第257話 国王の想い
「えぇ!? わたしぃー!!??」
あまりと言えばあまりに唐突な言葉に、思わずリタは素っ頓狂な声を上げてしまう。
何故なら彼女は、宰相と国王の言葉を話半分にしか聞いていなかったからだ。
それどころか前夜の夜ふかしのせいで頭はぼんやりしていたし、気を抜けば寝落ちしそうにすらなっていた。
だから突然名指しされた時には、それが自分の名前であるのを理解するのに数瞬の間が必要だった。
とは言え、その意味を理解した途端、リタの顔には胡乱な表情が浮かんでしまう。
リタとてもハサール王国民にして臣下の一人と自負しているので、娘を救えと国王に命じられても、それに否やはない。
しかし正直なところ、これまで一度も会ったことのない第一王女――アビゲイルに同情こそすれ、敢えて救出に向かおうなどと考えられなかった。
前世でのアニエスは、最強の武闘派宮廷魔術師としてその名を馳せていた。さらに経験豊富な従軍魔術師の顔も併せ持つ。
現在も嫁ぎ先が西部辺境候などという国防の要に決まっているので、決して彼女には戦というものに拒否感はなかった。
しかし現在のリタはハサール国内で魔術の研究と振興の仕事に就いているだけの内務職員でしかなく、外交や軍事については全くの門外漢と言っていい。
そもそもこの国には従軍魔術師という戦専門の魔術師が存在するというのに、それを飛び越えて直接自分に声がかけられる意味がわからない。
幾ら若くして二級魔術師の免状を持ち、数々の武勇伝を持つとは言え、魔術師協会に戻ればリタも若手魔術師の一人にすぎない。
確かに名門伯爵家令嬢にして将来の西部辺境候婦人ではあるが、それを以て魔術師協会内での職務を逸脱する理由にはならず、専門の従軍魔術師を押し退けてまで彼女が従軍するのは、今後組織内で無駄な軋轢を生む原因にもなるだろう。
まだある。
そもそも外国に嫁がせた時点で、アビゲイル第一王女はハサールの手を離れたも同然なのだ。
残りの人生は嫁ぎ先――ファルハーレン公国に殉ずるのが当然であって、危機が訪れたからと言って大慌てで父親が国軍を動かすのはお門違いと言える。
国土面積で言えばハサールの二割にも満たないファルハーレンは、はっきり言って弱小国だ。
そのためハサールの第一王女を妻に迎えることで、親戚関係になる道を選んだ。
事実この二国間には王女の嫁入りと同時に不可侵条約が交わされており、互いに軍事的な干渉は行わない約束になっていたのだ。
しかしそれはあくまでも不可侵条約でしかなく、軍事同盟は除外されていた。
何故ならこの二国が軍事同盟を結ぶことによって、アストゥリアを刺激する原因になるからだ。
そんなファルハーレンは、アストゥリアとも不可侵条約を結んでいた。
しかし前皇帝が退位し、現皇帝が即位した途端、あっさりそれは破られてしまう。そして平然と軍に国境を越えさせたのだ。
しかしだからと言って、それを以てハサールが軍を動かす理由にはならない。
確かにファルハーレンにはベルトランの娘が嫁いでいるのだし、それを助けに行きたくなる父親の心情も理解できる。
しかし何ら軍事的な同盟を結んでいないこの状況で、ファルハーレンのために軍を動かしてしまえば、それはアストゥリアに対しての敵対行為となる。
つまりアストゥリアは、ハサールにとって敵国と成り果てるのだ。
一瞬でそこまで考察しながらも、驚きのあまり目を見開き、口を開け、
その顔には普段の貴族令嬢然とした佇まいは微塵も見られず、ただただ間抜けに見えた。
そんな彼女を周囲の者たちは唖然と見つめていたのだが、その意外な素顔に逆に魅入られてしまう者まで出る始末だ。
特に隣に座るヘラルドは、元から赤い顔をさらに真っ赤に染めて、完全に心奪われてしまっていた。
軽い咳払いととも普段どおりに戻ったリタは、優雅な微笑みとともに国王を正面から見つめ返した。
「ごほんっ……えぇ、突然おかしな声を出してしまい、大変失礼いたしました。 それでは改めて申し上げますが――陛下の
「そうか。お主が言うのであればこのベルトラン、大船に乗ったつもりで任せられるというもの。 ――くどいようだが、よろしく頼むぞ!!」
「はい。かしこまりました」
そう言うとリタは、深々と頭を下げた。
それから小一時間、今後の展望及び概要、そして作戦に関与する者たちの名が挙げられた。
もちろんその中に西部辺境候オスカル・ムルシア、東部辺境候バティスト・ラングロワの名もあったのだが、残念ながら現在領地に詰めている彼らはこの場に顔を出していなかった。
その代わり、たまたま首都に出てきていた彼らの息子たち――フレデリクやラインハルトがその説明を受けたのだが、初めての軍事作戦を前に前者は多大な緊張を、そして後者は相変わらず不遜な笑みを顔に浮かべていた。
その後会議も終わり、ある者は大慌てで、またある者は足早に部屋から出ていくと、その場に数名の者たちが残った。
もちろんその中にはリタの姿もあり、それ気付いた国王ベルトランが
その姿に直前までの取り乱した様子は
「リタよ。突然の
そこで言葉を切ると、珍しくベルトランはバツの悪そうな顔をした。
その彼にリタは小さく微笑んだのだが、その顔には何処か含みのある表情が垣間見えた。
「ふふふ……ご安心を。わざわざ仰られなくとも、
そう言うとリタは、最後にニヤリと笑った。
その言葉にベルトランは瞬間目を剥いたのだが、直後にその顔を綻ばせた。
「ふっ……そうか。やはりお主は誤魔化せぬか。 ――ふふふ……はははっ!! 本当に食えぬヤツだ!!」
それまでの表情をかなぐり捨てると、ベルトランは突如豪快な笑い声を上げる。
すると釣られたように、リタもその顔に満面の笑みを浮かべたのだった。
実のところベルトランは、ちっとも取り乱してなどいなかった。
確かにアストゥリアの侵攻と娘と孫の危機に狼狽えたのは事実だが、すぐにいつもの様子に戻ると、その対応のために矢継ぎ早に指示を飛ばしたくらいだ。
それでは何故彼がそのような演技――
前述のとおり、ハサールとファルハーレンは互いに不可侵条約を結んでいるものの、軍事同盟までは締結していない。
そのためハサールは、如何にファルハーレンが侵攻されようとも軍を動かす口実すらないのだが、それでもベルトランは軍を動かそうとした。
それが冷静に考えた末の行動であれば
隣国である事実から逃れられない以上、自国とは比べ物にならないほどの広大な国土と軍事力、そして財力を誇るアストゥリアとは今後も上手く付き合っていかなければならない。
もしもそれが自身の矜持に反するものであったとしても、自国の利益を優先した場合、
もうひとつはリタのことだ。
ベルトランの言う通り、軍の編成には時間がかかる。
しかしファルハーレンからの知らせを聞く限り、そう多くの時間的余裕はなさそうだった。
それならば取り急ぎ先遣隊を送り込んで、娘と孫の安全を最低限確保しようと思ったのだが、そのような危険かつ失敗の許されない任務を完遂できそうな人材などそうはいない。
しかしその時、突然ベルトランは思い出したのだ。
それは10年前の戦役だった。
当時の記録や戦史にはリタの名は殆ど出てこない。そのうえ砦救出作戦を成功させたのも、彼女の師匠――ロレンツォだということになっている。
しかし人の口に戸は立てられないという言葉通り、凄まじいまでのリタの戦いぶりを見た者たちは、皆周囲に話していたのだ。
もちろんそれはベルトランの耳にも入っていた。
しかし当時の彼はそのような話は戯言だとして、全く相手にしていなかった。
ところがその認識は、ある日突然変わってしまう。
それは例のアンペール侯爵家取り潰し事件だった。
魔術師であるはずのリタが敢えて魔法を封印しながら、体格にして数倍はある次期東部軍将軍を素手で殴り倒し、
さらにその場で見せられた攻撃魔法の凄まじさは、本気で命の危機を感じるほどだった。
そしてアンペールの屋敷を全壊させた魔法と、一族を破滅に追い込んだ舌を巻くような智謀は、
如何に達成困難な任務であろうとも、彼女であればなんとかしてくれるかもしれない。
リタに対してそんな希望を抱いてしまうのも、今や無理からぬことだった。
とは言え、リタ自身は魔術師協会に所属する単なる内務職員でしかなく、従軍魔術師でもなければ軍に同行したことすらない。
(あくまでもそれは、ベルトランの主観でしかなかったが)
そんな彼女が本職の従軍魔術師を飛び越えて依頼を受けてしまえば、今後の立場も中々に難しいものになるのは間違いない。
もちろん従軍魔術師が面白く思うわけもなく、魔術師協会だってそのような越権行為を認めるはずもなかった。
しかしそれが取り乱した国王による強権だったとなれば、話も変わってくる。
リタの反応からもわかる通り、彼女が事前に根回しされていなかったのは確実だし、状況が状況だけに誰もその
そんな状況を意図的に作り出したベルトランだったが、しかしその全てはリタにお見通しだった。
その事実に苦笑を隠しきれないハサール国王だった。
そんな二人の様子を見ていた宰相モデスト・エッカールが、横から口を挟んでくる。
その顔には従前通りの渋面が浮かんでいた。
「陛下の仰るとおり、さすがはリタ嬢といったところか……その洞察力には恐れ入る。そなたのような者を次期宰相に据えることができればと、思わず本気で考えてしまうほどだ」
「……御冗談はおよし下さいませ」
「とまぁ、戯言はこの辺にしよう。 ――そういうわけなのだ、リタ嬢。突然の申し出は本当に申し訳なかったと思うのだが、ここは陛下の想いを汲んで、しかと頼む」
「はい、しかと承りました。」
宰相に向かって深々と頭を下げるリタ。
するとベルトランが再び口を開いた。
「確かにお主が類稀なる魔術師なのは間違いない。しかし従軍魔術師でもなければ戦に出たことすらない。 ――いや、その前に、か弱き貴族令嬢でもあるのだ。そんなお主を戦地に送らなければならぬのは本当に気が引ける。断腸の思いとはまさにこのことなのだろうな」
「……」
「レンテリア伯爵並びにお主の両親の気持ちを思えば、決してこれは褒められたことではないのはわかっている。 ――なにせ己の娘を救い出すために、
「陛下……」
「しかしわかってくれ。今の状況で我が娘アビゲイルと我が孫ユーリウスを助け出せるのはお主しかおらぬのだ。言うなれば、お主がいなければ早晩諦めていたやもしれぬ。 ――だから頼む!! 必ずや娘と孫を救い出してくれ!! このとおりだ!!」
勢いよくそう言うと、ベルトランはリタに向かって深々と頭を下げた。
40歳も年下の、しかも臣下である女性に向かって一国の支配者、そして最高権力者が頭を下げたのだ。
それはあまりに異例のことだった。
いや、それどころか絶対にあり得ない光景ですらあった。
そんな国王に向かって、さすがのリタも慌てて駆け寄ってしまう。
「へ、陛下!! そ、そのような真似はおやめ下さい!! お願いでございますから、頭をお上げくださいませ!!」
国王の身体に触れるなど普通であれば不敬の極みなのだろうが、慌てに慌てたリタは、今やそんなことさえ忘れていた。
そして必死になってベルトランに頭を上げさせようとする。
にもかかわらず、宰相エッカールは決して止めようとしなかった。
慌てたリタが国王に触れようとも、何と言おうと国王が頭を上げなくとも、ひたすら彼はベルトランのしたいようにさせたのだった。
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