第287話 すっかり忘れていた大切なこと
大きく振り被られた片刃の湾曲刀。
光を反射しないように黒い艶消しの塗料が塗られたそれは、夕陽を浴びて赤黒く染まる。
何度も剣で突き刺された挙句に身体中を斬りつけられたジルは、今や息も絶え絶えで意識を保っているのかさえ怪しかった。
そんな彼の首筋にとどめの一撃が振り下ろされたのだが、刃が触れる直前にその軌道は変わってしまう。
ギキーンッ!!
派手な金属音を響かせて地面に弾かれる湾曲刀と、首から上を失いながら派手に吹き飛んでいく黒頭巾の男。
それはあまりに一瞬過ぎて、一体何が起こったのか誰にも理解できなかった。
目の前にあるのは血塗れでぼろぼろになったジルと、首から上を失って地面で痙攣する黒頭巾の身体だけ。
その光景に誰もが身動きできずにいると、突如その声は聞こえてきた。
「ジル!! 一体何をしているのです!! ――そんなところに寝転んだりして、あまりに不甲斐ないですわよ!!」
血で血を洗う、まさに殺伐とした
それが突如聞こえたかと思うと、人垣の向こうから一人の小柄な少女が姿を現した。
それはリタだった。
誰よりも早く異常を察した彼女は、脇目も振らずにユーリウスのもとへ駆けてくると、走りながら両手を前へ突き出した。
そして一言も発することなく
それはかつてアンペール侯爵に命を狙われた時と同じものだった。
いや、正確に言えばさらにそれを発展させたもので、同時に射出できる弾が以前の倍――40発程度まで増えていたうえに、命中精度も桁違いに上がっていた。
そんな光の束にしか見えない
そして気づけば、あれだけ誰も敵わなかった男たちが全員ただの肉塊に成り果てていたのだった。
血を垂れ流し、今や原型さえ留めていないジルの身体。
何度も剣を突き刺された挙句に縦横無尽に切り裂かれたそれは、あまりに酷すぎて
急速に広がっていく血だまりを見る限り、治癒魔法を唱えたとしてもすでに手遅れなのかもしれない。
しかしリタはそんなことなどお構いなしに、大声でジルに語り続ける。
「さぁ、ジル!! さっさと目を覚ますのです!! こんなところで倒れるだなんて、この
普段から少々ゆったりとした口調のリタではあるが、この時ばかりはかなりの早口だった。
それはそれだけ彼女が焦っており、全く余裕がない証拠でもあった。
そんなリタが振り向きざまに大声を上げる。
「誰か!! 誰かルイを!! ――ルイ・デシャルムを呼んできて!! 早く!! 急いで!!!!」
誰彼構わず周囲に叫びながら、取り急ぎジルに治癒魔法をかけ始めるリタ。
そうしながらも今や意識すらないジルを注視していると、僅かに声が聞こえたような気がした。
それにハッとリタが顔色を変えたのだが、すぐにそれはジルの身体の下から聞こえてきたことに気づく。
「うえぇーん、あぁーん……ジルが……ジルが……死んじゃうよぉ!! あぁーん!!!!」
大声で泣き叫びながら、必死の形相でジルの身体の下から這い出してくる一人の男児。
重いジルの身体を押し退けつつズリズリとその身を引き出す様は、まさに圧巻だった。
もちろんそれはユーリウスだ。
全身を真っ赤に染めた姿はあまりに壮絶すぎたが、一瞬の迷いもなくリタはその身体を抱き寄せる。
「あぁ、ユーリウス様!! お怪我はございませんか!? どこか痛いところは!? 血が出ていたりしていませんか!?」
「あぁーん!! ジルがぁ……ジルがぁ……血がいっぱい出て……全然返事もしてくれないんだ!! お願いだよリタ、ジルを……ジルを助けてあげて!!」
聞こえているのかいないのか。リタの問いには一切答えず、ただひたすらにユーリウスはジルの心配ばかりする。
その様子から彼に怪我などがないことを確信したリタは、努力してその顔に笑みを浮かべた。
「ご無事でようございました、ユーリウス様。さぁ、そのように泣かないでくださいませ。 ――ジルは……ジルはきっと大丈夫です。いま私が治療しておりますし、もっと治癒魔法に長けた仲間もこちらへ向かっていますから……どうか……どうかご安心ください」
「でも……でも……うわぁーん!! ジル!! ジルー」
自身も相当恐ろしい思いをしているはずなのに、何故かユーリウスはジルの名前ばかりを叫び続け、しっかりとリタに抱き締められながらもジルに縋り付こうと必死にその身を捩らせる。
その姿を見る限り、どうやら彼はジルをただの護衛、もしくは剣の練習相手としては見ていないようだった。
思えばユーリウスの護衛騎士たちは、皆彼の父親のような年齢の者たちばかりだ。
そのうえ決して無視できない主従関係があるために、常に彼らは一線を引いた態度をとり続けるしかなかった。
そこに年齢も近く(と言っても、10歳も離れているが)主従関係のないジルが現れたのだ。
もちろんジル自身にそんな意図はなかったが、どうやらユーリウスはジルに兄のような感情を抱いたらしい。結果、決して騎士たちには見せない姿まで晒すようになる。
それは甘えるような仕草だったり、年齢相応の我儘だったりと、それまで母親のアビゲイルにさえ見せたことがないものだった。
そんなユーリウスに対して、戸惑いながらもジルは優しく接した。
そして二人が一緒にいるときだけは、厳つい顔に笑顔さえ浮かべるようになったのだ。
その姿に何か思うところがあったのだろう。アビゲイルはジルが息子の剣の稽古相手になることを取り成したのだった。
「ジル!! しっかりしてよ、ジル!!」
「いいですこと、しっかりお聞きください。こんなものはただのかすり傷ですわ。すぐに治して差し上げますから、気をしっかりとお持ちくださいませ」
ぐったりとしたまま声一つ上げることなくうつ伏せに倒れたままのジルと、彼に向かって必死に治癒魔法を唱え続けるリタ。
そして、彼女の胸の中で絶叫し続けるユーリウス。
さらに周囲から続々と騎士と兵士たちが集まってくる中、やっとその人物は到着した。
「リ、リタ様!! ジル殿は……ジル殿の様子は!?」
男というには些か高めのその声は、ハサール王国魔術師協会所属の二級魔術師、ルイ・デシャルムのものだった。
攻撃、殲滅系魔法に極振りしているリタとは対照的に、治癒、補助系魔法に全振りしている彼は、今や王国では有能な若手治癒魔術師としてその名を馳せていた。
その彼が慌てて駆け寄って来たのだが、ジルの姿を見た途端思わず絶句してしまう。
それは無理もなかった。
何故なら、
右腕は肩口から失っており、腹まで突き抜けるほど何度も背中を刺されていた。
そのうえ残った手も足も撫で斬りにされて、今や切り離される寸前だ。
脇腹から背中にかけては大きな切創が何か所も走り、そこからは止め処なく血が溢れ続ける。
恐らく内臓なのだろう。
赤黒い塊が腹からはみ出て、周囲に散らばっていた。
ゆっくりと背中が動いているところを見ると未だ彼は息があるようだが、それとて今にも止まりそうなほど弱まっている。
そんな目を覆いたくなるような惨状に、思わずルイは叫んでしまう。
「ひ、酷い!! 酷すぎる!! いくら何でもこんな――」
「ルイ!! いいから早く治癒魔法を唱えて!! 私の力では血を止めるのが精一杯で傷口の再生まで手が回らないの!! このままでは手遅れになってしまう、急いで!!!!」
「わ、わかりました!! 今すぐに!!」
そう告げるや否や、着衣に血が付くのさえ厭わずにルイはジルの身体に手を伸ばす。
そして必死の形相で治癒魔法を唱え始めたのだった。
まるで奇跡のように傷が塞がっていく様を不思議そうに兵たちが見つめる中、リタとルイは治癒魔法を唱え続ける。
前述のように決して治癒魔法を得意としないリタではあるが、それでも魔力の続く限りその力をジルの身体に注ぎ込んでいく。
その横では同じく必死の形相のルイ・デシャルムが、持てる魔力の全てを注いでいた。
一見したところ、どうやらジルの傷は順調に塞がっているらしい。
その様子に皆が安堵のため息を吐きそうになっていると、突如ルイが叫び出した。
「だ、だめだ!! 確かに傷は塞がってきているけれど、内臓の修復が間に合わない!! それに流れ出た血が多すぎて、僕の力ではどうにもなりません!!」
「な、何を仰るのです、ルイ!! あなたはハサール王国きっての治癒魔術師なのではなくって!? それなのに、そんな弱気なことを仰らないでくださいまし!!」
「そんな無茶な!! そもそも失った血液まで修復するなんて、そんな治癒魔法を使える者は一級の魔術師でさえそうはいませんよ!!」
「でも、あなたはその腕を買われて先遣隊に選ばれたのでしょう? それを今さら――」
「確かに僕は治癒魔法の若手のホープだと言われてますけれど、そんなのは周囲が勝手に言い出しただけですよ!! 幾ら専門の僕でも、できることとできないことがあるのです!!」
焦りのあまり意図せず咎めるような口調になってしまったリタに、その言葉を遮ってまで返すルイ。
どうやら彼もリタ同様に全く余裕がないらしく、年上の先輩であるうえに上位貴族家令嬢でもあるリタに対して感情的に言い返してしまう。
もっともそれは仕方がなかった。
そもそも治癒魔法など、使える者の方が珍しいのだ。
確かに魔術師協会には数多の魔術師が在籍しているし、市井には治癒師なる職業の者もいる。
しかしその中でも、これだけの酷い怪我を癒せるほどの治癒魔法を修めている者などそうはいない。
今や王国中に名を轟かせる、魔術師としての将来を嘱望されているリタにしても基本に毛が生えたような治癒魔法しか使えないのだ。
それを棚に上げて、一方的に文句を言われても困ってしまう。
そのうえ、ともすれば手遅れと言わざるを得ないほどの酷い状況にもかかわらず、万が一にも失敗は許されないと言われたところで、果たして自分はどうすればいいのか。
咎めるようなリタの物言いと焦りのあまり感情的になってしまったルイは、未だ幼さの残る顔に険しい表情を浮かべてしまう。
するとリタは、その姿に逆に冷静さを取り戻した。
「なればルイ、どうすればよろしいと? なにかジルを救う方法がありまして?」
「そ、それは……治癒魔法には治癒魔法の専門家がいるのです。それは僕らのようなある意味器用貧乏な魔術師ではなく、根っからの治癒魔法の専門家ですよ!!」
「専門家……それは?」
「神術僧侶です!! ブルゴーの聖教会にいる神術僧侶ですよ!! 治癒魔法――彼らは『神術』と呼んでいますが、それにかけては世界広しと言えども彼らの右に出る者はいません。 ――なにせ彼らは、一生をかけてそれだけを身に付けるのですから、その専門性は誰にも敵わない」
「えっ……」
「神術僧侶なら我が国にもおりますが、残念ながらブルゴーの方が数段上です。最高位の僧侶であれば千切れた腕もつなげられるし、失った血液も元に戻せるとも聞き及びます。 ――ここにいない以上言っても仕方ありませんが、彼らならもしかすると……」
「神術僧侶……!?」
まるで諦めたように暗い声で告げるルイ。
しかしその言葉を聞いた途端、リタは勢いよく顔を上げた。
「あぁ!! 私ってば本当にバカ!!!! なんでこんな大切なことを忘れていたの!? あぁ、ばか、ばかぁ!!!!」
「えっ……リタ……様?」
突如叫び出したリタに対して、思わず胡乱な顔をしてしまうルイ。
しかしリタはそんなことに構うことなく、尚も叫び続けた。
「いるじゃない、ここに!! 知り得る限りの最高の神術僧侶が!! ――彼女ならきっとジルを救ってくれるわ!!」
直前までと打って変わって今や希望に満ちたリタの声は、真っ赤に染まった夕暮れの大地に響き渡ったのだった。
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