第312話 命がけの名乗り
遡ること数分前。
アストゥリア帝国遠征軍将軍ヒルデブレヒト・アナスタージウス・ルードルフ・ブルーノ・ホルトハウス(なげぇよ)はほくそ笑んでいた。
皇帝エレメイによりカルデイアへの侵攻を指示されていた彼ではあるが、もとよりそう簡単に事が運ぶとは思っていなかった。
軍事国家で鳴らしたのも今は昔。すでに死に体のカルデイアはもはや満足に戦える状態ではない。しかし復活した過去の名将に率いられた軍は、かつての勢いを取り戻しつつあったのだ。
祖国から遠く離れた異国の地で、敵を排除しながら複数の港湾都市を確保する。それは歴戦の将軍ホルトハウスにして中々に骨の折れる作戦だった。
しかし蓋を開けてみれば全ては杞憂に終わる。
途中でファルハーレン公妃と公子の捕獲に失敗して別働隊を全滅させられたものの、進軍自体は円滑に進み、気づけば首都ベラルカサに迫っていた。
さらにカルデイア軍の壊滅及び首都陥落も全てブルゴー軍が肩代わりしてくれたおかげで、ほぼ無傷のままブルゴー軍の背後を取ることができたのだ。
国を出てからずっと激戦続きのブルゴー軍は、その数を半数にまで減らしていた。そのうえ兵たちの疲労も限界に近い。
それだけでも十分勝機があるにもかかわらず、さらにアストゥリア軍は数で圧倒しようとした。
すでにぼろぼろのブルゴー軍に対して、今や4倍にも膨れ上がった圧倒的兵力を揃えるアストゥリア軍。
その勝敗は誰もが疑うところはなかった。
ここでブルゴー軍を殲滅させられれば、カルデイアの覇権はアストゥリアのものになる。
確かにそれは漁夫の利だとか火事場泥棒などと言われるかもしれないが、彼らにとっては痛くも痒くもなかった。
そもそもブルゴーは長年の仇敵であって、全く情けをかける相手ではないのだ。そこに良心の呵責は一切なく、鼻を明かしたとしてむしろ誇らしい気持ちにさえなる。
恐れをなして逃げ去るなら良し、向かってくるならなお良し。
今ここでブルゴー軍を殲滅させられるのなら、アストゥリアにとってこれほどの好機はない。
過去数百年にも渡る宿敵を倒すことができるのだからそこに是非はなく、まさに好運とも言うべき出来事だった。
そんな事情もあり、今や舌舐めずりする部下たちに向かって将軍ホルトハウスは言い放つ。
「ぬははっ! ついにブルゴーも年貢の納め時が来たというものだ。精々良い声で鳴いてくれるのを期待しようではないか!」
「そうですな! これまで何度も苦汁を飲まされてきたのです。魔女アニエスもいない今、恐れるのは王配ケビンのみ。その奴が今ここにいるのはまさに天の配剤かと」
「如何な『
「負けるとわかっていながら向かってくるなど愚の骨頂。せめて一思いに皆殺しにして差し上げましょう!」
などと部下たちは勢いよく気炎を吐く。その顔にはもはや残虐とも言える表情が浮かんでいた。
その時だった。まるで転がるように一人の男が指揮所に走り込んでくる。そして息も絶え絶えにこう告げた。
「ほ、報告いたします!! 正体不明の軍勢が突如現れました!! 場所は――真後ろです!!」
「なにぃ!?」
「はぁ!?」
咄嗟に声を上げたものの、その言葉を幹部たちは理解できていなかった。
そもそも自分たちは敵――ブルゴー軍の背後についていたのだ。さらにその背後につく軍勢などまるで予想していなければ心当たりすらない。
言葉を失った幹部たち。その顔を見る限り、彼らは完全に虚を突かれていた。
しかしその中でホルトハウスが冷静に返した。
「正体不明だと? それで規模は?」
「は、はい! 目測ですが、恐らく我が軍と同規模かと思われます! 先頭を騎馬兵、その後を歩兵が追いかけています!」
「同規模だと……? 一体何処の軍だ? この辺りに展開しているといえば、あそこしかないはずだが……いや、まさかな……」
胡乱な顔をしつつも、自らその答えを導き出しそうになる将軍ホルトハウス。
するとそれを待っていたかのように続けて報告がもたらされた。
「ほ、報告いたします! 軍勢の正体が判明いたしました! あれは――ハサール軍です!! ハサール西部軍のムルシア侯爵軍に間違いありません!!」
慌てるあまり、途中で裏返ってしまう報告者の声。それに皆が目を剥いてしまう。
ハサール軍と言えば、今頃はファルハーレン公国北部でアストゥリア西部軍と交戦中のはずだ。
もとより西部軍はハサール軍を迎え撃つために向ったのだから、決して規模は小さくなかったし兵も精鋭揃いだった。
それをこの短時間で抑えてくるなど到底考えられない。しかし実際に姿を現したのだからそれは事実なのだろう。
「なればそれは敵だ! 直ちに兵を反転させろ! ブルゴー軍――前方への警戒は最低限で良い! とにかく今はハサールの突撃を止めることに全力を挙げろ!!」
驚きのあまり部下たちが一言も発せない中、ただ一人ホルトハウスだけが大声を上げる。
限られた情報の中から瞬時に取捨選択を行い、明確に命令を下すその姿は歴戦の将軍と言われるに足る姿だ。
しかし彼は忘れていた。己が軽んじた正面の敵――ブルゴー軍には、あの「
――――
「殿下。アストゥリア軍が反転していきますぞ。正面の一部だけを残して、残りを全て後方へと割り振りましたな。――如何いたします?」
突如動き出したアストゥリア軍。
その動きに対してブルゴー軍将軍コランタン・クールベがそう告げた。顔には何処か面白そうな笑みが浮かんでいた。
「随分と我々を軽く見てくれたものだな。まぁ、もっともそれも無理からぬこととは思うが。しかし、ここに来てハサールが参戦してくるとは……一体どうなっているんだ?」
などと言いながらケビンが後ろを振り向く。そこにリタがいた。
透き通るような灰色の瞳を大きく見開き、小さな口を開け放つ。ともすれば間抜けにも見える驚いた顔は、思わず笑いそうになるほど面白い。
いつもは凛と澄ました何処か近寄りがたい雰囲気のリタではあるが、そんな顔をしていると年相応の少女にしか見えなかった。
そのリタにケビンが声をかける。
「リタ嬢。どうやらあの軍勢はハサールのものらしいが……もしや聞いておられたのか?」
リタの顔を見れば当然その答えもわかるはず。しかし敢えてケビンはそう尋ねてみた。
するとリタがやっと我に返る。
「い、いいえ……なにも聞いておりませんわ。というよりも、むしろ今ここにあの御仁がいてはいけないのではないかと思いますけれど……」
「ん? それはどういう――」
「な、なんでもありませんわ。とにかく
「そうか。――まぁ、いずれにしても僥倖だ。これで敵指揮所との距離も相当近くなったはず。今なら行けるな」
「では、殿下――」
「あぁ。それじゃあ行こうか。――クールベ将軍。あとは任せた!」
――――
「将軍! 一斉にハサール軍が突撃してきました! まるで
「中央だと!? 一体それになんの意味がある!? オスカルと言ったか? 敵将は余程の馬鹿か無謀か、そのどちらだ!?」
瞬く間に騒がしくなったアストゥリア軍の指揮所の中で、幾つもの叫びが入り乱れていた。
ある者は指示を出し、またある者は報告を受ける。それまで顔に笑みを浮かべるほど余裕を見せていた彼らではあるが、ここに来て必死な表情を見せ始める。
もっともそれは無理もなかった。何故なら、直前までの圧倒的とも言える優位を今や失っていたからだ。
ハサール軍に背後から強襲された結果、前後から挟撃された形になってしまったアストゥリア軍は、気づけば数でも劣勢に追い込まれていた。
確かにブルゴー軍は数が少ないうえに兵も疲れ果てている。しかし兵の士気は異常に高く、そのうえ援軍の到着に至りやる気満々だった。
その事実に愕然としたものの、今さら逃げ出すわけにもいかないアストゥリアは必死に状況を整理する。
「恐らくはここ――指揮所を狙っているようです。一気に攻め寄せて我々を討ち取ろうとしているのではないかと思われます!」
「なにを馬鹿な! 少数精鋭でもあるまいし、そんな意表を突くような戦法などこの数でやったところで――」
「な、なんだ貴様!! 何者だ! ぐあぁー!!」
予想外とも言えるハサール軍の動きに胡乱な顔を隠せないホルトハウス。その彼が訝しさとともに尚も言葉を吐いていると、突如それは聞こえてきた。
背後から上がる複数の叫び声と悲鳴。そして大きな物音。それは間違いなくこの指揮所の入り口からだった。
その声に咄嗟に振り向く将軍と幹部たち。
するとそこに、全身を返り血で真っ赤に染めた一人の男が姿を現したのだった。
「悪いが全員死んでもらう。この戦を終わらせるためだ。恨むな」
「き、貴様!!」
敵に囲まれるのがわかっていながら、まるで躊躇なく乗り込んできた男。
まるで英雄のような勇猛果敢な行いにもかかわらず、中肉中背を絵に描いたような姿は決して強そうには見えない。
しかし元の色がわからないほど真っ赤に染まったその様は、得も言えぬ迫力に満ちていた。
そんな男に一斉に斬りかかる兵と幹部たち。次の瞬間、その全員が地に倒れていた。
はね飛ぶ手足と首。そして降り頻る血飛沫。
まさに地獄絵図としか言いようのない光景の中、それでも必死にホルトハウスが
「貴様ぁ……なにをする……名を名乗れ!! ここが何処なのか、俺が誰なのか知っての所業か!!」
「当たり前だ。ここがアストゥリアの指揮所なのは当然知っている。そもそも俺はここを目指してやってきたのだからな。――とは言え、お前が誰かなどは知らんがな」
「なんだとぉ!? き、貴様ぁ……」
「随分と偉そうだが、大方お前が将軍なんだろう? 違うのか?」
その質問にホルトハウスが笑みを見せた。
「そうだ! 俺こそがアストゥリア遠征軍将軍ヒルデブレヒト・アナスタージウス・ルードルフ・ブルーノ・ホルトハウスだ!」
まるで「どうよっ!!」とでも言いたげなホルトハウスの名乗りに対し、ボソリとその男は呟いた。
「長ぇよ」
「や、やかましい!! とにかく俺は将軍なのだ!! それに――」
「ならば俺も名乗ろうか。――俺はケビン。ケビン・コンテスティだ。どうだ? 一度くらいは聞いたことあるだろう?」
まるで将軍の言葉を遮るように男が名乗る。顔からは一切の表情が消え、今や無表情を通り越した無表情になっていた。
その直後、文字通り全員が息を呑んだ。
「なっ……!! ケビン……き、貴様が……」
「ケビン……こ、この男が……」
「
驚愕のあまり固まる男たち。
ある者は目を見開き、そしてある者は大きく口を開け放つ。
しかしそれも長くは続かなかった。何故なら次の瞬間、指揮所の中に新たな血飛沫が舞い散ったからだ。
もはや一人たりとも口を開く者のいない指揮所の中に、瞬間静寂が満ちる。
そしてその場には、返り血に染まったブルゴー王国の王配が一人佇んでいたのだった。
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