第316話 母様の名前

「あちしの名前は『ポプ子』なの。これはね、母様かあさまが付けてくれたの。どうどう? いい名前でしょう?」


 緑色の光を発しながら、ふよふよと宙を舞う体長10センチ少々の小さな少女。

 その口から告げられた言葉は、リタの動きを止めるのに十分だった。

 まるで信じられないと言わんばかりに大きく瞳を見開くと、思わずリタはしげしげとピクシーを見つめてしまう。


 聞き間違いでなければ、確かに彼女は「ポプ子」と名乗った。

 いや、正確にいうならそれは名前ではなく「通り名」に過ぎないのだが、それにしても常識的に有り得なかった。


 ピクシーのような妖精族は、余程の事情がない限り生まれ持った本名を明かすことはない。なぜなら、相手から精神的支配を受ける恐れがあるからだ。

 そのため、たとえ同族同士であろうとも決して名乗ることはなく、生涯に渡って一度も本名を告げぬまま寿命が尽きる個体も少なくない。

 それは人間にはない、彼ら妖精族特有の事情と言えるものだった。


 と言いながら、あまりにそれでは不便であるため、本名とは別に所謂いわゆる「通り名」というものを必ず持っている。

 そしてその「通り名」とは、人間――人族には発音できない、言わば「音波」に近いものであることが普通だ。

 事実リタもこれまでの長い人生の中で、人間に発音できる「通り名」を持つ個体など初めて見たし、そもそもそんなものが存在することさえ知らなかった。

 

 それだけでも十分驚くべきことではあったのだが、実のところ固まるほどリタが驚愕したのはその名前だったのだ。



 ポプ子。

 確かにそれは滅多に聞かない特徴的な名前なのかもしれない。しかし遠く東の島国へ行けばそう珍しいものではないらしい。

 実際その名は、二人組の女神の片割れとしての地では非常に有名だ。

 夫婦に双子の姉妹が生まれると、もう片方の女神とあわせてこぞってその名を付けるほどその知名度は高かった。


 ポプ子は人族で言うところの十代前半の少女のような姿をしており、背の低い小柄な体格に金色の髪と瞳、そして黄色い髪飾りで髪を左右に留めている。

 教典に書かれる神言は「ッゾオラ――――ン‼ア゙ォ゙ア゙ー‼」であり、もう一方の女神の「カツ丼食えよ!!」とあわせて信徒からは非常に敬われているという。


 とは言え、それは以前から東方諸国に興味があったリタだからこそ持ち得る知識であって、ここモンタネル大陸では殆ど知られていない。

 にもかかわらず、ここでその名が出てきたのは、ただの偶然というには出来過ぎていた。そこに何かしらの作為的なものを感じてしまうのは、さすがに考えすぎなのだろうか。


 などと変わらず固まったままリタが考えていると、ポプ子が悲しそうな顔をした。

 

「ねぇねぇ、リタ。どうしたの? 変なの? あちしの名前って変なの? そうなの?」


「えっ……?」


「そうなんだ……変なんだ……うぅぅ……せっかく、せっかく母様かあさまが付けてくれたのに……うぇぇぇ」


 リタの反応を勘違いしたのだろう。

 次第にポプ子は小さな瞳からさらに小さな涙を溢れさせてシクシクと泣き出し始める。

 するとリタが慌ててなだめた。


「そ、そんなことはないわ! とっても良い名前だと思う! あなたの母様かあさまって本当にいいセンスしてると思うわ!」 


「ぐすっ、ぐすっ……そ、そう?」 


「うん、そう! 嘘じゃないわ、本気でそう思っているから! ――ねぇ、ユニ夫!?」


「ブヒン、ブフン、ブルルン!」




 その後ポプ子は、リタたちを里に案内してくれることになった。

 多少親しくなったとは言え、初対面であるうえにピクシーが恐れる人族のリタを何故安易に受け入れてくれたのかと問えば、それはユニ夫の存在が大きかった。

 ポプ子にしてみれば、ユニ夫は同じ精霊族の仲間だ。確かに住む世界も違うし接点もないのだが、彼女にとっては疑う余地のない同族と言えた。

 

 その彼が信頼を寄せている以上、リタは悪い人間ではないのだろう。

 そう思ったポプ子は、リタの願いを二つ返事で受け入れてくれたのだ。


 相変わらずふよふよと飛び回る小さな少女。

 その背をゆっくり追いかけながら、リタはずっと気になっていたことを質問してみた。


「ねぇポプ子ちゃん。あなたの母様かあさまなんだけれど……名前を教えてくれないかしら? ――もちろん通り名でいいわ」


「えっ? 母様の名前? なんで? なんで知りたいの?」


「えぇと、母様にはこれからお願いをしに行かないといけないから、先に名前を知っておくべきだと思ってね。間違ったら失礼でしょう?」


「あぁ……そうね、そうだね。でも大丈夫。母様かあさまはとっても優しいの。そのくらいじゃ怒らないの」


「そうなんだ。――ねぇ、母様は好き?」


「うん、大好きなの! とっても綺麗で優しくて、あちしも、姉様ねえさまたちも妹たちも、みんなみんな大好きなの! そうなの!」


「あらぁ、それはいいわねぇ。――それでポプ子ちゃん。母様のお名前教えてくれる?」


「えっ? あぁ……そうだったね。それはね『Φй∇Эюжθζ∬∂』なの! とっても綺麗な名前でしょう?」


「そ、そうね……で、でも、それじゃなくて、もっとこう、なんというか――」


 自信満々に満面の笑みまで浮かべて母親――女王ピクシーの名を告げたポプ子。しかしその口から出てきたのは、凡そ人間には発音できないものだった。

 間違いなくそれはピクシー族特有の通り名だろう。思い起こせば10年前。あのピクシーも自分の名をそんな風に言っていたのを思い出す。

 なので続けて訊いてみた。


「あ、あのね。母様にもポプ子ちゃんみたいな人間にも言える名前があるんじゃないかな? 聞いたことない?」


「えぇ……知らない、知らない。母様の名前は『Φй∇Эюжθζ∬∂』しか知らない。他にあるの? そうなの?」


「あぁ、知らないのね……ごめんね、変なこと聞いて」



 その答えに、思わずリタは落胆してしまう。

 彼女の名前がポプ子だと聞いた時から、リタには何か予感めいたものがあったのだ。

 自分の予想が合っているなら、恐らく母親はあのピクシーに違いない。何ら証拠もないまま勝手にそう思い込んでいたものの、冷静になってみれば少々楽観的過ぎた。


 もしも女王ピクシーがあのピクシーであるのなら、多少の無理は通るだろう。

 「妖精の小道」を使わせろと突然頼み込んだとしても、彼女であれば聞いてくれるに違いない。そう思っていたのだ。

 これがもしも本当に思い違いだったとしたら、それこそ目も当てられない。


 ここに来るまで既に半日。そして元の街道に戻るには同じ時間が必要だ。

 当初の予定通り、その全ての時間をユニ夫の背の上で過ごしていたなら、今頃はハサールの国境を越えていたに違いない。

 この緊急時にどれだけの時間を無駄にしたのかと考えると、最早もはや絶望しか湧いてこなかった。

 

 不思議そうな顔でふよふよと飛ぶポプ子を見つめながら、再び暗い顔をしてしまうリタ。

 それでも幼気いたいけな少女の手前、無理に笑顔を作りながら進み続けること約10分。

 それまで鬱蒼と茂っていた木々が突如開けたのだった。




「着いたよ、着いたよ! ここがあちしのお家なの。ピクシーの里へようこそ! なの!」


 深い原始の森の中にぽっかりと開いた草原。周囲をぐるりと木々に囲まれて、そこだけ丸く空が見えていた。

 滅多に見ることのない樹齢数百年にもなる太い木の幹に無数の穴が開けられて、そこから数多の小さな顔が覗き見る。

 

 その光景は過去に何処かで見たことがあった。

 そうだ、オルカホ村だ。まだ幼かった頃、あの襤褸ぼろ小屋の裏手の山で見たのだ。

 もちろん場所も違えば広さも違う。住んでいるピクシーの数だって違うだろうし、よく見れば周囲の植生も違う。

 しかしこの光景は間違いなく見たことがあった。

 思わずふっと気が遠くなるような既視感。それはまさにデジャヴュと呼ぶに相応しい。


 そんな景色に何気にリタが眩暈を起こしそうになっていると、突如それは聞こえてきた。


「これはこれは……誰かと思えばユニコーンではありませんか。このような場所に突然どうされたのです? 珍しいですわね」


 細く高く、それでいて美しい声音。

 まるで高級な弦楽器のように繊細な響きを持つ声は、思わず聞き惚れてしまうほど耳に優しい。

 その声に眩暈を振り払い、我に返ったリタが前方に視線を向けると、やはりそこには何処かで見たことのある姿があった。



 それは大きなピクシーだった。

 普通の個体が10センチ少々の大きさであるのに対し、彼女は優に20センチを超えていた。

 金色に輝く長く美しい髪と、はっきりとした目鼻立ちに神憑り的に整った顔。

 昆虫のような羽を背に生やし、全身から緑色の淡い光を発しながらゆるゆると宙を舞う姿は、まるで小さな女神のように神々しい。

 

 他のピクシーは人間の10歳程度の女児に酷似しているのだが、彼女の場合は15歳前後に見える。

 豊満とまでは言えないまでも、それでも十分に女性的な丸みを帯びた身体。それを惜しげもなく晒しながら、その下腹部は臨月の妊婦のように膨らんでいた。


 そう、彼女こそがこの里の主――女王ピクシーに他ならない。

 その彼女が大切そうにお腹を摩りながら、リタに気付く。


「おや? これは人間ではありませんか。ユニコーンも珍しいですが、人族などそれ以上に珍しい。――よくぞこの森を抜けてこられたものですわね。もしや、そのユニコーンの友人なのですか?」


 一般のピクシーに比べると、随分と優雅な雰囲気と口調を醸す女王ピクシー。

 リタはその顔を必死になって見つめていた。



 人間の目でピクシーの個体差を識別するのは難しい。

 人族のように極端に容姿の差があればそれぞれの特徴を掴めるのだろうが、皆が皆揃って整った顔と容姿を持つ彼女たちは、人間の目には皆同じに見えてしまう。

 そのため微妙な髪色の違いや羽の形などをもとに特徴付けするしかないのだが、それにも限界がある。


 それでもリタは必死にその目を凝らし続けた。

 かつて共に冒険し、苦楽を共にし、妹として共に暮らしたあの小さなピクシー。

 その面影を目の前の女王ピクシーに見つけようとしたのだ。


 しかしその努力はまるで実らなかった。

 もとより人間には皆同じに見えるピクシーであるうえに、大きく成長した姿には以前の面影は全く見られない。

 あとは直接尋ねてみるしかないのだろうが、まるでこちらに気付いた様子もないところを見ると、それも望み薄だろう。


 そんな思いにリタが押しつぶされそうになっていると、突如女王ピクシーが息を飲んだ。


「えっ! も、もしかして……あなたは……」


「え?」


「リタ? リタなの!?」


「えぇ!?」


「ねぇ、リタでしょう!? 間違いない、あなたリタね!? どうしてこんなところに!?」



 変わらず下腹部を摩りながら、前のめりに近づいてくる女王ピクシー。

 その姿を見た途端、ここ最近で一番の笑みがリタの顔から零れたのだった。

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