第233話 唐突な知らせ
ハサール王国からアストゥリア帝国を挟んで南に500キロ。
そこにはリタ――魔女アニエスの生まれ故郷であるブルゴー王国が広がっている。
モンタネル大陸の中でも南西部に位置するこの国は、一年を通して温暖で過ごしやすく人々の往来も多い。
しかし南に魔族の国――魔国、北に宿敵アストゥリア帝国、そして西を軍事国家で名を馳せるカルデイア大公国に囲まれているため、その歴史は戦争の歴史でもあった。
それでもここ10年は戦乱と呼べるものはなかった。
確かにアストゥリア帝国との小競り合いは相変わらず続いていたが、それもごく小規模のものに限られていたため、国民たちは束の間の平和を享受していたのだ。
しかし今から約1ヵ月前、その状況が一変してしまう。
何故なら、隣国カルデイアに対してブルゴーが宣戦を布告したからだ。
名君と謳われた先王アレハンドロ。
その彼が長引く戦乱に終止符を打ち、やっとの思いで平和を手繰り寄せたというのに、その息子――現国王イサンドロはあっさりそれを手放して、再び戦乱の世へと導いていく。
もちろんアレハンドロを始め、国の重鎮たちは反対した。
やっと国情が安定して国民の疲弊も癒えてきたというのに、またぞろ昔に逆戻りだ。
しかしイサンドロは聞く耳を持とうとせず、自身の側近連中を全てイエスマンで固めてしまうと、そのまま戦争へと突っ走ってしまう。
その姿はまさに頑なとしか言いようがなく、今や彼は紛うことなき「裸の王様」だった。
カルデイアへ宣戦が布告されると、国王の義弟にして救国の英雄でもあるケビン・コンテスティは、イサンドロによって幽閉されてしまう。
それはイサンドロが戦の功を独り占めするための計略だったのだが、どうやらそれは上手くいっていないらしい。
自ら兵を率いたイサンドロは、意気揚々と進軍した。
しかし未だ目立った戦果を上がられぬまま、敵地のど真ん中で足止めを食らい続けていたのだ。
1ヶ月経った今でも国境から50キロしか進んでおらず、大見栄を切って出立した割に進軍速度は決して早いとは言えない。
現在も敵軍の抵抗にあっており、西進する速度は増々落ちる一方だった。
この戦はブルゴー王国から仕掛けたものだ。
それ故初戦勝利は必須とされていたが、現状を鑑みても些か微妙だ。
局地を見れば確かに優勢なのだが、戦局を俯瞰で眺めると決して押しているとは言い難い。
今さら言っても仕方がないが、布告から進軍までひと月も猶予を与えてしまったのがそもそもの失敗だった。
普通であればその期間は妥当なのだろうが、すでに開戦止むなしと覚悟する相手にそれは長すぎたのだ。
だからと言って一度与えた期間を一方的に短縮などできようはずもなく、自身の失策に気付きながらもブルゴーはそれを守らざるを得なかった。
戦と言えどルールはある。
たとえ戦に勝ったとしても、それを守らなければ周辺諸国の理解は得られないし、場合によっては約束を守らぬ蛮国として非難されることにもなるだろう。
もしそうなれば、目も当てられない。
周辺国から戦勝は認められず、戦後処理でも一切の協力は期待できない。それどころか、戦後秩序の枠組みから外されてしまうことにもなりかねないのだ。
長すぎる猶予を与えたのも失敗だったが、さらに初戦を迎え撃ちにきた相手が悪かった。
それは誰あろう、ダーヴィト・ヴァルネファーとジークムント・ツァイラーの二人だったからだ。
長らく閑職に就かされていた二人だが、未だに猛将、知将としての実力は衰えておらず、10年前の戦役では魔物の襲撃さえなければムルシア領の領都を落としていただろうと今でも言われているほどだった。
如何に急ごしらえであっても、そんな二人に軍を率いられてしまえば、此度が初陣のイサンドロなどまるで歯が立たないのも仕方がない。
実際に軍を動かしているのは現場の指揮官や武官たちなのだが、功に焦るイサンドロの度重なる口出しは、かえって現場を混乱させる原因にもなっていた。
自ら隣国に侵攻していながら、未だに目立った功績を上げられない国王イサンドロ。
自意識とプライドばかり高いが故に、安易に援軍に頼れぬまま焦りに焦り続ける彼は、今や引き返すことすら儘ならず敵地で孤立してしまう。
手柄を独り占めするためにケビンを更迭までしたというのに、それは完全に裏目に出てしまっており、今では現場の兵たちからも疑念を持たれる始末だった。
――――
「あなた……お身体の調子は如何ですか?」
「やぁ、エルミー。大丈夫だ、問題ない」
もう何度この会話を繰り返しただろうか。
毎日、毎日、飽きもせず、全く同じ言葉を繰り返している。
そしてそれに対する答えも、毎回同じだ。
またしても昨日と同じことを考えてしまうと、溢れる涙を堪えるために顔を俯かせた。
ここはブルゴー王国の首都モンタンバルにある王城の一角。
さらにその東の端にある高い尖塔の最上階に設えられた王侯貴族専用の幽閉牢。
昼でも殆ど日の入らない薄暗いその一角に、若い女性の嗚咽が響いていた。
少々高めのその声は暗く陰惨な石牢には似つかわしくないほど美しく、薄暗い廊下の先に消えていく様は物悲しさも併せ持つ。
そして、そんな美しくも儚い姿を牢の中から見つめる一人の男。
国が戦時下に置かれているこの時に、いったい誰が閉じ込められているのだろうか。
ここが王侯貴族専用の幽閉牢であることを慮れば自ずと答えは出そうなものだが、いったい彼が誰なのかはひと目見ただけではわからない。
しかも
しかし、この国では珍しい黒い髪と黒い瞳、そして薄汚れていてもわかるほどの精悍な顔つきを持つ王族と言えば彼しかいない。
そう、その男はブルゴー国王の義弟にして救国の英雄、そして「
石牢に幽閉されて、すでに2ヶ月。
風呂はおろかトイレすらない牢に閉じ込められ続けたケビンは、今ではすっかり汚れきっていた。
一度も風呂に入っていないどころか、用を足すのも備え付けの桶という、王族を閉じ込めるにはあまりといえばあまりな環境。
その状況であるにもかかわらず、一切ケビンは泣き言を漏らさず、文句も言わず、ひたすら時が過ぎるのを待っていた。
目の前で涙を流す最愛の妻に、ケビンが口を開いた。
「エルミー。子どもたちはどうだい? 皆元気かい?」
「はい、元気です。リオネルとクリステルは首が座り始めましたし、コンスタンのお喋りもだいぶ上達しました……」
「そうか…… あぁ、子どもたちに会いたいな。クリスティアンにはもうずっと剣の稽古をつけていないな……」
「そうですね。一日も早くあなたを釈放するように、陛下にはお願いをしていたのですが……当のご本人が遠征に出てしまっていますから、それすらも儘ならず……ごめんなさい、あなた。私にもっと力があれば、或いは――」
「なにも君が謝ることではないだろう? 君はよくやってくれているよ。こんな臭くて汚いところに毎日顔を出してくれるし、子どもたちの面倒も見てくれている。君には感謝してもしきれない。もしも謝るのであれば、それは俺の方だ」
そう言いながらケビンは、最愛の妻を俯瞰で眺めてみる。
貴族としては珍しい情熱的な恋愛結婚から12年。今年29歳になるエルミニアは、今でもその若々しさを保っていた。
少女と見紛うような愛らしさは出会った頃と殆ど変わらず、少々肉付きが良くなったとは言え、そのスラリとした立ち姿は8人もの子を生んだ経産婦とは思えない。
確かに近くで見ればその年令は隠しきれないが、それでも十分に美しかった。
そんな妻――エルミニアが鉄格子越しに縋り付く。
「あぁ、もうこんな茶番はおやめ下さい!! あなたがその気になれば、こんな牢など簡単に抜け出せることは知っています!! 事実、これまでだって幾つもの牢を壊してきたではありませんか!!」
「い、いや……あれはついカッとなってだな……」
突然涙を流したかと思えば、突如激昂し始めたエルミニア。
感情の赴くままひたすら大声を上げ始めた妻から、思わずケビンは身を引いてしまう。
いつも笑みを絶やさないエルミニアが、ここまで怒りを表すのをケビンにしても初めて見たらしく、その顔には驚きと困惑が広がっていた。
それでもケビンは、必死に妻を宥めようとする。
大げさに手を振り回しながら、身振り手振りで落ち着くように促した。
「と、とにかく落ち着け、落ち着くんだエルミー。さぁ、ゆっくり息を吸って――」
「これが落ち着いていられますか!! 陛下が戦地に赴いてすでにひと月。あれだけの大見栄を切っておきながら、全く結果が出ていません!! もしもあなたが一緒なら、もっと違った結果になっていたはずです!!」
「エ、エルミー、陛下の悪口は良くない。それでは不敬に――」
「何が不敬なのですか!?
「エルミー……」
エルミニアの言う通り、イサンドロは敢えてケビンを戦に同行させなかった。
何故ならケビンは、全国民に慕われる「
如何に国王自ら戦功を挙げようとも、ケビンが一緒であれば全ての名声が彼のものになってしまう。
そう思ったイサンドロは、偽計を弄してまでケビンを幽閉したのだ。
その結果、自ら戦を起こしておきながら、未だ目立った戦功も上げられぬまま戦況を膠着させてしまっていた。
もしもケビンが同行していたならば、もっと違った結果になっていたはずだ。
暗にエルミニアはそう言いたかったらしい。
するとケビンは、妻を諭すように優しく声をかけた。
「君の言いたいことはよくわかる。大きな声では言えないが、俺だって陛下には色々と思うところはあるからな。 ――しかし陛下の名誉のために言うなら、たとえ俺が一緒だったとしても戦況はそう大きく違っていたとも思えないな」
「えっ……? だってあなたは『
「……エルミー、頼むからあまり俺を買い被らないでくれ。確かに魔王を倒したのは事実だし、自分で言うのもおかしいが、かなり強いとも思う。 ――しかしそれは小規模戦、局地戦においてでしかない。如何に俺でも、軍隊による集団戦闘の勝敗を左右するほどの存在ではないよ」
「でも……」
「いいかい? 俺だって人間だ。どんなに頑張っても50人も斬れば息は上がるし、体力も尽きる。それに魔力だって無限じゃない。なんと言っても俺の本職は魔術師じゃないからな。この身体に蓄えられる魔力量なんて、ばば様に比べたら屁みたいなものだ。 ――俺が陛下に同行していたとしても、今とそう変わらなかっただろう。だから『たられば』の話はしない方がいい」
「で、でも……」
柔らかい笑みさえ浮かべた夫に諭されながら、エルミニアは力なく肩を落とした。
激情は鳴りを潜め、しょんぼりと眉を下げた顔は美しくも愛らしかった。
そんな最愛の妻に思わずケビンが見とれていると、その背後から大きな声をかけられた。
「王妹殿下!! ――あぁよかった、やはりこちらにいらしたのですね!!」
バタバタと大きな足音を響かせながら近寄ってくる一人の男。
それはここブルゴー王国の宰相を務めるフェリクス・マザラン公爵だった。
一見優男風に見えてその実いつも落ち着き払っている男ではあるが、この時ばかりは大層慌てているように見えた。
そんなマザランに、エルミニアが怪訝そうに声をかける。
「あぁ、これはマザラン様ではありませんか。このような場所に如何されましたか? ここはあなたのような方がいらっしゃるところではありませんでしょう?」
優しく気立ての良いエルミニアには珍しく、些か棘のある言葉を吐いていた。
その言葉を聞く限り、どうやら彼女は少々宰相にも思うところがあるらしい。
恐らく彼女は、夫を幽閉した共犯としてマザラン公爵にあまり良い感情をもっていないようだった。
しかし己に向けられる感情になど露ほどもかまわず、走り寄るなりマザランが口を開いた。
「はぁ、はぁ、はぁ……と、突然のお声がけを大変失礼いたします。ケビン様、王妹殿下、火急のお知らせがございまして、罷り越しました!!」
「火急の……なんだ?」
「なにかしら?」
あまりのマザランの迫力にポカンとしてしまうケビンとエルミニア。
そのふたりの反応にはやはりかまわず、まるで叫ぶようにマザランは告げた。
「へ、陛下が……イサンドロ国王陛下が……お亡くなりになられました!!」
「……はぁ!?」
「えぇ!?」
「お、恐れながら申し上げますが、
呆然とするケビンとエルミニアの耳には、宰相マザランの声は全く聞こえていなかった。
あまりと言えばあまりの衝撃的な内容に、二人ともが棒立ちになってしまう。
その様子に気づいたマザランが再び二人が身動ぎするのを待っていると、やっとの思いでケビンが告げた。
「もちろん裏は取っているのだろうな!? よもや間違いでしたでは済まされんぞ!!」
「へ、陛下が……イサンドロ兄様が……まさか……」
鋭い目つきで詰問するケビンと、未だ呆然としたままのエルミニア。
まるで対象的な二人を見つめながら、尚もマザランは報告を続けた。
「は、はい、間違いございません!! 時間差ですでに三人の早馬が着きましたが、皆同様の報告をしております。もちろんこちらからも調査のための早馬を出してあります。詳細はそれが戻ってきてからかと」
「わかった。詳細は追って確認することにしよう。それでは、これから――」
無精髭を伸ばし、薄汚れた姿のまま牢の中から指示を出すケビンと、神妙な顔つきでそれを聞く宰相マザラン。
二人が今後の対応について相談を始めると、不意にその横から声が聞こえてくる。
そちらに視線を向けると、そこには真顔のエルミニアが宰相マザランを見つめていた。
そして口を開く。
「……出しなさい」
「はい?」
「出しなさい。 ――
「……しかし、その権限は私にはございませぬ故――」
まるで意味がわからない。
その表情を隠そうともせずにマザランが答えると、エルミニアの眉が不意に上がった。
「権限なら
「し、しかし王妹殿下、それは一体どのような――」
「王妹……? 何を仰るのです?
「はっ……そ、それは……」
その言葉に突然ハッとするマザラン。
するとエルミニアは、背筋を伸ばして胸を反らせると再び告げた。
「ブルゴー王国第18代女王エルミニア・フル・ブルゴーの名において命じます!!
愛らしくも美しく、そして威厳に満ちた声が、薄暗い牢の中に響き渡った。
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