第234話 希望、或いは絶望

 ブルゴー王国第17代国王イサンドロ・フル・ブルゴーの暗殺。

 その凶報が届けられた時から、話は半月前に遡る。



 ここはブルゴー王国と交戦中の隣国――カルデイア大公国の首都ベラルカサ。

 その中心に建つ大公の居城であるライゼンハイマー城の一角。


 その日ジルダは朝から機嫌が悪かった。

 もう何日も酷い吐き気に悩まされ、空腹感に苛まれながらも全く食欲が湧いてこない。

 これまで平気で食べていた物が、匂いを嗅いだだけで吐き気を催してしまう。


 食べられるのは酸味の強い果実だけ。

 そんな食生活を続けていれば身体に力が入らないのも当然なのだが、物心ついた時から暗殺者として育てられてきた彼女はそれが我慢ならなかった。


 体調に仕事が左右される者は二流だ。

 そのポリシーを崩さないジルダは、自身の現状を受け入れ難かった。

 とは言え、具合が悪いのは事実であるため、そのジレンマに悩まされるジルダの顔は徐々に険しいものになっていく。



 他人に対して心を開こうとしないジルダは滅多に感情を表に出すことはなく、何を考えているのかわからない仏頂面は今や城内でも有名だった。

 まるで能面のように表情を崩さず、口を開く時でも必要最低限のことしか話さない。

 そんな些か極端な彼女の態度は、相手が貴族であっても変わらなかった。

 もっともそれは意図してやっているのではなく、喜怒哀楽を表に出さない訓練を幼少時から施されてきたのが原因だった。


 カルデイア大公国の大公にして国家元首でもあるセブリアン・ライゼンハイマー。

 その彼に影のように付き従い、周囲に気を配り、近寄る者を威圧する。

 そんな彼女に対しては、苦手意識を持つ者も少なくなかった。 


 丁寧な口調でありながらもぶっきらぼうなジルダの態度は、さすがに無礼だと憤る者もいる。

 しかし彼女はセブリアンの愛人であるうえに将来側妃になることも決まっているため、表立って非難する者などいるはずもなかった。



 誰に対しても媚びず、折れず、愛想のない態度を崩さないジルダではあるが、唯一セブリアンに対しては違っていた。プライベートではそれなりに笑顔も見せるし冗談を言ったりもする。

 公の場では無表情な護衛に徹する彼女も、セブリアンと二人きりの時には一緒に酒を飲んだり談笑したりと、普通の恋人同士とそう変わらなかった。

 




「あら、ジルダさん。ごきげんよう」


 こみ上げる吐き気を我慢しながらジルダが廊下を歩いていると、不意に後ろから声をかけられた。

 もちろんジルダはとっくに気づいていたしそれが誰なのかはわかっていたが、敢えて素知らぬ振りをする。


 機嫌がいいのか悪いのか、表情からは全く読めない仏頂面のジルダ。

 ゆっくり彼女が振り向くと、そこには豪奢なドレスを身に纏い、高く髪を結い上げたスラリと背の高い貴婦人が立っていた。

 少々目鼻立ちがはっきりし過ぎるきらいはあるものの、それでも十分に整った顔と男好きする肉感的な肢体は、10人いれば9人は美しいと言うだろう。  


 そんな年若く美しい女性――フーリエ公爵家の長女にして大公セブリアンの婚約者でもあるペネロペ・フーリエが、どこか無機質な笑みを貼り付けたまま近づいてくる。


 「何かお役に立てることがあれば」と、戦準備に奔走するセブリアンのために再び領地から出てきたペネロペではあったが、結局相手にされないまま放置されていた。

 だからと言って、さっさと領地に戻るのも役立たずを認めるようで体裁が悪い。

 そのため彼女はしばらく城に滞在していたが、さすがに暇を持て余してしまったらしい。


 役人や重鎮たちが忙しく走り回っている中、ペネロペだけがまるで場違いのようにのんびり散歩を続ける。

 午前は庭を散策した。午後は何をして過ごそうかと呑気に考えていると、廊下を歩くジルダを見つけたのだ。


 その瞬間、ペネロペは満面の笑みを浮かべる。

 しかしそれは決して人好きのする快活なものではなく、ましてや親しい友人に向けられるものですらなかった。


 未だ婚姻の儀は済んでいないが、将来ペネロペが大公妃として、そしてジルダが側妃としてセブリアンの妻になることは決まっている。

 だから互いに仲良くしようと自分から提案してきたはずなのに、ペネロペの顔にはは相手を見下す表情が浮かんでいたのだ。

 もっともそれを器用に隠していたので、ジルダでなければ気づかなかったかもしれないのだが。


 そんなペネロペに向かって、ジルダが挨拶を返す。

 しかしその顔は変わらず無表情のままだった。


「……ご機嫌麗しく、ペネロペ様。 ――お散歩ですか?」


「えぇ。散歩と申しますか、まぁ、視察ですわね。将来わたくしの居城になるのですから、しっかり見て回ろうかと思いまして。うふふ……」


 変わらぬ薄笑いを浮かべたまま、ペネロペが返す。

 その瞳は細められ、無遠慮にジルダを眺め回していた。



 今年36歳になるジルダは、その年齢を感じさせない容姿をしている。

 平均寿命が50代前半のこの時代において、その年齢はすでに人生の後半に差し掛かっていると言えるのだが、10年前と殆ど変わらぬ容姿を保っていたのだ。

 触れるほど近くで見ればさすがに実年齢は隠しきれないが、それでも十分若々しい姿は厳しい訓練の賜物だった。


 この10年は実務に就いていないが、いまでも現役の暗殺者であるジルダ。

 護衛として、そして恋人としてセブリアンを守り続けると誓った彼女は、任務の成否に関わる身体の衰えを可能な限り遅らせようと努力していた。

 そんなジルダの身体はドレスの上からでもわかるほど鍛え抜かれており、無駄な贅肉のない均整の取れた肢体は、彼女の若々しさの原動力ともなっていたのだ。

  

 しかしその彼女の様子が、今日は何処か違っていた。

 その様子に敏感に気づいたペネロペが、無遠慮に口を開く。



「……あら? ジルダさん、どこか具合でもお悪いのかしら? なにやら顔色が優れませんわよ?」

 

「いいえ、大丈夫です。お気になさらず……それで本日は如何されましたか?」


 機嫌と具合の悪さに気づかれて焦りながらも、決して顔に出さないままジルダが答える。

 未だ現役の暗殺者であり続ける彼女にとって、こうも簡単に感情を見抜かれたのは許しがたいことだった。しかも相手がお気楽な貴族令嬢であれば尚の事だ。


 その思いが再び顔に出てしまっていたのだろうか。

 そんなジルダにペネロペが笑みを深めた。



「そうですの? わたくしにはそうは見えませぬが……まぁ、いいですわ。 ――ところでジルダさん、少しお時間はあるかしら? 久しぶりにお話がしたいのだけれど」


「はい、大丈夫です」


 ともすれば馬鹿にしているようにすら見える、薄笑いを浮かべたペネロペ。その姿は妙にジルダを苛つかせてしまう。

 決して否とは言わせない貴族特有の傲慢さは、普段のジルダであれば華麗にスルー出来ていたのだろうが、何故かこの時ばかりは受け流すのに苦労していた。

 しかしペネロペは、まるでおかまいなしに話し続ける。


「あら、それは良かったわ。 ――それではこちらに座ってお話しましょう。いまお茶を用意させますわね」


「あ、いえ、おかまいなく。私は貴女様と同じ席でお茶を飲めるような身分では――」


「何を仰るのです? あなたとわたくしは同じ殿方に嫁ぐ身。言わば姉妹のようなものなのですから、いまさら遠慮など不要ですわ。それともこのわたくしに、立ったまま話をせよと仰るのかしら?」


 そう告げるペネロペの瞳が小さく光る。

 顔には変わらぬ笑みが浮かんでいるが、彼女が気分を害したのは間違いなかった。

 するとジルダは覚悟を決めたように短く答えた。


「……大変申し訳ありません。それではお言葉に甘えて――」




 ――――


 


「――そうですのね。それでは戦の状況はそれほど悪くはないのですね?」


「はい。どうやらブルゴーは勇者ケビンを出してこなかったそうです。何を考えているのかわかりませんが、噂によれば幽閉されているとも聞いております」


「そう……勇者ケビン……話によれば、剣技に長けた精悍な殿方だとか。実を申せば、常々一度会ってみたいと思っていましたのよ。 ――もっともお強いのは剣の腕だけではないらしいですけれど」


「……」


「うふふ……お聞きになったかしら? 妻に迎えた第二王女との間に、すでに8人もの稚児ややこを授かったとか。 ――犬猫ではあるまいし、また随分とお盛んだこと」


 ペネロペに従って客間の一室に入ったジルダは、席に着くなり一方的に話し続けられてしまう。

 どうやら相当暇を持て余していたらしいペネロペは、相手が無口で無愛想なジルダであるにもかかわらずひたすら話し続ける。

 初めこそ当たり障りのない会話に終始していたが、徐々にその舌が滑らかになっていく。

 

 それに対してジルダは、ただ相槌を打つだけだった。

 むしろ何か話せと言われるよりも随分と楽だったので、そのままペネロペのしたいようにさせていたのだ。

 そんなジルダは相変わらずの仏頂面のまま頷いた。



「はい、聞き及んでおります。つい最近も双子の赤ん坊が生まれたとか」 


「えぇ、そうね。あの二人はの国ではすっかり多産・富国の象徴になっているみたいですけれど。 ――もう二人とも30歳くらいだったかしら? 年齢で言えば、さすがにもう打ち止めだと思いますけれど。 ――あら、ごめんなさい。無神経でしたわね。うふふふ……」


「いえ……おかまいなく」


 失言のていを装いながら、そのじつ意図的に年齢の話に触れるペネロペ。

 その彼女が相も変わらぬ薄ら笑いを浮かべたまま、無表情のジルダを見つめている。


 30歳で子を生めなくなるのであれば、36歳の自分は一体どうすればいいのか。

 もっとも、とっくに子を生めない身体になっているのだから、一々そんなことを気に病むのは馬鹿げている。

 しかしそれでも正面から揶揄されてしまえば、決して面白くはないのも事実だ。


 女盛りの19歳のペネロペには理解出来ないのだろうが、いずれ彼女にもわかる時がきっとくる――



 などとジルダが思っていると、突然横から手を差し伸べられた。

 暗殺者となるべく厳しい訓練を乗り越えてきたジルダだが、物思いに耽っていたばかりに不意を突かれてしまう。

 それでも咄嗟に剣に手をかけようとしていると、おもむろにその人物は告げた。


「お茶でございます。 ――本日のお品は、アルマンシル地方の逸品でございます。どうぞご堪能くださいませ」


 それはペネロペお抱えのメイドだった。

 主人同様スラリと背が高く、顔も十分美しいそのメイドは、まさに完璧な所作でお辞儀をすると音もなく下がっていく。

 どうやら護衛の騎士からお付きのメイド、世話役の女中に至るまで、その全てが見目の良い者ばかり集められていた。


 恐らくそれは意図的なものだろう。

 そんなところにもペネロペの価値観が透けて見えていた。



 そんなことをジルダが考えていると、先にカップに手を伸ばしたペネロペが茶を勧めてくる。


「どうぞ、遠慮せずにお飲みになって。このお茶はわたくしのお気に入りですの。 ――どうです? この美しい色合いと芳醇な香り。これに優る逸品はありませんわ」


 自分のお気に入りなのだから、相手も気に入るのは当然。

 さもそう言わんばかりに、自信に満ち溢れた顔でペネロペが勧めてくる。

 実を言うとジルダはそれほど茶が好きではないのだが、あえて場の空気を悪くする必要もないために、勧められるままカップに口をつけた。



 少しの渋みとともに、芳醇な香りが鼻を抜ける。

 普通であればとても良い香りとして認識されるのだろうが、今この時のジルダは違っていた。

 その瞬間、ジルダの表情が歪んでしまったのだ。


 あろうことか、公爵令嬢にドヤ顔で勧められた茶の香りが、ジルダの嘔吐中枢を刺激してしまったらしい。

 実のところ、ペネロペの話に付き合っている間もずっとジルダは吐き気を我慢していた。

 鉄のような忍耐力でこれまで必死に堪えていたのだが、ここに来て遂に限界を迎えてしまったのだ。


 突如喉元に込み上げてくる、酸味のある何か。

 ここまでくれば最早もはや忍耐だとか辛抱などといったものは何の役にも立ちはしない。


 それでも面と向かって粗相するわけにもいかず、口元を両手で押さえて素早く立ち上がると、呆気に取られるペネロペを尻目に部屋の隅へと駆けていく。

 そして……嘔吐した。


「うぷっ……うえぇぇ……げほっごほっ……」



 部屋の隅にしゃがみ込み、壁に手を突いて嘔吐するジルダ。

 その姿をしばらく眺めていたペネロペは、ゆっくり立ち上がると声をかけた。


「ジルダさん……如何されました? 大丈夫ですの?」


「げほっ、ごほっ……も、申し訳ございません。貴女様の面前でこのような失態を演じてしまい――大変申し訳ございません……うぷっ」


 ペネロペに背を向けたまま謝罪の言葉を口にするジルダと、その周りにハンカチやタオルを持って集まってくるメイドたち。

 背中を優しく擦られながら、それでもジルダが嘔吐を繰り返していると、次第にペネロペの顔色が変わっていく。


 突然何かに気づいたのだろうか。

 今や白を通り越して青に近い色に顔を染めながら、ペネロペが小さく呟いた。



「ジルダさん……もしかして……それは悪阻つわりなのでは……なくって?」


「ごほっ、げほっ……えっ……?」


「あなた……まさか、そのお腹に稚児ややこが……」


「……!!!!」



 襲いくる吐き気と必死に戦っていたジルダではあったが、その言葉を聞いた途端、それすら忘れ去っていた。

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