第197話 セブリアンとジルダ
「――もちろんお前の可愛い息子が殺されるところもだ。覚悟しておけ」
今にも殺しそうな目つきで言い捨てるセブリアン。
その目で睨みつけられたリカルダは、己の背筋に冷たいものが走るのを感じた。
事前の情報では、彼はこんな男ではなかったはずだ。
今から10年前――ブルゴー王国時代のセブリアンは、病的なまでに猜疑心に蝕まれ、暗く沈んだ表情が特徴的なまるで発育不良の子供のような人物だと聞いていた。
それが実際に会ってみれば、恐怖すら覚えるような恫喝をしてみせたのだ。
こんなはずではなかった。
一体これはどうなっているのか。
人は変わる。場合によっては、短期間で別人のようになる者もいる。
初めて人から愛されて、10年もの長きに渡って自身の出自とこの先の未来とを考え続けて来たセブリアン。
そんな彼であれば、こうも変わってしまうのも無理はないのだろうか。
そんなことを考えながら、それでも恐怖感からリカルダが腰を浮かしそうになっていると、まるで仲裁するかのように一人の男が割って入る。
それは宰相のヒエロニムス・ヒューブナー公爵だった。
その名からもわかる通り、彼はこの国の有力公爵家の当主で、5代遡るとライゼンハイマー大公家に繋がる。
リカルダほど近くはないが、一応はセブリアンとも血の繋がりのある遠い親戚と言ってもいい。
ヒューブナーは仕事ができる有能な男としてオイゲンの信頼を得ており、若い頃からこの国の難しい舵取りを任されていた。
そのために気苦労の多い彼は、この10年ですっかり髪が少なくなってしまい、残った髪も真っ白になってしまったのだ。
そんなヒューブナーが、まるで庇うかのようにセブリアンの視界からリカルダを隠した。
「殿下、どうかお許しを。バッケスホーフ夫人も決して貴方様を責めに来たのではないのですから。 ――そうでしょう、夫人?」
ヒューブナーはそう言うと、椅子の上で顔を強張らせるリカルダを覗き込む。
「え? えぇ……そ、そうですわね。わ、
助けとばかりに宰相の言葉に乗っかると、まるで誤魔化すようにリカルダは笑う。
しかしその瞳から、未だに恐怖は消えていなかった。
実はヒューブナーがリカルダを庇ったのには訳がある。
この度の次期大公指名に関しては、どう贔屓目に見ても彼女に勝ち目はないだろう。
セブリアンの言う通り、彼の血の濃さは誰も敵うものではなかったし、なにより現大公オイゲンの口から直接指名されたのだから、逆らうことなどできるはずもない。
彼女とていまさら大公の言を覆せるなどとは本気で思っていないだろうし、無理なのも十分理解しているはずだ。
しかし、だからといってバッケスホーフ家を無下になどできはしない。
この公爵家は深く国の基幹に関わる家なので、彼女を敵に回しては国の運営も儘ならないからだ。
これまで誰もその存在を知らなかった「ぽっと出」の人物でしかないセブリアン。
その彼がこの先新大公としてやっていくには、バッケスホーフ家の協力は欠かせないのだ。
円滑な国家運営をするうえで、
特にこの国に全くパイプも人脈もないセブリアンの場合であれば、第二公家とも揶揄されるほど政治の中枢に食い込んでいるバッケスホーフ家の協力は不可欠と言っていい。
だからこそ、彼女を敵に回すのは悪手だ。
だからと言ってリカルダの思う通りにさせることもできないし、セブリアンの顔も立てなければならない。
それではどうすればいいのかと問われれば――
「お願いですから、とりあえずお二人とも落ち着いてください。 ――さぁ、お茶を入れ直しますゆえ、少しお気を静めて――」
ヒューブナーがそう言うと、流れるような所作でメイドが新しい茶を入れ直す。
その様子を横目に見ながら、再び彼が口を開いた。
「実を言いますと、バッケスホーフ家には近日中に遣いを出す予定だったのです。なので、今日この場に夫人が揃っているのは僥倖でした」
「遣いを? 一体なんですの?」
宰相の言葉に胡乱な顔を返すバッケスホーフ家夫人。
直前のセブリアンの攻撃からヒューブナーに救われた形になった彼女だが、その視線にはまるで遠慮がない。
ヒューブナーとは同じ爵位――公爵家同士のリカルダではあるが、家の序列はバッケスホーフ家の方が上だ。些か居丈高とも言える彼女の態度には、その辺が深く関係していた。
そんなリカルダに、ヒューブナーが再び口を開く。
「えぇ。実は殿下とリカルダ夫人にご提案――と言いますか、大公陛下からの
「あぁ、かまわない」
「
「ありがとうございます。それでは単刀直入に申し上げますが――セブリアン殿下。大公位への即位が終わり次第、すぐにでも奥方を娶っていただきたいのです」
「えっ……?」
ヒューブナーの言葉を聞いた途端、壁際に控えていたジルダの肩がピクリと動いた。
しかしその顔は変わらず無表情のままだ。
その姿を見る限り、彼女はこの会話を聞いているようには見えない。
しかしその反応を敏感に拾ったセブリアンは、一瞬の間の後に口を開いた。
「……妻を? 一体
「はい。大公陛下は血の途絶をなによりも恐れていらっしゃいます。ですから殿下には、すぐにでも世継ぎをお作りいただきたいのです」
「……しかし俺には、
怪訝な顔をしながらセブリアンが指差すと、僅かにジルダが表情を動かす。
端から見るとその顔にはいつもと違いは見られなかったが、そこには巧妙に隠された彼女の悲しみが見えた。
それに気付いたヒューブナーは、一瞬戸惑うような仕草を見せる。
しかしすぐに表情を消すと、淡々と話を続けた。
「失礼ながら申し上げますが、ジルダ殿は子を産めない身体だとお聞きしております。それ以前に、そもそも身分的に彼女を正妃とするわけにもまいりませぬ故、ここはどうかご容赦を」
「……」
セブリアンが何も言えずにいると、次に宰相はリカルダに話しかける。
その顔には柔らかな笑みが浮かんだままだった。
「そこでご提案なのですが、セブリアン様の奥方になられる方としては是非バッケスホーフ家由来の女性をご紹介いただきたく存じます。夫人、
「えっ……? 新大公の奥方を……我が閥族から出せと?」
「はい。新大公の奥方はバッケスホーフ家に連なる者から選べと仰せです。これは大公陛下の
「……」
その意味するところを考えたリカルダは、女性であるにもかかわらず腕を組んで考え込んでしまった。
大公オイゲンの
それは、新大公となるセブリアンの後ろ盾になれと、暗にリカルダ――バッケスホーフ家に命じているのだ。
その見返りとして、大公妃としての権力と名声をバッケスホーフ一族にもたらしてやるということなのだろう。
大公妃としての権力などは大公自身のそれとは比べるべくもないが、その二人の間に男児が生まれれば話は大きく変わってくる。
老い先短いオイゲン亡き後、他に親戚も縁者も後ろ盾もないセブリアンが相手であれば、バッケスホーフ家はその男児に影響力を行使できる。
もちろんその男児は将来カルデイア大公になる人物なのだから、幼いうちから手懐けておけば、彼らにとって色々と有利になるだろう。
それらを考えると、それは決して悪い話ではないはずだ。
リカルダの息子が大公の座に就けなくなった今となっては、それは非常に魅力的な話なのは間違いなかった。
数瞬の間でそこまで考えが及んだリカルダは、直前までの表情を改めると、妥協と打算が複雑に入り混じったニンマリとした笑顔を作る。
それはこの部屋に来てから最高の笑顔だった。
「承知いたしました。このお話は大公陛下の
「快くご了承いただきまして、心より感謝いたします。きっと大公陛下もお喜びになることでしょう。 ――それでは候補者が決まり次第お知らせください」
その後リカルダは、
彼女にしてみれば、セブリアンに一言毒づくつもりで来たに過ぎなかったのだろうが、思わぬ手土産を貰ったことにホクホク顔を隠せずにいたのだ。
彼女のことだから、バッケスホーフ家の影響力が強く及ぶ者の中から候補者を選ぶに違いない。
恐らくは言いなりにできる傘下の貴族家から選出してくるはずだし、その人選には間違いなく派閥間の力関係と政治的な思惑が多分に含まれていることだろう。
まるでスキップする勢いで去るリカルダを見送ったあとにヒューブナーが部屋に戻ると、そこには面白くなさそうな顔のセブリアンが待っていた。
その背中にはジルダが寄り添っているのだが、その顔は今や真っ白になっている。
そんな二人をヒューブナーが眺めていると、早速セブリアンが口を開いた。
「おい、さっきの話はなんだ? 俺は聞いてないぞ」
「申し訳ございません。事前にお話を通そうかと思ったのですが、なにぶん急だったものですから」
「俺が大公の座を継ぐと了承した時、お前はこの先一切の隠し事をしないと誓ったな? ――次の大公の信頼を失うと、宰相として些かやりづらくなると思うが」
「……申し訳ございません。これからは意識して全てを
決して声を荒げてはいないが、その声音には妙な迫力が感じられる。
そんなセブリアンを前にして、宰相ヒューブナーは思わず平身してしまう。
するとセブリアンは、相変わらず面白くなさそうな顔のまま宰相を見つめた。
「まぁ、いい。 ――それで先ほどの嫁取りの件だが、そんなに急ぐのか? 俺にはジルダいるからな。他に嫁を欲しいなどとは思わんぞ」
「はい。もちろんそれは存じ上げております。しかし殿下が即位した暁には、できるだけ早く世継ぎを儲けていただかなければ困るのです。ご存じように、この度の大公陛下の場合にはこれが大きな問題になりました。もしもセブリアン様がいらっしゃらなければ、350年続いたライゼンハイマーの血が途切れてしまうところだったのです」
「……ふんっ、くだらん。お前たちは二言目には『血』だと言うが、そんなものはどうでもいいだろう。他より優れた者が国を継ぐ。これに勝るものはないのではないか? もっとも、俺がそれを言うのも
そう告げたセブリアンは、皮肉な笑みを顔に浮かべて自嘲する。
どちらの方が、血が濃いか。
さっきはそれで、リカルダを問い詰めたばかりではなかったか。
まるで自分のことを棚に上げたようなその言葉に、思わず彼は笑ってしまった。
「それに関しては、私からは何も申し上げられません。国の世襲は高度に政治的な問題ですので、私からはなんとも……」
「……あぁ、すまんな。自分から訊いておきながら、話の腰を折ってしまった。 ――それで嫁取りの話だが、どうしても必要なのか?」
「はい。それが大公陛下の御意志ですので。 ――貴方様がジルダ殿お一人で満足されているのは十分承知しておりますが、そのお立場は微妙なのです。大変申し上げにくいのですが、ジルダ殿は決して奥方にはなれません。その出自も身分も、何もかもが貴方様とは釣り合わないのです」
今でこそジルダはセブリアンの恋人のように振る舞っているが、その正体は暗殺者集団「漆黒の腕」の一員なのだ。
そして彼女自身も、諜報と暗殺を専門とする女工作員だ。
一度でもその組織に入ってしまうと死なない限り抜けることができないため、形式上は現在もセブリアンの監視任務についていることになっている。
もちろんそれはセブリアンも承知しており、そのうえで彼女との生活を選んだ。
まるで夫婦のように長らく一緒に暮らしてきたせいですっかり忘れていたが、今でもジルダの身分は暗殺者のままなのだ。
まさかそんな人間が大公の妻になどなれるわけがない。
これだけ血の継承に
そんな当たり前の疑問が浮かんだセブリアンは、怪訝な顔をしながら質問をする。
眉間には未だ深いシワが刻まれたままだった。
「ならば、ジルダはどうなるのだ? 俺が妻を娶った場合、
「はい。ジルダ様には側室に入っていただこうかと思っております。しかし、あくまでもそれは正妃を娶った後のお話になります。まさか正妃よりも前に側妃を娶るわけにもいかないでしょう」
「それはそうだが……」
何やら釈然としないセブリアン。
ふと背後を振り向くと、彼と目が合ったジルダがふわりと柔らかく微笑んだ。
「私のことはお気になさらず。お世継ぎを作るのも立派なお仕事ですから」
「……お前は気にならないのか? 妻を娶るということは、つまり、俺が他の女を抱くということなのだぞ?」
「……正直に申し上げますと、確かに嫉妬はするでしょう――なにより私は殿下を愛していますから。しかしそんなことなど構う必要はありません。殿下はその血を残していかなければならないのですから、世継ぎを作るのも立派な仕事の一つなのです」
「そうか……すまんな、ジルダ。或いはお前を傷付けてしまうかもしれぬ。その時は――」
「うふふ……本当に貴方様は優しいお方ですのね……こんな女に――子も産めぬこんな女を気に掛けてくださるだなんて――」
その時不意に、ジルダが顔を背けてしまう。
まるで顔を隠すかのように、彼女はそっぽを向いたのだ。
一国の大公子を前にしてその所作は不敬に当たるのだろうが、決してセブリアンは咎めようとはしなかった。
何故なら、ジルダの頬を伝う涙に気付いたからだ。
そんなジルダの肩に触れようとしたセブリアンは、瞬間躊躇してしまう。
しかしそのまま肩を引き寄せた。
「ジルダ……すまない」
たった一言だけ言葉を告げると、肩を震わせる最愛の女性をセブリアンはそっと抱きしめた。
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