第315話 その名は

 パカラッ、パカラッ、パカラッ――

 月の光さえ届かない鬱蒼と木々が茂る林道に、軽快な蹄の音が響いていた。

 足元さえも覚束ない深い闇の中を、まるで臆することなく疾走する白い魔獣。

 額から伸びる長い角は、時折差し込む月明かりを浴びて輝きを放ち、その背に乗る一人の少女を照らし出す。


 それは一路ハサールへとひた走るユニコーンのユニ夫とリタだった。

 もう何時間、いや、何日走っただろうか。最早もはやそれすらもわからぬほどユニ夫は走り続けていた。

 まるで疲れを知らぬように走り続けるユニ夫ではあるが、その背に跨るリタにはさすがに疲労が見て取れる。

 今も必死に背にしがみついているものの、虚ろな半眼と呆けたような顔を見る限り、半ば意識は朦朧としているようだ。


 精霊界に属する聖獣であるユニコーンには、そもそも疲労という概念がない。そのため何時間でも何日でも、それこそ飽きるまで全力で走り続けることができるのだが、その背に乗るリタは別だった。


 持って生まれた才能とたゆまぬ努力により、前世で最強と謳われた魔女アニエス。今世でも弱冠16歳にしてすでに国を代表する魔術師になりつつあるリタ。

 魔術に関しては他の追随を許さぬ非凡さを見せつける彼女ではあるが、その肉体は普通の少女と何も変わらない。


 母親に似て背が低く小柄な体格ではあるものの、白く細い腕とくびれた腰、そして少しだけ肉付きの良い尻と腿は、まさに普通の少女と言っていい。

 もっとも、見る度に婚約者が悶々としてしまうほどの大きな胸と、妖精を彷彿とさせる美しくも愛らしい小さな顔は、数多の人目を惹いていたのだが。


 そんなリタが、半ば意識を飛ばすようにユニ夫の背に揺られていた。



 月さえも見えなくなり、薄っすらと明るくなり始めた明け方。遂にユニ夫は速度を落とした。そして背に乗る親友を心配して短いいななきを発した。


 ふと見ると、リタが気を失いそうになっていた。

 いや、正確には寝落ちしそうになっていただけなのだが、それでも積み重なった疲労と寝不足は確実にその肉体と精神を削っていたのだ。

 半眼ではあるものの、それでもしっかりと前を向いていたはずなのに、今では顔を俯かせてうつらうつらと上体を揺らしている。


 このままでは本当に落馬してしまいそうだ。下手をすれば怪我をしてしまうかもしれない。

 あまりの危なさに、遂にユニ夫はその足を止めたのだった。


「ブヒン、ブフン、ブフフン……」


「……」


「ブヒ、ブフン……」


「……」


 何度ユニ夫がいなないてみても、一向にリタは目を覚まさない。

 どうやら完全に眠ってしまったらしく、しっかりと瞳を閉じて半開きになった口からは、年頃の乙女にあるまじき涎が垂れていた。

 諦めたユニ夫は仕方なくその場に座り込むと、リタが目覚めるまでそのまま待機することにしたのだった。




 チュン、チュン、チュン……


 身震いするような冷気漂う朝靄の中、何処かから小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 身体の芯まで届く寒さに身を震わせたリタは、前触れもなく突然目を見開いた。


「……あぁ、こ、ここはどこ? も、もしかして私……眠ってた!?」


「ブヒン、ブフフン」


 リタの呟きにいななききを返すユニ夫。その声には安堵が混じっていた。

 疲れもしないし死ぬこともないユニコーンではあるが、彼らとて眠ったり休んだりはする。そのためユニ夫も眠るリタに寄り添って身を伏せていたのだが、彼女の目覚めとともにその身を起こした。


「ブフン、ブヒヒヒン」


「あぁ、ユニ夫……そっか、ごめん。あなた一人に頑張らせて、私だけ眠っちゃったんだね。――うぅ、寒ぶっ……それで私、何時間寝てた?」


「ブルルン、ブフン、ブヒヒン」


「えぇ4、5時間……!? そ、そんなに眠ってたんだ……ごめんね。急いでくれと自分から言っておきながら、不覚にも寝てしまうだなんて。あぁ、自己嫌悪。――ところでここはどの辺りなのかしら? あなたのおかげでかなり進めたとは思うのだけれど」


「ブフフン、ブルン、ブヒン」


「シャルネキーニャの森……? あぁ、随分と東まで来ていたのね。ありがとうユニ夫。全てはあなたの頑張りのおかげね。――とは言え、5時間も眠ってしまったから、差し引きゼロってところなんでしょうけど」


 自嘲気味な笑みを見せるリタ。するとユニ夫が顔に鼻面を擦り付けてくる。

 どうやら気落ちする友人を慰めようとしているらしく、優しくその身を擦り寄せた。

 するとリタが小さく笑みを見せる。


「ありがとう、ユニ夫。あなたは優しいのね」


「ブフン、ブヒン!」


「ふふふ、謙遜しなくてもいいのよ。そんなあなただからこそ、こんな私でも親友になれたんだもの。ありがとう。あなたには本当に感謝しているのよ。――さぁ、もう行かなくちゃ。随分と時間を無駄にしてしまったから、急がないと」


 そう告げながらリタは立ち上がったのだが、突然目眩でも覚えたようによろけてしまう。するとユニ夫が心配そうに嘶いた。


「ブヒン……」


「あはは、ごめんごめん。思った以上に疲れているのかも。随分と眠らせてもらったというのに、この体たらく。ごめんね、自分で自分が情けなくなってくるわ」


「ブフブフ」


「はぁ……やっぱり自己嫌悪。ねぇ、ユニ夫。この際だから聞いてくれる? 正直に告白するけれど、もしかしたらもう間に合わないんじゃないかって思ったりもするの。――南部軍が壊滅したのはもう7日も前の話。ケビンの前では自信満々に笑みさえ見せてきたけれど、このまま急いだところで既に手遅れなんじゃないかって」


「ブフン……」


「南北に短い国土のせいで、ハサールの首都は思いの外アストゥリアから近いの。そのため長年に渡ってアストゥリアとは友好を結んできたのだけれど……いざこうなってしまうと、やはり地理的に不利ね」


「……」


「それで思うのよ。首都にはお父様とお母様がいる。それにお祖父様もお祖母様も、そしてフランシスだっているのよ。そこにあの・・アストゥリアが攻め込んだのだと想像してしまうと……」


 涙こそ流していないものの、次第にリタは細く小さな肩を震わせ始める。そして顔を伏せたままユニ夫に独白を続けた。


「知っての通りハサール防衛軍の主力はオスカル卿率いるムルシア軍。その卿が遠征中の今、フレデリク様が代理なんだけど……私はそれも心配なの。こう言ってはなんだけど、決して彼は戦向きじゃない。にもかからわらず無駄に責任感が強いものだから、誰がなんと言おうと絶対に矢面に立とうとするはず。――そもそも主力が抜けたムルシア軍にアストゥリアを迎え撃つ力なんてあるはずないじゃない! なのに……なのに……」


「ブフン……」


「あぁ! 迫りくるアストゥリアを前にあの人が盾になるだなんて! それを考えただけでも私は……」



 後先考えずに時々ブチ切れるものの、ともすれば老成した大人のように沈着冷静だと巷でリタは評判だった。

 しかしその面影もなく、今の彼女は最愛の婚約者の身を案じるか弱い一人の少女でしかなかった。

 如何に力を持っていようと、遠く離れていれば何もできない。そんな無力感に苛まれたリタは、遂に涙を流し始めてしまう。


 顔を俯かせたままポロポロと涙を流す少女。

 するとユニ夫が、わかっていると言わんばかりに優しく鼻面を擦りつけてくる。その柔らかく温かい感触に不意にリタは顔を上げた。

 未だ涙が光るその顔には、決死の覚悟が浮かんでいた。


「あぁ、だめだめ! 仮にも『ブルゴーの英知』と呼ばれていた私なんだもの。私がやらずに誰がやるのよ! やっぱり急いで戻らなきゃ!! ――諦めたら全てが終わってしまう。たとえ間に合わなかったとしても、全力を出し切らなければ絶対後悔する!」


「ブフン! ブヒン!」


「そう、後悔だけはしたくない! 絶対に! ――さぁユニ夫、出発するわよ! 今すぐに! 時間がもったいないわ!」


 突如表情を変えたかと思えば、グイッとばかりに涙を拭うリタ。

 勢いよく親友の背に跨がろうとしていると、意味ありげにユニ夫が嘶いた。


「ブフフン、ブヒン、ブルルルン!」


 それは何かを訴えるようなものだった。するとリタが一瞬胡乱な顔で訊き返す。


「えっ? なに? ごめん、もう少しわかるように言ってくれる? ――えぇ! そ、そうなの? この近くにピクシーの里があるの? ――それじゃあ……もしかするとあれ・・が使えるかもしれないって!?」


 パッと顔を明るくすると、勢いよくリタは両手を叩きあわせる。それはまるで名案を思いついた時のような仕草だった。

 するとユニ夫が嬉しそうに嘶いた。


「ブヒン、ブヒン!」


「でかしたわ、ユニ夫! そうとわかれば行き先変更よ! 目指すはシャルネキーニャの森のピクシーの里! さぁ、案内よろしくね!!」


 勢いよくそう告げたリタの顔には、何処か希望を感じさせる表情が浮かんでいた。




 西をカルデイア大公国、東をアストゥリア帝国、そして北と南をそれぞれハサール王国とファルハーレン公国に挟まれた一帯には巨大な森が広がっている。 

 俗に「シャルネキーニャの森」と呼ばれるこの地帯は、人間が作った街道でぐるりと外周を囲まれているものの、その中がどうなっているのかは未だ誰も知らない。

 

 何故なら、この森に入った者は誰一人として帰ってこないからだ。

 一見すると普通の森にしか見えないが、一歩中に入るとそこには凶暴な獣や魔獣、人を欺く妖精や精霊などが多数住んでいる。そして侵入者である人間を徹底的に排除しようとするのだ。

 そのため一度入ると二度と帰ってこられないことから、別名「拒絶の森」とも呼ばれている。


 そんな深い森の中を、まるで恐れる様子もなく一人と一頭が歩いていた。

 一人は小柄な人間の少女。そしてもう一頭は額から長い角を生やした真っ白なユニコーン。

 もちろんそれはリタとユニ夫だ。

 この森に入ってから既に数時間。少しでも時間が惜しいと言いながら、何故こんなところを歩いているのかと問われれば、それはピクシーを探しているからに他ならない。


 ユニ夫の情報によれば、この「シャルネキーニャの森」には太古の昔から幾つかのピクシー族が住んでいるらしい。

 普通であれば一つの森には一つのピクシーの里しかないのだが、ここには複数あるそうだ。それはそれだけこの森が人間の驚異から隔絶されている証拠でもあった。


 ちなみに、ここに来るまで何頭もの魔獣に出くわした。

 しかしユニ夫の姿を見た途端、皆逃げるように遠ざかっていったのだ。

 知能の高い妖精ならいざ知らず、たとえ知能の低い魔獣であっても、聖獣であるユニ夫には決して近づこうとはしなかった。


 もしもこれがリタ一人だったら、決して無事では済まなかっただろう。

 もちろん強力無比な攻撃魔法でことごとく倒すこともできたのかもしれないが、決して良い結果に結びつくとは思えない。

 森を荒らす者は相応の報いを受ける。過去に精霊の女王「ティターニア」と相まみえたことのあるリタにとって、最早もはやそれは常識だった。



 森に入って数時間。

 ユニ夫の案内があるにもかかわらず、一向に見つからないピクシーにさすがのリタも焦り始める。しかしその時、やっと前方に緑の光を見つけた。

 如何にも遊び好きのピクシーらしく、特に目的もなくフラフラと森の中を彷徨うその様は、思わず笑みが溢れるほど愛らしい。


 臆病で有名な彼女たちのことだから、突然声をかけると逃げてしまう。

 そのため向こうが気付くのをひたすら待ち続けたのだが、予想に反してすぐに近づいてきた。

 どうやらユニ夫に興味を持ったらしい。精霊の一種であるピクシーにしても、普段は精霊界に住むユニコーンが珍しいのかもしれない。


 相変わらずフラフラと飛びながら恐れる風もなく近づいてくると、リタに気付いたピクシーは直前でその動きを止めた。

 

 全身から淡い緑の光を発する体長10センチ程のピクシーの少女。

 10歳ほどの人間の女児に酷似する姿はまるで人形のように愛らしく、1センチ程度しかない小さな顔は神憑り的に整ってる。

 敢えてその容姿を表現するなら、月並みではあるが「神が作りたもうた、人知を超えた美少女」に他ならなかった。


 そんな小さな美少女が、背中に生えた小さな羽でふよふよと宙を舞っている。そして徐に話しかけてきた。


「だれだれ? あなたはだぁれ? あなたはユニコーンね。知ってる。でもでも、あなたはだぁれ? 見たことないし、知らないの。でもきっと魔女。それだけはわかるの」


 恐らく警戒しているのだろう。

 ユニ夫に興味津々なのを隠そうともせず、しかしリタには近づいてこない。

 するとリタは、小さな子供に話しかけるように優しく声をかけた。



「こんにちは。私はリタ。見ての通り人間よ。そしてこちらはユニコーンのユニ夫。怖がらないで。私たちはあなたを捕まえに来たのではないから」


「ブヒン、ブフン、ブルルン!」


「……そうなの? 悪い人間を見たらすぐに逃げろって、母様かあさまが言ってたの。うん、言ってたの。あなたは悪い人間じゃないの? そうなの? 違うの?」


「ふふふ、違うわ。私たちはね、あなたの母様かあさま――女王ピクシーに会いに来たのよ。会ったばかりだし、急で悪いんだけど、母様のところに連れて行ってくれないかしら?」


「ブフン、ブフフン!」


「なんで、なんで? なんで母様かあさまに会いたいの? ねぇねぇ?」


「あのね、ちょっとあるものを使わせてもらえないかなぁって思ったの。――ねぇ知ってる? 『妖精の小道』って」


 満面の笑みを顔に張り付けたまま、リタがピクシーに問いかける。するとピクシーも興味津々にリタの周りを飛び始めた。


「うんうん、もちろん知ってるよ。飛ぶより早いし、とっても便利なの。そうなの」


 何処か得意そうに答えるピクシー。

 その様子を見て『いける』と判断したリタは、尚も詳しく話をしようとする。しかし次の言葉に固まってしまう。


「でもね、でもね、きっと貸してくれないの。母様かあさまはうんって言わないと思うの。だって母様かあさまはあなたなんて知らないし。知らないのに貸さないよ、きっと。うん、きっと貸さないの」


 

 ピクシーの言うことはもっともだ。

 「妖精の小道」などというものは、そこに住むピクシーにとってはなくてはならない大切なものだ。それを見ず知らずの、しかも人間に突然貸せと言われて貸すはずもない。

 10年以上前、まだ幼かったリタがそれを使えたのは、それ以前から女王ピクシーと交流があったからだ。そのうえ友人認定までされていたからに他ならなかった。


 今さらながらにそんな事情を思い出したリタは、己の浅はかさを呪い始める。そしてここに来るまでの数時間がただの無駄になってしまったことを本気で悔いた。


 顔を俯かせ、忸怩たる思いで愕然とするリタ。

 するとピクシーが続けて質問をしてくる。


「ねぇねぇ、あなたはリタね。そしてあなたはユニ夫。教えてくれてありがとう。とっても、とっても嬉しかったの。だからね、特別にあちしの名前も教えてあげるの」


「えっ? でも名前なんて簡単に教えてたらダメなんじゃないの?」


「もちろん本名なんて教えないの。だめ、絶対。でもでも大丈夫。教えるのは通り名だけだから」


「通り名……だけどあなたたちの通り名は、人間の私には発音できないわ」


「それも大丈夫。あちしは母様かあさまから特別な通り名をもらったの。もらったの。人間にも言える名前をね。そうそう人間にも言えるの」


「人間にも言える名前? そんなの聞いたことないけれど……」


 思わずリタは胡乱な顔をしてしまう。

 殆ど人間と交流を持たないピクシーが、敢えて人間にも呼べる名前を付ける意味がわからない。果たしてその狙いはなんなのか。

 どうやら彼女の母親――女王ピクシーは相当な変わり者らしい。


 などと変わらず暗い顔のままリタが考えていると、ニコニコと笑いながら再びピクシーが口を開いた。



「あちしの名前は『ポプ子』なの。これはね、母様かあさまが付けてくれたの。どうどう? いい名前でしょう?」


 なにか思うところでもあったのだろうか。

 その言葉に、思わずリタは大きく目を見開いたのだった。

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