第235話 殺し文句

「あなた……まさか、そのお腹に稚児ややこが……」


 その言葉を聞いた途端、まるで吐き気など忘れたように素早くジルダが振り向いた。

 ここ数日殆ど何も食べていなかったせいで胃の中に固形物はなかったが、それでも口元は透明な液体で汚れており、それをメイドが拭いてくれているのにもかまわずにジルダは即座に返事を返した。


「そ、そんなはずはありません。とっくの昔に子を産めない身体になっていたのですから。 ――事実この10年、陛下からはたくさんの寵愛を受けましたが、一度もそのような兆しはなく……そ、それなのに、いまさら――あり得ない……」


 あまりに慌てたせいで、何度もどもってしまうジルダ。

 沈着冷静にいつも淡々と受け答えをする彼女にして、その反応は初めて見せるものだった。

 それどころか動揺のあまり両手は小刻みに震え、唇も真っ青になっている。

 そんなジルダに向かって、再びペネロペが口を開いた。



「ねぇ、ジルダさん。これから幾つか質問いたしますけれど、すべて正直にお答えくださる? これは興味本位で訊くのではなく、本当に稚児ややこを宿しているかを判断するものなの。いいかしら?」


「は、はい……」


 すでにジルダの顔は真っ青だ。

 いつもは鋭く細められている瞳は今や縋るようなものに変わり、トレードマークの仏頂面も盛大に歪んでいる。

 そのジルダに向かって、ペネロペは真顔で質問を始めた。


「ここ最近の陛下の寵愛の頻度と、最後の日を教えてくださる?」


「そ、それは……」


「ごめんなさいね、言いづらいとは思いますけれど、これはとても大事なことなの。正直に答えてくださるかしら?」

 

「は、はい……えぇと……つ、月に2、3度です。最後は10日ほど前だったかと」


「それでは、最後に月のものが来たのは?」


「……ひと月と半分くらい前でしょうか」 


「そう……それでは次の質問だけれど――」



 それからペネロペは、じっくりと時間をかけて幾つもの質問をした。

 周囲を見ればお付きのメイドや護衛の男性騎士もいるために、ジルダには少々答えづらい質問もあったのだが、ペネロペの真剣な様子に引きずられるように全てをつまびらかに答えていった。

 

 そして最後の質問が終わったところで、やっとペネロペに笑みが戻ってくる。

 緑がかった美しい瞳を細めさせ、紅い唇で弧を描き、その顔に満面の笑みを作り上げた。


「おめでとう、ジルダさん。実際にはお医者様の診断を経なければ断定はできませぬが、十中八九あなたは懐妊していますわね。恐らく二ヶ月といったところかしら」


「懐妊……馬鹿な……そんなはずは……あり得ない……」


「あら、どうされたのかしらジルダさん? 全く嬉しそうには見えないですわよ? ――でも、変ですわね。あなたは子を産めない身体だと聞いていましたのに」



 本心はどうであれ、その言葉や表情を見る限りペネロペは喜んでいるようにしか見えなかった。

 しかし少しでもこの二人の関係を知る者であれば、それはあり得ないことがわかる。


 未だ婚姻の儀も済んでいないというのに、正妃よりも先に側妃が懐妊したのだ。これほどペネロペのプライドを傷つける事態もないだろう。

 セブリアンとジルダの関係を知っていながらこれまでそれを認めていたのは、ジルダが絶対に子を宿せないとわかっていたからだ。


 しかし、そうでなければ話は別だ。

 正妃との婚姻前に側妃が懐妊するなど以ての外だし、今後の世継ぎ問題にも大きな影を落とすことにもなってしまう。


 ペネロペのプライドとバッケスホーフ家の思惑を別にすれば、ジルダの懐妊に何ら問題はない。

 むしろ血統維持の選択肢が増えるメリットを勘案すれば、決してそれは忌避すべきものではないのだ。

 

 しかしそれに正妃と側妃、そしてその背後に繋がる者たちの思惑を考慮した場合、全く話は変わってくる。

 特にジルダを溺愛するセブリアンの場合、彼女に子ができてしまえばそもそも正妃を娶る必要がなくなるし、今後正妃のペネロペに子が生まれたとしても、間違いなくジルダの子の方を愛し優先するだろう。



 そもそもこの婚姻は、第二公家とも揶揄されるバッケスホーフ家に利益誘導するためのものだったはずだ。それがいざ蓋を開けてみれば、婚姻前からその目論見が破綻仕掛けていたのだ。

 そんな事態をプライドお化けのようなペネロぺ・フーリエ公爵令嬢、いてはリカルダ・バッケスホーフ女公爵が許すはずがなかった。


 それなのに、ペネロペの様子を見る限りジルダの懐妊を喜んでいるようにしか見えず、それどころか祝福の言葉さえかけている。

 その様子に主人の裏――何かしらの思惑を感じ取ったお付きのメイドや騎士たちは、戦々恐々と状況を見守り続けた。


 そんな中、再びペネロペが口を開く。

 長身のわりに小さな顔を綻ばせながら、表面上は優しげに微笑んでいた。



「なにはともあれ、ご懐妊おめでとう、ジルダさん。もしもこれが男児であれば、建国の父ライゼンハイマーの血も安泰ですわね。少し気は早いですが、お祝いの言葉を述べさせていただきますわ」


「あ、ありがとうございます……」


「とは言え、実際にはお医者様の診断が必要なのは変わりません。ですから陛下にははっきりと結果がわかるまで黙っておいたほうがいいですわね ――とにかくこの後すぐに医務所へ行きましょう。もちろんわたくしも付き添って差し上げますわ」


「は、はい……ありがとうございます」


 にこにこと笑いながら、尚も話しかけてくるペネロペ。

 しかしジルダは自身に起こった出来事がどうしても理解できず、その半分も耳に入っていなかった。

 まさに「心ここにあらず」といった状態で、ひたすら遠くを見つめ続ける。

 そんなジルダに、変わらずペネロペが声をかけ続けた。



「それにしても陛下のお子を懐妊するなど、そんな偉業はこのわたくしにしか出来ないと思っておりましたが――正直に申せば、少々嫉妬してしまいますわね」


「い、いえ、それはまだ決まったわけでは……」


「どのみちすぐにはっきりするでしょう。いずれにせよ、お医者様でなければ断定できませんし」


 そう告げたペネロペの顔に、奇妙な表情が浮かぶ。

 それはまるで何かを必死に堪えているような、それでいて何処かほくそ笑むような、なんとも言えないものだった。


 しかし未だ呆然としたままのジルダは、その微妙な変化に気づかなかった。

 普段の彼女であれば考えられない事態だが、この時ばかりは注意力が散漫になっていたらしい。

 ペネロペの言葉など完全に聞き流し、ジルダはひたすら思考の渦に巻き込まれていたのだった。



 この自分が妊娠するだなんて、どうしても信じられない。

 そもそも自分は子を産めない身体ではなかったか。


 あれは13歳の時だったろうか。

 女暗殺者の必須技能――「性技」の訓練のために数多の男の相手をさせられてしまい、何度も妊娠、堕胎を繰り返した挙げ句に二度と子を産めない身体になったのだ。


 事実それ以来任務として幾人もの男を落としてきたが、一度も妊娠することはなかった。

 それどころか、この10年セブリアンから数え切れないほどの寵愛を受けてきたが、遂に一度も子を宿さなかったではないか。


 彼の子を産む。

 それは幾ら望んだところで決して叶えられない夢だった。

 もしも本当に実現するのであれば、これほど嬉しいことはない。

 彼の子を世に残せるならば、あとはもうどうなってもかまわないと思うほどだ。


 いや……実際のところはまだわからないだろう。

 あくまでこれはペネロペの素人診断でしかなく、実際に医師の診察を受けなければ断言できないではないか。

 その結果、これが単なる勘違いであるならそれでいい。

 また元の生活に戻るだけなのだから――


 しかし、もしも……もしも本当に子を宿していたならば……

 親を知らず、物心ついた時にはすでに暗殺者になるべく育てられていた自分と、実の両親、育ての両親、そして祖国からも疎まれ迫害されたセブリアン。


 この二人の間に子が産まれるのであれば、本当の意味で私達は家族になれる。

 父と母と子。

 その光景に何度憧れたことか。

 その夢が遂に叶うかと思うと、自分は――




「――さん、ねぇジルダさん……聞いてらっしゃる?」


 ペネロペのことなどすっかり忘れてぼんやり考えていると、不意にジルダは大きな声をかけられた。

 若干の驚きとともに視線を戻すと、そこには胡乱な顔で覗き込むペネロペがいた。

 どうやら彼女はジルダに無視されたと勘違いしたらしく、些か気分を害しているように見える。

 そんなペネロペに慌てて返事をする。


「は、はい――申し訳ありません。少しぼーっとしておりました。あまりの出来事に、色々と考えてしまいまして……」


「ふぅ……まぁ、あなたの気持ちもわかりますけれど…… とにかくすぐに医務所へ行きますわよ。 ――ところでジルダさん、突然話が変わって恐縮なのですけれど、先程のブルゴーとの戦のお話ね――」


「はい」

 

此度こたびの戦において、陛下は本心では戦いを避けたいと思っているのはご存知よね? 侵攻されてしまった以上、やむを得ず今は軍を動かしていますけれど」


「それはよく存じております。陛下はいつも国費については頭を悩ませていますから。『この金がない時に、よくもブルゴーは余計なことをしてくれた』がここ最近の口癖です」


 決して饒舌ではないジルダがぽつりぽつりと返していると、さらにペネロペの表情は複雑さを増していく。

 その顔は今では機嫌が良いのか悪いのか、ひと目では判断つかないものになっていた。



「そう……あなたと陛下の仲は、如何なわたくしとて些か嫉妬してしまいますわね。 ――まぁ、それはいいですわ。ところでジルダさん、その陛下のことでわたくしからひとつ提案があるのだけれど、聞いてくださる?」


 「聞いてくださる?」などと許可を求めておきながら、そのじつ相手が断るなど露にも思わないペネロペ。

 相変わらず言動の端々に貴族特有の傲慢さを滲ませながら、無意識にジルダを見下ろしていた。


 そんな将来の大公妃にジルダは答える。

 何か嫌な予感を覚えたのだろうか。その顔には警戒するような表情が浮かんでいた。


「はい……なんでしょうか?」


「なにはともあれ、陛下の子を宿したことは素晴らしいことだと思いますわ。しかもあなたの子だと聞けば、陛下もさぞお喜びになることでしょう。 ――しかし子を授かるだけであれば、このわたくしにもできること。何もあなただけが特別ではありませんわ」


「……」


「そこで提案なのですけれど、あなたはあなたにしか出来ないことを他にすべきだと思いますのよ」


「私にしかできないこと……?」


「うふふふ……そう、いま陛下が望んでいること――それは子を儲けることではありませんの。それはわかっていらっしゃるわよね?」


 まるで意味がわからないと言わんばかりに、珍しくジルダがポカンとしていると、ペネロペは意味深な笑みを浮かべた。


 

「いつも陛下のお側にいながら……あなたにはわかりませぬか? ふぅ、仕方のない御方だこと――では教えて差し上げますが、それは『目の前の戦を終わらせること』、それに尽きますわよ。うふふふっ」


「戦を終わらせる……?」


 人に教えられるまでもなく、それはジルダにもわかっている。

 なぜならそれは、毎夜セブリアンの酒に付き合うたびに聞かされていたからだ。

 しかし軍と軍とがぶつかり合う集団戦闘において、自分にできることなどそうはない。たった一人の暗殺者崩れにできることなど、たかが知れているだろう。

 一体彼女は何を言わんとしているのだろうか。


 そんな疑問が胡乱な表情となってジルダの顔に現れる。

 もとより感情を表に出さないのが彼女の信条であるのに、ことペネロペの前では失敗続きだった。

 その彼女にペネロペがニンマリと笑いかけた。


「あなたにしかできないこと――それは『暗殺』ですわ。聞けば、功を焦ったブルゴー国王――イサンドロが前線まで出てきていると言うではありませぬか。これは格好の的になるのではなくって?」


「えっ……」


「あなたの正体が凄腕の暗殺者であるのは周知の事実。であれば、あなたになら出来るのではありませんの? イサンドロの暗殺を」


「……」


「如何に強豪のブルゴー王国と言えど、勇者ケビンがおらず、国王を殺されてしまえば足並みも乱れるというもの。場合によっては撤退もあり得るかもしれませんわね。もしそうなれば、早期に戦を終結させたとして、陛下はあなたを褒め称えることでしょう。これは間違いありませんわ」


「陛下が……私を……?」


「そう、あなたをよ、ジルダさん。早期に戦を終結させ、さらに愛する陛下の子を生む。これほどセブリアン大公陛下を喜ばせることはありませんわ。 ――あなたはあなたにしか出来ないことで貢献すべきだとわたくしは愚考いたしますの。さぁ如何いかが?」



 果たしてジルダは何を思ったのだろうか。

 それまで俯かせていた顔を上げると、それは元の精悍な顔つきに戻っていたのだった。

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