったポレットは、メイドから知らせを受けて慌てて外出先から戻ってきたのだった。

 


「ひっひっふー……ひっひっふー……」


「はいリタ様、そのリズムですよ。ゆっくり息を吐いてぇ……吸ってぇ……」


「ひっひっふー……ひっひっふー……うなぁぁぁぁ!」


「はいはい、痛いのはわかりますが、あまり暴れないでくださいねぇ……はい、吸ってぇ……吐いてぇ……」


 たいして広くもない診療室。今はそこへ大の大人が10人も詰めていた。

 まさに「鮨詰すしづめ」。少しでも動こうものなら隣の者へ肘や膝が当たるほどの混雑ぶりである。

 いまはそこへ陣痛に苦しむリタが下半身をすっぽんぽんにされて寝かされていた。もちろん付き添いのフレデリクからは見えないように、慎重に局部を覆い隠していたのだが。


 突如破水し、陣痛が始まってから約一時間。順調であればあと十時間、遅くとも二十四時間以内には赤子が生まれるはずだが、今回は初産なのでそう上手く事が運ぶとも思えない。

 そのうえ小柄で華奢(しかし巨乳)なリタはお世辞にも産道が広いと言えず、赤子の大きさによっては難産も予想された。


 もっとも夫であるフレデリクも男性としては小柄なほうなので、二人の血を分けた赤子もそれほど大きいとは思えなかったのだが。

 いまはそのリタの産道の開き具合を目測しながら、ポレットが懸命に勇気づけているところだった。


「さぁ、そのままのリズムで呼吸を繰り返して。――いいですねぇ。それではご主人も一緒にどうぞ」


「え、えぇと……ひっひっふー……ひっひっふー……、こ、こんな感じですか?」


「はい。とてもよくできてますよ。そのまま続けてください。――若奥方様、お優しいご主人様でとってもうらやましいです。私もこんな殿方と結婚したかったですよ」


「ひっひっふー……な、なに言っているの。ポレットだってまだまだ若いのだから、これからだって十分にチャンスは――うぅぅぅ! いたたたたた! ひっひっふー!」


「リタ! しっかり!」


「あ、ありがとうあなた。ひっひっふー! あなたがそばにいてくれるだけでとっても心強いわ。おかげでお腹の痛みも少しは和らいで……うぬぉぉぉ!! ひっひっふー!!!!」


「はいはい、そのままそのまま。暴れないでくださいね。――ところでリタ様。つかぬことを伺いますが、今日の排便はもうお済みですか?」


「は!? 排便!? ひっひっふー!?」


「そうです、排便です。うんちですよ、うんち。これはとても重要なことですから、決して戯れに訊いているのではありませんよ。――それでいかがですか?」


「い、いかがって……えぇと……今日はまだ……」 


「そうですか。それでは最後のお通じは? 昨日は出ましたか?」


 その質問にリタは顔を真っ赤に染めて言い淀む。

 医師であるポレットの問いなのだから、それには必ず意味があるはずだ。事実、義母のシャルロッテも年かさのメイドたちも決して口を挿もうとしてこない。


 しかし隣にはフレデリクがいる。

 これまで他人ひとに見せたことのない胸の横の古傷から内股の黒子ほくろまで、確かに全てを見られた夫ではあるけれど、それとこれとは別の話だ。いつうんちをしたかなんて、敢えて聞かせる必要もないだろう。

 とは言え事は一刻を争う。仕方なくリタは、夫に見られないよう顔を伏せながら恥ずかしそうに答えた。


「昨日のお昼過ぎに……出ました」


「量は?」


「り、量!? た、たぶん普通……くらい?」


「なるほど。――ふぅむ、だいたい二十時間ですね。わかりました。もう少し産道が開いたら、念のために浣腸しましょう」


「……はぁぁぁ!?」


 意味がわからない。

 なぜこの期に及んで浣腸などされねばならぬのか。しかも陣痛で苦しんでいるこの状況で。

 まさか嫌がらせではあるまいな。


 前世において二百十二年もの長きを生きたリタ――アニエスは、その人生の中で大抵のことは経験してきたつもりだ。

 けれど恋愛、結婚、出産など、市井の者たちならば普通に経験することについぞ触れることはなかったのである。

 確かに子育てと称して勇者ケビンを育てはしたが、それとて己の腹を痛めて産んだわけではなく、養子として迎え入れたに過ぎない。

 


 胡乱な顔でリタが見つめてくる。

 するとポレットが事も無げに答えた。

 

「これからリタ様は力一杯いきまなければなりません。そのときお腹に便が残っていると大変なことになるのです」


「ひっひっふー……た、大変なこと? もしかして、それって……」


「そう、お察しのとおりです。ですから、そうならないためにも事前に用を済ませておかなければなりません。わかりますね?」


「だ、だけど……ひっひっふー……皆の前でそんな……」


「大丈夫です。いいですか? これは誰でも経験することであって、決して恥ずかしいことではありません。もちろん奥様――シャルロッテ様もご経験されているはずです。――そうですよね、奥様?」


 言いながらポレットがシャルロッテを見る。同時に部屋中の者たちも釣られて視線を移した。

 部屋中の視線がシャルロッテに集まる。しかしさすがは西部辺境侯にして武家貴族筆頭のムルシア侯爵家夫人というべきか。一瞬の迷いもなく彼女は答えた。


「もちろんです。これから次代のムルシアが生まれるのだと思えば、たかが浣腸の一つや二つどうということはありませぬ。わたくしも子を三人産みましたが、その全てにおいて経験済みです。――いいですかリタ、『段取り八分の仕事二分』とよく言うでしょう? 無事に事を成せるかどうかは、すべて事前の準備で決まるものなのです」


 したり顔のシャルロッテ。その表情にはまさに「言ってやった」と書いてある。

 しかしリタは敢えて苦言を呈した。


「ひっひっふー……あのー奥様、ぜんぜん意味がわかりませんが……ひっひっふー……」


「なんですかリタ? わかりませんか? ですから、これからあなたは――」


 困惑するリタに向かってなおも義母が言い募ろうとする。

 するとそのとき、かたわらから小さな声が聞こえてきた。


「リタが……浣腸……?」


 まるで独り言のような小さな呟き。振り返って見てみれば、それは夫のフレデリクだった。

 果たしてなにを思ったのか、突如勢い込んで訊いてくる。よく見ればその顔は興奮したように上気していた。

 

「あ、あの先生! もちろん僕も見られるんですよね!?」


「へっ!? な、なにをです!?」


「決まってるじゃないですか、浣腸ですよ浣腸! だって僕は彼女の付き添いなんですよ! 当然それも――」


「んなわけあるかい! お前は外で待っとれや、このバカちんがぁ!! ひっひっふー!!!!」


 ばっちーん!!


 陣痛の痛みなどどこへやら、リタが夫の横っ面を力の限り引っ叩いた。

 もちろんそれは魔術で強化された「怒りの無詠唱ビンタ」である。それをまともに食らったフレデリクは、もはや声すら発せぬままにもんどり打って吹っ飛んでいく。


 今や人妻でありながら、未だ絶世の美少女のように美しくも可愛らしいリタの顔。それをまるで般若のように歪ませながら、リタはそのとき陣痛の痛みさえ忘れていたのだった。

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