第272話 短い言葉
ハサール王国を出てからというもの、これまでリタは護衛役のジルとは一言も口をきいていない。
もっともそれは元来無口なジルが積極的に話しかけてこなかったのと、無理に会話をする必要がなかったからなのだが、それでも朝な夕なに挨拶を交わしてくるジルを敢えてリタは無視していた。
この二人の因縁を知る者たちにしてみれば、確かに口を利きたくない気持ちもよくわかる。
とは言うものの、そのせいで先遣隊の中に些か
それでもリタは一切聞く耳を持たなかった。
何度挨拶を交わされようとも、まるでそこにいないかのようにジルを無視し、声が聞こえないかのように一切返事を返さない。
年齢のわりに達観した雰囲気を醸す大人びたリタではあるが、その頑ななまでの態度は何処か子供じみてさえ見えた。
如何に国王から勅命を受けるような強力な魔術師であったとしても、実際には彼女も10代半ばの少女でしかないのだと、それは改めて気付かされるようなものだった。
僅か7歳で斬首刑に処されたジルの弟――アルセーヌ。
それはリタの弟とそう変わらない年齢だった。
本人には全く落ち度がないにもかかわらず、父親のやらかしの巻き添えを食わされた彼は、衆人環視の中で石を投げつけられながら処刑された。
しかし直前まで彼は自身が殺されるとは全く思っていなかったらしい。
その証拠に、兄へ向けて途中まで書かれた手紙が遺品として残されていた。
とは言え、いざ処刑場に引き出されてしまえば嫌でも己の運命を悟ってしまう。
観衆から聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせられながら、目隠しをされて地面に這いつくばされた彼は泣き叫んで助命を乞うたという。
そして死ぬ直前にあげた最後の言葉が「助けて、兄様!!」だった。
当時すでに廃嫡されていたジルには、刑の執行は事前に知らされていなかった。
いや、正確に言えば当時彼が身を寄せていたキルヒマン子爵家には伝えられていたのだが、子爵は敢えて黙っていたのだ。
それはせめてもの慈悲だった。
両親はどうであれ、ジルが心から弟を愛しているのは子爵もよく知っていたし、それを事前に知らせたところで彼を苦しめるだけなのは十分にわかっていたからだ。
そのためジルが弟の訃報を知ったのは処刑から10日ほど経ってからだったのだが、その時彼は手に持っていたカップを取り落して肩を震わせたという。
翌日の早朝。
馬車酔いも癒え、すっかり体調の良くなった公妃アビゲイルとユーリウスが早めの朝食を摂っていると、木陰に佇むリタに気がついた。
どうやらリタは愛馬のユニコーンとの会話に夢中になっているらしく、アビゲイルの視線に気づくことはなかった。
公妃アビゲイルとリタを除くと、ここにいる女性は城から連れてきた世話役メイド5名だけなので、アビゲイルの話し相手になるのは必然的にリタが多かった。
どうやら公妃は自身の出身国の女性であるリタに対して親近感を持っているらしく、今や嫁ぐ以前の王女時代に戻ったかのように屈託なくリタに話しかけてくるのだ。
その殆どはハサール国内の流行りだったり、グルメやスイーツの話だったりと他愛のないものばかりだったが、それでもその言葉の端々には郷愁の想いが滲み出る。
そして自ら不謹慎だと認めながらも、いまは生まれ故郷に向かっているのだと思えば辛い馬車酔いにも耐えられるとも語っていた。
そんなアビゲイルがリタに朝の挨拶をしようとしていると、その横から近づいてくる者がいた。
それは180センチを超える身長と筋肉の塊のような威圧感を纏った大男――ジルだった。
その彼が、容姿に似合わぬまさにおずおずといった様子で朝の挨拶を口にする。
「アビゲイル公妃殿下ならびにユーリウス公子殿下。おはようございます。今朝もご機嫌麗しく」
「おはよう、ジル」
「あっ、ジル!! おはよう!!」
つい数日前に知り合ったばかりにもかかわらず、今ではすっかりジルに懐いているユーリウス。
ジルを見た彼が子犬のように無邪気に近寄っていくと、アビゲイルがその姿を微笑みながら見つめていた。
「ねぇねぇ、ジル!! 出発まではもう少し時間があるだろう? それまでまた剣の稽古をしようよ!! いいだろう!?」
「はい、いいですよ。 ――しかし見たところ、未だお食事が済んでいないようですが」
「あっ……」
ジルに指摘されたユーリウスは、今更ながらに自身が食事中だったことを思い出す。
そしてバツの悪そうな顔をしながら母親の顔を盗み見た。
「そうですよ、ユーリウス。あなたはまだ食事が終わっていませんね。ジルと剣の稽古がしたいのであれば、きちんと最後まで召し上がりなさい。 ――しっかり食べるのも騎士の勤めなのですから」
「はい、母上!!」
「ふふふ……とても良いお返事ですね、ユーリウス。 ――さぁここへ座って、最後まで召し上がりなさい」
再び子犬のように駆けてくると、隣りに座って食事を再開した最愛の息子。
その姿を慈愛に満ちた顔で眺めながら、アビゲイルがジルに話しかけた。
「ときにジル。今朝はもうリタ嬢には朝の挨拶を済ませましたか?」
「えっ……? あ……いや、その……い、いいえ、まだです……」
全く予期していなかった公妃からの問い掛け。
その出来事に緊張と焦りを隠せなかったジルは、意図せず何度も噛んでしまう。
まるで猪のような厳つい見かけにもかかわらず、緊張のために全身を震わせる様は何処か滑稽に見えた。
「それではどうぞ、挨拶をしていらしてください。彼女ならあそこにいますよ」
「は、はい……」
その態度も物言いも決して一国の公妃に向けるものではなかっために、それは場合によって不敬の
しかしこの場の誰もそれについて咎めるものはいなかったため、尚もアビゲイルは言葉を続けた。
「とは言え、あなたがどう挨拶しようと、なんと話しかけようともリタ嬢が見向きもしないのは
「!!」
その言葉に思わずハッとしてしまうジル。
何故なら彼の実家が取り潰しになったのも、家族全員が処刑されたのも、その全てはハサール国王ベルトランを侮辱したのが原因だったからだ。
そしていま目の前に佇むアビゲイルは、その彼の実の娘に他ならない。
つまりアビゲイルにとっては、ジルに父親を侮辱されたも同然だったのだ。
国王に不敬を
直前に廃嫡されたおかげで間一髪難を逃れたとは言え、ジル自身も同罪と言われても決して言い訳はできない。
何よりも
そしてその最高峰とも言える王族の面子を潰したのだから、一家全員皆殺しにされても文句は言えず、運よく生き残ったとは言えその罪は一生消えることはない。
ファルハーレン公国公妃アビゲイルは、自分の一族が不敬を
今の今までそんなことさえ忘れていたジルは、ただひたすらに愕然としてしまう。
そんな彼に向かってアビゲイルは優しく微笑んだ。
「ジル……そんな顔をしないでください。確かに貴方の一族は
「し、しかし……」
「全てはもう終わったことなのです。この先それを引きずり続けても、誰も幸せにはなれないでしょう。 ――聞けば貴方の弟
「はい……名をアルセーヌと申します。処刑された時、弟は僅か7歳でした。 ――私は……私は……あいつを殺してしまったのです。アルセーヌには何の罪もなかったというのに……あの狂った父親のせいであいつは、あいつは……いや、違う……全ては俺のせいなんだ……俺が……俺が……アルセーヌを殺した……」
一国の公妃の前であるにもかかわらず、今や敬語すら忘れ果てたジル。
まるで独白のようなその言葉は
細く鋭い瞳からは涙が溢れそうになり、肩を落としたその姿からにはまるで覇気が感じられない。
すると横から公妃付きの執事が口を挟んでくる。
「なんですかその態度は!? 公妃様の御前ですよ、お控えなさい!!」
咎めるような執事の言葉。
しかしアビゲイルはそれを柔らかく遮ると、尚も言葉をかけた。
「ジル。過去に貴方がしたことは、確かに取り返しがつかないことなのかもしれません。しかしそれでもその謝罪と後悔の念が本物であることは、この
「……」
「たとえ返事がなくともいいのです。無視されてもいいのです。貴方は貴方のその姿勢を最後まで貫き通せばよろしいではありませんか。 ――貴方から謝罪を言葉にして誠意を以て行動で示さなければ、どれだけ懺悔の念があろうとも決して伝わらないのですから」
「……」
「諦めさえしなければ、いつかは必ず向き合ってくれるはず。だからこそ、ひたむきに言葉と行動で想いを伝え続けるのです。さすれば、いつかは返事を返してくれます」
「……そうでしょうか?」
「えぇ、間違いありません。
そう言うとアビゲイルは、控えめにリタを指差した。
「お、おはようございます、リタ様。きょ、今日も私が護衛に付きますので、どうぞよろしくお願いいたします」
容姿に似合わず、何処かおどおどとした様子で朝の挨拶を交わすジル。
今や以前のような無駄に自信に満ちた様子は微塵も見られず、それどころか妙に落ち着きがなく覇気も感じられない。
もっともそれは無理もなかった。
こうして懸命に挨拶を交わしても、いつも一瞥すらしないまま完全に無視されるのがお決まりだったのだから。
しかし今朝は少し違っていた。
ジルが挨拶を交わした直後に、リタの目が泳いだのだ。
一瞬満ちる、なんとも言いようのない
すると一拍置いて、リタが口を開いた。
「おはよう……」
それはたった一言のとても短い言葉だった。
しかし今のジルにとっては、どんなに長い言葉よりも意味のあるものだった。
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