第321話 絶望という名の暴力

 ハサール王国南部に広がるエスタラヤ平野。

 見渡す限りに小麦が実るこの一帯は、王国南部の穀倉地帯として古くから知られている。しかし今やその地は踏み荒らされて、秋には黄金色に輝く美しい景色も今年は見られそうにない。


 その広大な地を荒らすのは誰かと問えば、それはアストゥリア帝国の兵たちに他ならなかった。彼らは何の前触れもなく、突然この地に攻め込んできたのだ。

 東西に長く南北に短い国土のせいで、ハサールの首都アルガニルは思いのほか南の国境から近い。そのため南のアストゥリア帝国とは意図して友好関係を築いてきたのだが、もはやその関係は崩壊していた。

 

 宣戦布告もなく突如侵攻してきたかと思えば、アストゥリア軍はハサール南部の守り、フリンツァー南部辺境伯軍を蹴散らしてそのまま首都に迫ろうとした。

 しかし東部から駆け付けたラングロワ軍の必死の抵抗もあり、その場で足踏みを余儀なくされる。そのうえに西からフレデリク率いる西部軍が到着すると、その兵力差は僅差にまで縮まっていた。


 その後、ファルハーレン公国からの援軍と、虎の子である首都防衛隊の投入が決まると、兵の数では完全にハサールが上回ることになる。その知らせに前線の者たちは皆一様に胸を撫で下ろした。

 しかしその時だった。南東方面からアストゥリアの増援部隊が現れたのは。

 その数は第一陣とほぼ同数。これによりハサール軍の倍以上にまで膨らんだアストゥリアは、広大な小麦畑を踏み荒らしながら陣を敷き始める。そして目の前のハサール軍ごと、首都アルガニルまで飲み込もうとしていたのだった。



「おのれぇ……アストゥリアめぇ……」


 小高い丘の上から敵陣営を見下ろすハサール王国東部軍将軍バティスト。彼がポツリと呟くと、横のフレデリクが視線を向けた。

 数日前、バティストから説明を受けたフレデリクは、援軍をかき集めればアストゥリアに勝てると目論んでいた。しかしここまで戦力差を見せつけられてしまうと、たとえこの後ムルシア軍が合流したとしても、およそ勝てるとは思えなくなった。


 とは言うものの、そんな悠長なことなど言っていられない。

 着々と陣を整えつつある敵軍を見る限り、恐らく明日にも動き出すだろう。そして数に物を言わせて、一気に突破するつもりなのだ。


 眼下に広がる圧倒的なまでの敵軍。それはもはや誰の目にも絶望的に写った。

 しかし軍の存在意義が国防にある以上、たとえ万に一つも勝ち目がなくとも逃げ出すなどあり得ない。ならばここで可能な限り粘り続けて、首都の者たちが避難する時間を作るべきなのだ。そのためには、最後の一人になるまで抵抗するも辞さず。


 軍の上層部がそう判断した以上、誰もがそれに従うしかない。

 己の運命、そして祖国の未来を思って今や悲壮感すら漂う前線の兵たちを眺めながら、指揮官フレデリクも物思いに沈んでいた。




 あぁ、リタ。

 残念だけど、もう僕は生きて戻れないだろう。

 この地で討ち死にするのは間違いない。

 誤解しないでほしいのだけれど、決して怖いと言っているのではないよ。

 僕はただ、君に別れも告げずに死ぬのが残念なだけなんだ。


 リタ……君は本当に素晴らしい女性だ。

 頭が良くて度胸があり、決断力にも優れている。

 確かに少々頑固すぎるきらいはあるけれど、その真っ直ぐな心根はむしろ清々しいほどだ。


 そのうえ魔法の才は群を抜き、今や王国を代表する魔術師にまで上り詰めようとしている。

 そんな君だからこそ、武家貴族家に生まれていながら、軍務に向かない僕のような男が好きになったのだろう。


 あぁリタ。なにより君は美しい。

 まさに神が造りたもうた完ぺきな美貌と、誰もが見惚れる愛らしい面差し。

 まるで妖精かと見紛うようなすらりとした体躯と、天使のように無垢な佇まい。


 これまで僕が生きてきた中で、君ほど強く美しい女性に会ったことはない。

 恥ずかしくてこれまで言ったことはなかったけれど、君と出会えて本当に良かったと思う。願わくばこのまま君と夫婦になりたかった。


 だけどこれでお別れだ。

 次期辺境候……いや、男として生まれてきた以上、僕はここで逃げるわけにはいかない。

 たとえ勝機がなくとも、このまま戦うしかないんだ。


 ごめん、リタ。

 君が戻って来るまで待っていられなかったよ。

 できれば最後に別れを告げたかった。君を一目見たかった。

 けれどもう無理なんだ。


 それじゃあ、リタ。

 そのうちまた会おうな。一足先にあの世で待ってるからさ。

 ――でもまぁ、きっと遠い未来になるだろうけれどね。


 

 眼下の敵を見下ろしながら、最愛の女性に別れを告げるフレデリク。その背にバティストがそっと気遣わしげな視線を向けた。


 彼とても妻も子もいる身なのだから、フレデリクの想いは痛いほどわかる。いや、未だ十代の前途有望な若者であるぶん、その無念さはバティストより上かもしれない。

 副将軍として長年に渡り東部軍を纏めてきたバティストは、念願叶って将軍、そして東部辺境候にまで上り詰めた。これで国を代表する二大貴族家にまでラングロワ家を引き上げたのだから、今さら思い残すことも多くない。


 もちろん家族のことは心配だ。

 殺しても死なないような長男ラインハルトは別にしても、愛する妻ユゲットも13歳の長女マルスリーヌも残されている。しかし彼らとて己の立場を慮れば、常に覚悟はしてきただろう。



 本来なら数年後には結婚していたのだから、フレデリクも愛するリタとの未来を思い描いていたはずだ。にもかかわらず、それを投げ捨ててここで死のうとしている。

 その無念さは如何いかばかりか。

 決して顔や態度には現さないものの、息子のような年齢のフレデリクが不憫でならないバティストだった。


 その思いを知ってか知らずか、突然フレデリクが声を上げる。

 

「よしっ! それでは将軍、いきましょうか!」


 まるで未練を断ち切るようにそう告げると、フレデリクは勢いよく足を踏み出したのだった。




 ――――



 

 平野で陣を整えるアストゥリア軍と、迎え撃とうと小高い丘の上に陣を張るハサール軍。

 この二つの陣営を俯瞰で眺められる山の中腹に、一人の少女が佇んでいた。

 

 いささか時代遅れなドリル巻きが映える、プラチナブロンドの髪を風になびかせ、透き通るような灰色の瞳を細めて遠くを見渡す小柄な乙女。

 それはリタだった。

 ハサール王国の次代の魔術師と呼ばれつつあるこの少女は、そこで二国の布陣を眺めていた。

 いや、正確に言うなら眺めているのではない。呪文を唱えようとしていたのだ。

  

 あれからリタは、結局シャンタルの申し出を受け入れた。

 『妖精の小道』を使わせてもらう代わりに、彼女の弟子になることを了承したのだ。

 もちろんそこに迷いはあった。

 祖国と家族、そして最愛の婚約者の命と安寧。それと己の夢を天秤にかけてみたものの、もはやそこに選択肢など存在しなかった。


 選べと言っておきながら、実際には一択しかない現実。

 それに絶望感を味わいながらも、結局リタは選ばざるを得なかった。

 もしも悔いがないかと問われたならば、猛烈な勢いで噛みついていただろう。それくらいその選択と結果は、彼女にとって受け入れ難いものだった。

 

 リタが心の内で毒づく。

 その全てがアストゥリアのせいだと言わんばかりに、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせ続けた。



 おのれぇ……憎っくきアストゥリアめぇ……もう絶対に許さない。

 一体どこまで愚弄すれば気が済むのか。もはやこれは我慢の限界を超えている。

 

 今から200と余年前。思えば、初恋の人――スヴェンが死んだのもアストゥリアとの小競り合いが原因だった。今さら言っても仕方がないが、彼はアストゥリアに殺されたのだ。

 あの時の自分は未だ21歳の駆け出しで、師匠の教えのもとにひたすら勉強する毎日だった。だから幾ら憎もうが叫ぼうが復讐などできるわけもなく、ただただ泣くことしかできなかったのだ。

 以来200年。気付けばアストゥリアなど国ごと亡ぼすこともできるようになっていたが、立場を慮ればそれすらも許されなくなっていた。


 しかし――


「くっそぉ……アストゥリアめぇ……私がその気だったなら、あんたたちなんてとうの昔に滅んでいたはずなのよ! けれど世界のバランスが崩れるからと、これまで思い留まってきたというのに――知らないというのは、本当に幸せなものね! 身の程もわきまえず、よくもやってくれたものだわ!!」


 ついに堪えきれなくなったのか、独り言と呼ぶには少々大きすぎる声を漏らすと、グイっとばかりにリタが両掌を空に翳した。


「えぇそうよ! 口ではあんなことを言っていたけれど、チャンスさえあれば前世の私だって結婚してみたかったのよ! なのに……なのに……念願叶ってやっと結婚できると思ってみれば、あんたたちのせいで全てが台無しじゃないのよ! ――愛する旦那様――フレデリクとの夢のような日々! 甘々の新婚生活! 可愛い赤ちゃんのお世話もしてみたかったし、幼い我が子を抱き締めてもみたかった! 子供の成人は盛大にお祝いしたかったし、孫が生まれたら一緒にお散歩もしたかった!! ――それなのに……それなのに……そんなささやかな夢と希望まで全部奪いやがってぇ!! その報いを受けるがいいわ! このクソ野郎がぁぁぁ!!!!」


 山の中腹に突如響き渡る、甲高い呪詛。

 まるで親の仇を見るような目つきでアストゥリア軍を睨みつけたリタは、その勢いのまま大声で呪文の詠唱を始めた。


「さぁいくわよ、このくそったれアストゥリアがぁ! 覚悟せぇや!! ――古よりの盟約を誓いし宇宙そらよ、銀河よ、星たちよ。我が願いを聞き届け給え。流れる星と爆裂の雨となりてこの地を覆い尽くし、天から降り注ぎし風雨の如く――」



 小さくも艶めかしいリタの口から、朗々と呪文が紡がれる。

 本来の彼女は無詠唱のまま殆どの魔法を行使できるのだが、ここ一番の大規模魔法を使うときだけ例外的に呪文を唱えていた。

 そうすることによって魔力放出の効率が上がり、身体が許す限りの最大の威力を発揮できるからだ。

 とは言え、詠唱と無詠唱による威力の差はほんの僅かでしかない。しかし今の彼女は、それすらも惜しいとばかりに敢えて呪文を唱え続けた。


 最後の一句まで間違うことなく詠唱すると、これで仕上げとばかりにリタは一際大きな声で叫んだ。


「さぁ、いっけぇー!! 食らえ、隕石流星雨メテオ・ストライク!!!!」



 甲高い叫びが高く空に消えていく。すると次第に遠くの空が不穏な色に染まり始めた。

 そして次の瞬間、厚い雲をかき分けてそれ・・は現れたのだった。

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