第153話 子犬のような少年
「……うえ……あねうえ……」
「ううぅーん……」
「……姉上、大丈夫ですか? しっかりしてください」
「うぅーん……フレデリク……」
「随分と
何処か聞き慣れた、耳に心地良い声が聞こえてくる。
少々甲高く、ともすれば少女のようにも聞こえるその声は、きっと幼い少年の声だろう。
それにしてもこの声は、毎日のように聞いている気がする
……いや、ちょっと待て。
確か自分はフレデリクの策略に嵌められて、ご学友もろとも自爆したのではなかったか。
それなのにどうしてこんなところにいるのだろう。
――もしかしてここは
あのよぉ……なんつって。
あぁ、自分は朝から何を馬鹿なことを言っているのだ。
これではまるで――
がばっ!!
長く苦しい
そして瞬時に周りを見回して、現状を確認する。
ここはレンテリア伯爵家の首都屋敷。
つまりは自分の住む屋敷だ。
そしてここは自分の部屋――五歳の時からずっと使って来た、今では見慣れた景色。
ということは、つまり――
あぁ……夢――すべて夢だったのか……
それにしても――酷い夢だった。
まさか何処かで見たような「悪〇令嬢物語」の主人公にされた挙句に自爆をするなんて――一体何故にそんな夢を……
「リタ様。目をお覚ましくださいませ」
「姉上、しっかり!!」
寝起きのために鈍い頭をリタが必死に働かせていると、その横顔に話しかけてくる者がいた。
それも二人も。
その声に反応したリタは、そのうちの一人に目を向けた。
それは女性だった。
現在27歳のリタ専属メイドのフィリーネ・モラン。
彼女は以前リタ専属メイドを務めていたジョゼット・モラン(現在はジョゼット・フィオレッティ)の妹で、ここに来てもう10年になるベテランだ。
結婚のために仕事を辞した姉の代わりに、ここレンテリア家の首都屋敷で働き始めたフィリーネは、姉と同じ仕事がしたいと言って五年前からリタ専属になった。
彼女も姉に似て聡明で仕事ができる女性だが、姉と大きく違うところがひとつある。
それは彼女がとても話し好きなところだ。
無口で物静かな姉――ジョゼットとは対照的に、フィリーネは本当に良く喋る。
だからと言って無駄口が多いということではなく、彼女は会話をするのが上手いという意味だ。
もちろんそれは彼女が元来話し好きであるところが大きいのだが、どんな相手に対しても楽しく会話を盛り上げるのが得意だった。
そんな彼女が心配そうに話しかけてくる。
「リタ様、おはようございます。何やら
「あ、あぁ……おはよう、フィリーネ」
フィリーネからコップを受け取ると、リタは一気に飲み干した。
喉を潤す冷たい水の感覚が、半ば寝ぼけたままの頭を急速に覚ましていく。
「ふぅ……なんだかすっきりした。ありがとう、美味しかったわ」
「どういたしまして。 ――それはそうとリタ様、大丈夫ですか? 酷い寝汗ですよ。どう見ても悪い夢を見ていたようにしか思えませんが……」
「えぇ……あなたの言う通り、ちょっと酷い夢を見てしまって。でももう大丈夫。夢だとわかれば、もう何も怖くないから」
ホッと小さく息を吐くと、リタは空になったコップをフィリーネに手渡す。
するとその横に、もう一人いるのに気が付いた。
それはリタの弟――フランシスだ。
現在9歳の彼は、10年前の「第八次ハサール・カルデイア戦役」の翌年に生まれた。
それはロレンツォを救いに屋敷を飛び出したリタを、両親が追いかけて行ったちょうど10ヶ月後だったので、何かを察したレンテリア伯爵夫妻にジトっとした目で見られたものだ。
娘を連れ戻すために戦地に行ったはずなのに、そこでお前たちは何をしていたのか。
さすがに声に出しては言わなかったが、当主夫妻の顔はそう語っていた。
それでも家族が増えることに文句があるはずもなく、生まれて来たフランシスは屋敷にいる全員に歓迎された。
特にリタの可愛がりようは凄まじく、
未だ二次性徴が訪れていない幼い顔を顰めながら、リタの様子を気にするフランシス。
父親と同じ銀色の髪に、レンテリアの灰色の瞳。
その間違いようのないレンテリア家の血を色濃く受け継ぐフランシスは、一言で言うと少女のように愛らしい顔をしていた。
全体的な顔の造りは父親似だが、たれ目がちの瞳も、小さな鼻も、薄い唇も、その全てが美女と名高い母親のエメラルダにそっくりだった。
わかりやすく言うと、幼い頃のリタをもっと中性的にした感じだろうか。
父親に似て痩せてひょろりとした体格ではあるが、決して背は高くなく、そこは身長152センチの母親に似たのかもしれない。
もっとも男の子なので、いずれは背も伸びるだろうと誰も心配してはいなかったのだが。
家族のみならず、屋敷中の者たちに愛情をたっぷり注がれて育ったフランシスは、まるで子犬のように人懐こい性格をしている。
その中性的で可愛らしい顔には常に微笑を浮かべ、不意に目が合っただけでにっこりと笑う。
それがまた可愛らしくて、姉のリタはどうしても彼を過剰にかまってしまうのだった。
そんな優しく姉想いの弟に手を伸ばすと、リタはそのまま衝動的に抱きしめてしまう。
「おはよう、フラン!! 少し怖い夢を見たけれど、もう大丈夫!! 朝からあなたの顔を見られたから、姉上はすっかり元気になったわ!!」
起き抜けにそう叫ぶと、薄手のネグリジェのまま弟を抱きしめる。
ぎゅうぎゅうと顔に押し付けられる、柔らかくて大きな姉の胸。
すっかり「細身巨乳」に成長したリタに容赦なく抱きしめられて、その柔らかくて温かい感触にフランシスは顔を真っ赤にしてしまう。
未だ9歳児ではあるが、彼は彼なりに男として思うところがあるのだろう。
姉の抱擁から身を捩ると、必死に逃げ出した。
そんな弟に向かって名残惜しそうに手を伸ばしながら、リタは残念そうな顔をする。
「あぁ、フラン……」
「お、おやめください、姉上……は、恥ずかしいですからっ」
姉の胸から逃れたフランシスは、顔を真っ赤にしながら後退る。
それでもリタが、両手の指をわきわきさせながらにじり寄ろうとしていると、背後からフィリーネに窘められた。
「リタ様……フランシス様が嫌がっておいでです。もうその辺にしておきましょう」
「……ちっ、つまらぬ」
「はいっ?」
「な、なんでもない、なんでもないわ!! ――ところで、どうしてこんな朝早くにフランが私の部屋に?」
意図せず本音が出そうになったリタは、誤魔化すように胡乱な顔をしながら疑問を口にする。
現在時刻は朝の六時前。普段であれば9歳児のフランシスは未だ夢の中のはずだ。
それなのになぜ自分の部屋にいるのか。
「あぁ……それはですね。フランシス様がリタ様の呻き声をお聞きになったからですよ。『フィリーネ!! 姉上の部屋からおかしな声が聞こえてくる!! 賊かもしれないよ、助けなきゃ!!』なんて、私のところに走っていらしたのです」
「呻き声……? ――あぁ、寝言か」
何かを思い出すようにリタが首を傾げると、その顔を見てフィリーネが笑い始める。
まるで可笑しくてたまらないといった様子で、必死に声が出るのを堪えていた。
「ふふふっ。仰る通り、それはリタ様の寝言だったのです。しかし何やら悪い夢を見てらっしゃるご様子でしたので、失礼ながら声をかけさせていただきました。どのみちもう起きるお時間でしたし。 ――ところで、どのような夢を見ていらしたのです? 何やらフレデリク様のお名前を呼んでいらしたようですが……?」
「えぇ、えーと……」
フィリーネの質問に、リタは答えあぐねてしまう。
いつも優しく紳士的で、決して声を荒げることのない婚約者――フレデリク・ムルシア。
そんな彼が他の女の腰に手を廻しながら、自分に向かって婚約破棄を叫ぶ。
まさに信じられないその光景を、どうして彼女に説明できようか。
夢というものは、自分の深層心理が反映されると聞いたことがある。
ということは、あの光景は自分の中にある意識の現れということなのだろうか……
「うーむ、わからぬ……」
薄衣のネグリジェのままリタが己の思考に沈み込んでいると、その姿を尻目に部屋を逃げ出そうとする者がいた。
それはフランシスだった。
姉が物思いに耽っているのをこれ幸いに、彼はこっそり部屋から逃げ出していたのだ。
「それでは後ほど。また朝食の席でお会いましょう!!」
「あぁ、フラン!!」
一言そう言い残すと、フランシスは脱兎のごとく走り去っていってしまうのだった。
追い縋るようにその背に手を伸ばすリタに、呆れたような顔のフィリーネが小さくため息を吐いた。
「……リタ様。弟
「……そうかのぉ。いつの間にかフランも男の子になっていたということなんかなぁ……昔はあんなに可愛かったのに――」
普段の淑女然とした口調を忘れて、素のままで呟くリタ。
そんな彼女にくすりと笑みを浮かべると、フィリーネは起床を促した。
「リタ様。さぁ、もう起きてくださいませ。今日は奥様と若奥様と一緒に成人の儀のドレスを作りに行かれるのでしょう?」
「え? あぁ、そうだった……」
すっかり忘れていたかのようにリタが呟くと、またもフィリーネはしょうがないと言わんばかりに小さなため息を吐いた。
15歳で成人と認められるハサール王国では、その年齢で成人の儀を執り行う。
「成人の儀」などと言うと、如何にも荘厳で重々しい儀式のように聞こえるがそんなことはなく、ようは単なるセレモニーだ。
その年に15歳になる貴族家の子息女を一堂に集めて、皆で国王の訓示を聞く。
そしてその後に立食パーティーを開いて、同い年の者たち同士で今後の人脈を作るのが目的だ。
つまり「成人の儀」とは、成人の祝いとともに社交界へのデビュタントも兼ねており、その第一歩は彼らにとってとても大切なものだった。
さらにその席で他家に人脈を作ると同時に、将来の結婚相手も探していく。そんな思惑も見え隠れする場でもある。
もっとも五歳の時に既に婚約者を決められたリタには、いまさら結婚相手を探す必要はなかったが、それでも名門貴族レンテリア伯爵家としては、自慢の娘を他家から侮られるわけにはいかない。
そのため当主夫人イサベルを中心として、可能な限りリタを飾り立てる計画が進行中だった。
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