第203話 恋を諦めるということ

「こ、恋煩こいわずらい……!?」


 ナイナから先日の事件の詳細を聞いたリタは、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。

 事件の顛末自体はリタもエミリエンヌから聞いていたし、元気がなくなった彼女を一生懸命慰めてもいた。

 さらに言えば今日のこの席だって、美味しいスイーツを食べて気分転換をさせようとしたリタの気遣いでもあったのだ。


 謎の騎士とエミリエンヌとの間に、そんなロマンスがあったとはさすがのリタも初めて聞いた。

 あの日からずっとぼんやりしたままで、時々思い出したかのように深いため息をつくエミリエンヌ。

 ナイナによれば、それは間違いなく恋煩いに違いないと言うのだ。


 それに対して、リタはなんと答えればいいのかわからなかった。

 今でこそ幼少時から婚約者のいる彼女だが、そもそも212年にも及ぶ前世では、ただの一度も恋愛経験がなかったのだ。

 そんな彼女がなにか効果的なアドバイスなどできるわけもなく、ただ戸惑いながら席に戻った。



「エミリエンヌ……もしかして好きな殿方ができたんじゃないの? それって『恋煩い』にしか見えないんだけど」


 ナイナから聞き出しておきながら、まるで自分の言葉のようにしれっとした顔で質問するリタ。

 エミリエンヌの顔には、心の内を見透かされた者の焦りが浮かんでいた。


「な、な、な、何を言ってるの? 誰が誰に恋してるですって!?」

 

「だから、エミリーが金髪の騎士によ」


 まるで言葉を飾ることなく、ズバリと言い放つリタ。


「だ、だ、だ、誰があんな男に!! あ、あんな粗暴で口が悪くて軽薄で、しかも汚くて不潔な、お、男を、だ、だ、だ、誰が好きになんて――」


 思い切りどもりながら、身振り手振りを交えて盛大に慌てまくるエミリエンヌ。

 その姿には彼女の心の内が透けて見えた。


 生まれついての上位貴族家令嬢の彼女は、その出自ゆえ非常に気位が高いうえに決して己を曲げたり相手に迎合しようとしない。

 しかしそれと同時に、決して嘘をついたり取り繕ったりすることはなく、その意味において彼女は素直で正直者であるとも言えた。


 そんなエミリエンヌであるからこそ、気難しい老人気質を同居させるリタにして彼女と親友――数年内に義姉ぎしになるのだが――になれたのだ。

 もしも彼女が気位が高いだけの人間であったなら、最早もはや頑固とさえ言えるほど曲がったことが大嫌いなリタの性格には合わなかっただろう。




 目撃者の証言によれば、部下らしき男たちから「若」と呼ばれていたとも聞いている。

 だからその騎士は、恐らく何処ぞの貴族家の子息なのだと思われる。


 雇われ騎士の中には平民出身者もいるが、それ以外の殆どは下位貴族の子息たちだ。

 そしてその多くが、家督を継げない次男や三男である場合が多い。

 何故なら、長男が家を継いでしまえばそれ以外の者は家に居場所がなくなってしまうからだ。

 そのため上位貴族家の騎士に雇われたり、王国騎士団に入団する者も少なくない。

  

 もしもその金髪の騎士とやらがそのような身分の者であれば、他家から見初められる場合もあるかもしれない。

 中には優れた能力を認められて上位貴族家へ婿入りしたり、貴族家とパイプがほしい裕福な商家に婿入りする場合もあるのだ。

 

 しかし侯爵家――しかも国防の一翼を担う辺境侯爵家の長女であるエミリエンヌの場合、そんな下位貴族家の次男や三男と結ばれることなどあり得ない。

 つまり金髪の騎士がそういった下位貴族家の者である場合、彼女の恋は決して成就することはないのだ。

 


 リタが知る限り、これまでエミリエンヌに浮いた話はなかった。

 だから、これが彼女の初恋なのは間違いない。

 しかしどう考えてもその想いが成就することはないだろうし、彼女の立場を慮れば、たとえそこに愛がなくとも粛々と親が決めた相手に嫁ぐしかないのだ。


 恋に恋するお年頃のエミリエンヌが、決して成就することのない初恋に熱いため息を吐いている。

 そんな彼女のことを、どうしても不憫に思ってしまうリタだった。




 ――――




「お嬢様ー!! た、大変です!! お嬢様ぁ!!」


 事件から10日経ったある日の朝、ムルシア侯爵家の首都屋敷に甲高い女性の声が響き渡った。

 その女性は屋敷の使用人たちの奇異の視線にも一切構わず、ノックもせずにある一室のドアを突然開いた。

 そんな慌ただしく入ってきた女性に部屋の主が声をかけたのだが、それは些か咎めるような声音だった。


「どうしたの、ナイナ? 朝から騒々しいわよ?」


 透き通るように美しい若い女性の声。

 その声の主はムルシア家の長女、エミリエンヌだ。

 そしてノックもせずに部屋に走り込んできたのは、もちろん専属メイドのナイナだった。

 よほど慌てていたのだろうか、そのメイドはまるで全速力で駆けてきたかのように肩で息をしている。

 それでも彼女は息を整える間ももったいないと言わんばかりに、乱れた息のまま声を上げた。


「お、お嬢様!! わ、わかりました、あのお方の居場所が!!」


「あのお方? 居場所?」


 思わず胡乱な顔で答えるエミリエンヌ。

 まるで要領を得ないナイナの言葉に表情を隠せないでいると、続けてナイナが叫んだ。


「こ、これですよ、これっ!! このハンカチですっ!!」



 勢いよくグイッと差し出されたもの――それは一枚の真っ白なハンカチだった。

 キメが細かく滑らかな肌触りと、綺羅びやかに輝く美しい光沢。

 細かく手の込んだ刺繍に高価なレースがふんだんにあしらわれたそれは、見ただけで高級品とわかる。


 そう、それはあの事件の際に、エミリエンヌが金髪の騎士から渡されたものだった。

 返り血で真っ赤に染まってしまったために、返さなくてもいいと言われていたが、騎士に繋がる唯一の手がかりとして、どうしても彼女は捨てることができなかった。

 そして次に会う時に返そうと、染み抜き職人に出していたのだ。

 どうやらそれが戻って来たらしい。


 あれだけ血で真っ赤に染まっていたのに、見れば元通り真っ白になっていた。

 その結果に満足そうな笑みを浮かべたエミリエンヌに、尚もナイナが言い募る。


「こ、ここをご覧ください!! 汚れていた時はわかりませんでしたが、ここに家の紋章が刺繍されていたのです!!」


「えぇ!!」


 その言葉に目を剥いたエミリエンヌは、まるで奪うようにハンカチを取り上げる。

 そして顔を近づけてしげしげと眺めた。

 


「この紋章はっ!!」


「はいっ!!」


「もしかして!!」


「はいっ!!」


「――ど、どこの家かしら?」


 ずこー!!


 思わずずっこけそうになるメイドのナイナ。

 貴族として生まれた者は、幼少期の基礎教養として主要な貴族家の紋章を徹底的に叩き込まれる。

 言わばそれは貴族として最低限度の知識であり、紋章を見ただけで何処の家かわかるのが普通だ。


 しかし仮にも西部辺境侯爵家の長女ともあろう者が、こんな有名な家の紋章を知らないとは……

 思わず盛大に溜息を吐きそうになりながら、それでもナイナは健気に耐えた。


「お、お嬢様……まさか知らないとは仰いませんよね? これは東部辺境候ラングロワ侯爵家の紋章ではありませんか……お願いしますよ」


「や、やぁねぇ、単なるど忘れじゃないの……ちゃ、ちゃんと憶えているわよ、おほほほ……」


 何気にバツの悪い顔をしながら、必死に取り繕うエミリエンヌ。

 そんな主人を思わず追求したくなったナイナだが、今はそれどころではないことを思い出す。



「はい。恐らくあの御方はラングロワ侯爵家の護衛騎士ではないでしょうか? そういえばあの日、侯爵様と奥方様がこちらをお訪ねになっていらっしゃいましたよね?」


「あぁ……確かに。お父様とお母様に会いにいらっしゃっていたわね。でも、どうしてあの騎士はあんな時間からお酒の匂いがしたのかしら。仕事中だったのでは……?」


「それはわかりませんが……もしかしたら休暇中だったのでしょうか?」


「あの汚い姿で? でもまぁ、あの格好が長旅のせいだったとすれば、それはそれで説明はつくけれど…… まぁいいわ。 ――とにかくこれではっきりした!! 彼はラングロワ家の騎士なのよ、間違いないわ!!」


「はいっ!! 私もそう思います。 ――それでどうします? ラングロワ家に問い合わせてみますか?」


「えっ……!?」


 メイドの言葉を聞いた途端、エミリエンヌの動きが止まる。

 手に持ったハンカチを大事そうに懐にしまいながらも、その瞳は泳いでいた。



 ナイナが言う通り、あの金髪の騎士はラングロワ家の騎士に違いないだろう。

 そうでなければ、わざわざ紋章入りハンカチなど持ち歩くわけがないし、あの長旅から帰ってきたばかりのような汚い格好にも説明がつく。

 しかしラングロワ家に問い合わせるにしても、一体何を訊けばいいのだろうか?


 ムルシア家の当主でもない自分が、正当な理由もなく他家に騎士の在籍確認などするわけにもいかないだろうし、相手だって返答に困ってしまうはずだ。

 それならば、あのときの礼を改めて言いたいと伝えて――いや、礼はあの時すでに述べていたので、いまさら改まるのはおかしいだろう。


 それならば、ハンカチを返したいからと口実を作って――



「あぁ、だめ……どうしても彼に会う理由が思いつかない。他家の騎士を呼び出すだなんて、それなりの理由がなければできるわけがないもの」


 そう呟きながらも、その実エミリエンヌは妙に冷静になっていた。


 正体が不明だったために、これまで何処か神秘的な存在に思っていたが、素性がわかってしまえばどうということもない。

 実際には難しいかもしれないが、それでもラングロワ家に問い合わせることもできるし、会おうと思えば会うこともできるだろう。


 しかし、彼に会ってどうするというのか。

 まさか好きになってしまったなどと、告白まがいのことなどできるはずもないのだ。

 恐らく彼は、下級貴族の次男か三男に違いない。

 家督を継げない彼は実家に居場所がなくなってしまい、騎士としてラングロワ家に雇われているのだ。


 そんな男に告白をしたとしてもその後どうすればいいのかわからないし、相手の男だって困ってしまうだろう。

 西部辺境候にして武家貴族筆頭でもあるムルシア侯爵家の長女。

 その身分である自分なのだから、どう逆立ちしたってあの男と結ばれるわけがないのだ。


 彼のことを考えるだけで、胸は高鳴り、顔は火照る。

 生まれて始めて経験したこの恋だが、決して成就することはないだろう。

 自分と彼との身分差を考えると、これは絶対に許される恋ではないのだ。



 遂にそこまで思い至ったエミリエンヌは、不意に身体から力が抜けてしまう。

 そしてがっくりと肩を落としたかと思うと、小さな声でナイナに告げた。


「いいえ、なにもしなくていいわ。彼の素性がわかっただけで満足ですもの。それ以上を望むなんてこと……私には決してできないわ……」


「お嬢様……」


「ありがとう、ナイナ。あなたの想いは痛いほど伝わったわ。でもね、やっぱり私はムルシア侯爵家の長女なのよ。一時の気の迷いを本気にできるほど、この身に自由はないの。気持ちはありがたいけれど――彼のことは、もう忘れるわ……」



 「跳ねっ返りのじゃじゃ馬娘」の異名を持つほど気が強いエミリエンヌだが、顔を伏せて小声で話す姿には、まるでその片鱗は見られなかった。


 そして白磁のように白く滑らかなその頬には、今やポロポロと大粒の涙が溢れていたのだった。

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