第267話 この先の行方

 紆余曲折様々なことはあったが、いずれにしても公妃アビゲイルと公子ユーリウスの保護に異議を唱えるものは一人としていなかった。

 むしろこの先ファルハーレン軍が打って出ることを考えれば、後方の憂い――次代のファルハーレン公室を担う者たちの安全確保は喫緊の課題であったため、先遣隊の申し出はまさに『渡りに船』となったのだ。


 とは言うものの、如何に小国とは言え、一国の公室関係者が国外脱出を図るためには膨大な荷物の用意から随行員の選別に至るまで諸々の準備が必要であるため、結局先遣隊は出発までの3日間足止めを食らうことになった。


 もちろんその間も公王エンゲルベルトを中心としたファルハーレン上層部は遊んでいたわけではない。

 それどころか軍を引き連れて北上することを決めた彼らは、その準備に大忙しだったのだ。



 ラインハルトに煽られたエンゲルベルトは、後先考えずに咄嗟に打って出ると吠えてしまった。

 当然それは他の重鎮たちや軍部に事前に根回ししていたわけではなかったので、その実現には相当な困難が予想された。

 しかし直後のラインハルトの説教がその場の空気をがらりと変えてしまい、結果重鎮たちは公王の決定に粛々と従う姿勢を見せたのだ。


 もちろんそれには彼らなりの打算や思惑などもあっただろう。

 もしかすると、戦後秩序の回復期における主導権の奪い合いがすでに始まっていたのかもしれない。

 それでも今や公王の決定に異議を唱えられる雰囲気でなくなっていたのは、ややもすれば不敬の誹りを免れられないラインハルトの功績であるのは間違いなかった。


 如何に他国からの使者とは言え、一国の元首を煽り倒した彼の罪は重く、場合によっては投獄すらありえた。

 しかし結局一言の咎めもないまま、それどころか複数の者から礼すら述べられる始末だ。


 そんなわけで、北へ向かったアストゥリア軍の背後を突くことを決めたファルハーレンは、南下中のオスカル軍と北と南から挟撃する準備に入るのだった。





「ラインハルト殿。まずはお主に礼を言わねばならぬ。 ――此度こたびの出陣は、あのげんがなければ決して実現しなかった。それを鑑みれば、お主には感謝の言葉しか思い浮かばぬ。 ――このとおりだ」


 ここはファルハーレン公城敷地内に建てられた、公族専用の住居――通称レイヴェルス宮の一室。

 その中でもさらに公室関係者のプライベートスペースとして設えられた一角に、先遣隊の者たちが集められていた。


 とは言うものの、決してそれは公的かつ厳かなものではなく、状況的に国を挙げて歓迎の宴を開けないことを慮ったエンゲルベルトが、私的な時間を使って開いたささやかな食事会のようなものだった。


 そんな些か小ぢんまりとした宴の席で、開口一番エンゲルベルトが頭を下げる。

 決してそれは重鎮たちの前では見せない姿であって、その気安い態度はそれだけ彼が先遣隊の者たちに気を許している証拠だった。


 するとその姿を見たラインハルトが口を開く。

 顔には変わらぬニヤニヤ笑いが浮かんでいたが、それでも幾分抑え気味に見えた。



「どうか頭をお上げください。私にはそのようなことをされる覚えはございませんので」


「いや……お主がどう思おうと、この私の気持ちは変わらぬ。 ――自己満足にすぎぬと笑われるやも知れぬが、これは私の正直な思いなのだ。どうか果たさせてほしい」


「……まぁ、それで殿下が満足されるのであれば、私としてはかまいませんがね。一国の元首に頭を下げられるなどそうありませんので、決して悪い気はしませんよ」


 うんうんと頷きながら、おもむろに腕を組み始めるラインハルト。

 するとその横から咎めるような声が飛んでくる。


「……ラインハルト様、いい加減になさいませ。事情が事情ゆえに致し方なかったとは言え、それでも公王殿下を煽り倒したのは事実ですのよ。少しは自重なさったらいかが? ――それになんですの? その口調は。もう少し――」


「うるせぇな。お前は俺のお袋かってーの。 ――いいじゃねぇかリタ。お前だってあの重鎮たちに向かって『クソッタレ!!』だなんて喚き散らしていたじゃねぇか」


「そ、それは……」


 鋭いツッコミに思わず言葉を濁してしまうリタ。

 すると頭を上げたエンゲルベルトは、そんな二人の掛け合いを暫く眺め続ける。

 そして再び口を開いた。


「まぁ、よいではないか。お主たちのおかげでこのような結果となったのだ。それにはこの私も感謝しきりだ。 ――とにかく食事を始めよう。後日ここを発てば、暫くまともな食事になど有りつけんのだ。このような小さな席で申し訳ないが、今だけは無礼講で楽しんでほしい」




 それから暫くの間和やかに会食は進んでいき、久しぶりに酒の入った口はさらに滑らかになっていく。

 もちろんリタも注がれたワインに口をつけてはいたが、それでも舐める程度に抑えていた。


 そもそもリタは、前世のアニエス時代から酒を嗜む習慣はない。

 それはアルコールが脳に及ぼす影響を軽視していなかったためだ。

 大袈裟ではなく、本当に寝食を犠牲にしてまで魔法の研究に身を捧げた彼女は、むしろ記憶力が低下するアルコールを毛嫌いしていたと言っても過言ではなかった。

 さらに今世においても飲酒の習慣はないままだったので、当然のようにそのグラスはいつまでも空くことはない。


 そんな彼女に気付いた公妃アビゲイルが、さり気なく話しかけてくる。

 自身の母国からの客人であるうえに同性のリタに対して親近感があるらしい彼女は、その顔には終始にこやか笑みを溢れさせていた。


「まぁ、リタ嬢。全くお酒が進んでらっしゃらないようですが……もしや苦手でしたか? そうであれば別のものを用意させましょう」


「お気遣い感謝いたします。なにぶん普段から飲酒の習慣がないものでございまして。 ――それではお言葉に甘えまして、なにか甘い飲み物をお願いできますでしょうか?」

 

「うふふ。承知いたしました、甘い飲み物ですね。その趣向はあなたのその容姿にとてもよく似合っていますわね。 ――それでは果実水を用意させましょう。甘くてとても美味しいのですよ。ぜひご賞味あれ」


「ありがとうございます」


 その提案に、リタはにっこり微笑んだ。



 美しくも愛らしい、まるで妖精のようなリタ。

 その彼女が満面の笑みで公妃と会話する様は、今や部屋中の者たちの視線を集めずにはいられなかった。

 中でもファルハーレン公族の近辺警護役の若い騎士の二人組は、リタに見惚れてしまって注意散漫となり、何度も注意を受ける始末だ。


 久しぶりに風呂に入って小綺麗になったリタではあるが、さすがに薄汚れた旅装や魔術師のローブのまま食事会に出席するのははばかられた。

 それでも着替えもないためやむを得ず着の身着のままでいると、見かねたアビゲイルがドレスを貸してくれることになったのだ。

 そして公妃専属メイド主導のもとにリタは着飾ることになるのだが、あまりの素材の良さに調子に乗ったメイドのせいで、気づけば何処どこぞの姫君のようになっていた。


 輝くプラチナブロンドの髪は高く結い上げられ、入念に化粧を施された顔は、あのラインハルトでさえ憎まれ口を叩けないほど完璧で隙がなかった。

 両肩を出した中々に攻めたデザインのドレスは映え渡り、腰からふわりと広がるスカートは流行の最先端だ。


 そんな滅多に見ないほどの絶世の美少女に仕上げられてしまったリタだが、そのあまりの出来栄えには喜ぶどころかむしろ不機嫌になってしまう。


 それもそうだろう。

 ここへは止事無やんごとなき事情によって来ているにもかかわらず、美しく着飾って美味しい料理に舌鼓を打つなどあまりに非常識だ。

 これではまるで遊びに来ているようではないか。それも、これから命を賭けた逃避行をしなければならないというのに――


 その事実に忌避感を感じてしまったリタは、会食が始まるまで終始不機嫌なままだった。

 しかしいざ始まってみれば、一転その顔に仮面を被るのだった。




 そんな一見姫君のような装いのリタに、尚もアビゲイルが話しかける。

 その顔には、親しみのこもった変わらぬ笑みが浮かんでいた。


「ところでリタ嬢。わたくしの父――ベルトラン国王陛下の様子は如何ですの? 5年前にこの子が生まれた時にいらっしゃって以来、一度もお会いしていないものですから気になってしまいまして」


 そう言うとアビゲイルは隣に座る一人息子――ユーリウスに優しく視線を向けたのだが、現在ステーキ肉と絶賛格闘中の彼は決して気づくことはなかった。


「はい。ベルトラン陛下は変わらずお元気でいらっしゃいます。とても数年内に引退されるとは思えないほど、未だ精力的に活動なさっておいでです」

 

「そうですか……それは良かった。わたくしがここへ嫁いだ時には、とても落ち込んでいましたのよ? それにこの子の誕生の際にも、別れ際に肩を落としていらっしゃったものですから」


「ふふふ。陛下がアビゲイル様を溺愛しておいでなのは、とても有名ですから」


「うふふ……そうですわね。いつまでも子離れできない父と言ったところなのでしょうか。 ――そう言えば昨年暮れに兄に二人目が産まれたのですが、未だ会いに行ってもいないのです。もっとも時節柄とてもそんな余裕はありませんでしたが。それでも――」


 「この後やっと会えるはず」と思わず言いそうになったアビゲイルではあるが、現在の状況を思い出して咄嗟に口を閉じてしまう。

 そしていささかバツの悪そうな顔をしながら、別の話題に話を振った。




「あの……えぇと……あぁ、そうそう。ひとつお訊きしようと思っていたのですけれど、わたくしたちはこの後北へ向かうのでしょう? しかしこれからそこでは戦が始まると聞き及んでいるのですが、大丈夫なのでしょうか?」


 直前までと打って変わって、何処か不安そうな様子を見せるアビゲイル。

 表情を隠すように伏し目がちになりながら、それでもリタに返答を迫る。

 するとこれまで別の話題に興じていたその他の者まで、その話題に乗ってきた。


「そうだ、リタ。当初の計画ではこのまま北に戻ることになっていたが、どうやらそれは難しそうだ。 ――なんせこれからその地では、オスカル軍とアストゥリアが激突しそうだからな。それに公王殿下も北上するのであれば、尚の事そのルートは避けた方が良いだろう」


 そう言いながら早速話題に乗ってきたのは、やはりラインハルトだった。

 もっとも彼は早く暴れたくて仕方なかったのだが、それでも公妃と公子の保護が最優先なのは理解していた。


 するとその横から、今度は先遣隊隊長のルトガーが口を挟んでくる。


「そうだな。実はこのあと皆と相談しようと思っていたのだが、いい機会だから公王殿下もいらっしゃるこの席で決めてしまおう。 ――それでリタ嬢、まずお前の考えを聞きたい」


 その言葉を聞いた途端、この場の誰もが訝しげな顔をしてしまう。

 いや、正確にはそんな顔をしているのはファルハーレン側の者たちだけで、当の先遣隊の者たちは、皆何事もなくリタを見つめているだけだったのだが。



 どうやらあのルトガーという男は、あの小柄な少女の言いなりなのではないだろうか。

 確かに表向きは隊長を名乗っているが、実際にはあの少女の後追いしかしていないうえに、決して彼自身が意見を述べているのを見たことがない。

 もしかするとこの隊の実質的なリーダーは、あの少女なのかもしれない。



 などと、意図せずそんな視線を向けられてしまうリタだったが、事も無げにルトガーの質問に答えた。


「そうですわねぇ……今聞いたとおり、まず北は無理でしょうね。これから戦が始まる地を、馬車の行列が通るのはあまりに無謀でしょう。とは言え、東は論外。では南は……アストゥリアが行進していますわね」


「あぁ。それはカルデイアに向かう隊だな。場合によってはこちらへ向かってくるやも知れぬ。警戒が必要だ」


 と、エンゲルベルト。


「それならあとは西しかありませんけれど――」


「西もだめだな。知っての通りの地では、カルデイアとブルゴーが戦を始めている。そちらへ向かっても、下手したら俺らも巻き込まれかねねぇよ。 ――まぁ俺的には暴れられて楽しいが、公妃殿下や公子殿下がとっ捕まりでもしたら、それこそ目も当てられねぇな」


 と、ラインハルト。


「ふむぅ……そうねぇ……まさに八方塞がりですわねぇ……あぁ、そうそうルトガー隊長。カルデイアでの戦は今どんな感じなのかしら? 戦況はおわかり?」


 ふと何かを思いついたのか、何気に考える素振りをするリタ。

 その彼女に訊かれたルトガーは、顎の無精髭を撫でながら考えた。

 

「ん? カルデイアか? そうだな……確か今は北上したブルゴー軍がファルハーレンとカルデイアとの国境沿いに陣を張っているはずだ。ここから西へ向かうと、ちょうどそこの背後に出ることになるだろうな。 ――まぁもっとも、あまりに危険すぎるうえに、間違いなくスパイ容疑で全員とっ捕まることになるだろうが。 ――で、リタ嬢。それがどうかしたのか?」


「ふぅん……それで今のブルゴー軍を率いているのは……確かクールベ将軍だったかしら?」


「いや違うな。確か今はケビンのはずだ。エルミニア女王の王配――勇者ケビンだな。話によれば、途中からヤツ自らが直接戦場いくさばに乗り込んできたらしく、バッタバッタと情け容赦なくカルデイアを薙ぎ倒しているそうだ。そのせいでそれまで押していたカルデイアが、今では防戦一方だと聞くぞ」


「えっ……? ケビン……?」



 その名を聞いたリタの顔に、なんとも表現しようのない奇異な表情が広がり始める。

 何かを期待するような、それでいて恐れるような、これまで誰も見たことのない複雑な表情。

 しかしそれも一瞬で、直後にその小さな口で思い切り弧を描いた。


 それはまるで小さな子供が悪戯を思いついたような、何処か邪悪なにんまりとした笑顔だった。

 そんな顔のリタが、おもむろに立ち上がる。

 そして高らかに宣言した。



「ふふふ……それは良いことを聞きましたわ。 ――それではこうしましょう。わたくしたち先遣隊は、アビゲイル様、ユーリウス様とともに西へ向かうことにいたします。 ――皆さま、よろしくて?」


 甲高くも美しい、まるで透き通るような声音が、静まり返った部屋の中を朗々と響き渡った。

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