幕間2 予期せぬ危機
翌朝9時。
レンテリア伯爵邸の正門前の木陰に、一人の若い女性が佇んでいた。
未だ残暑厳しい九月の太陽を避けるように身を隠しながら、時折葉の隙間から射す陽を眩しそうに見上げている。
スラリと背が高く、見るからに清楚な装いの若い女性――レンテリア伯爵邸のリタ専属メイドのジョゼットが、私服姿で立っていた。
そして誰かと待ち合わせするように、道の向こうに時々視線を泳がせる。
もう九月の下旬だというのに、相変わらず暑い日が続く。
そのためジョゼットは
170センチを超える長身のジョゼットがそんな恰好をすると、余計に手足の長さが際立ち、そのスラリとした容姿はまるでモデルのように見える。
緊張のために昨夜はあまり眠れなかった彼女だが、今日も朝からばっちりメイクが決まっていた。
いつにも増して完璧なその仕上がりは、メイド仲間からもお墨付きを貰うほどだった。
今日のジョゼットは、実家に帰るために一日休みを貰っていた。
平日に休みを貰うなど、雇われメイドとしては非常に珍しく、事実ジョゼットは自らの意思で休みを取ったのはこれが初めてだった。
貴族屋敷のメイドには、殆ど休みがないのが普通だ。
あっても週に一日の半日休と月に一度の一日休がある程度で、それも主人の都合で潰れることも珍しくはない。
この時代のハウスメイドなどは、そんな待遇が当たり前だった。
それでもレンテリア家のメイド――他の使用人も含めて――の待遇は恵まれている方だと言っていい。
予め定められた休みをしっかり貰えるうえに、それ以外に休みを取っても給金に影響がないからだ。
もっとも、だからと言って容易に休む者もいないのだが。
他の貴族家では、冠婚葬祭以外で使用人に休みを与えないところも多く、そんな家の使用人たちは多少身体の具合が悪くても無理をして働くことが多かった。
何故なら、雇い主に病気がバレると簡単に解雇されてしまうからだ。
そもそもこの時代の医療費はとても高く、おいそれと平民が医者にかかるなどできはしない。
それこそ一度の診療費が、若いメイドの給金の一ヶ月分に相当する場合もあるほどだ。
だからわざわざ高額の医療費を払ってまで使用人の面倒を見る雇い主などいるわけもなく、最悪そのまま屋敷から放り出されてしまう場合もあった。
代わりの人間など、それこそ掃いて捨てるほどいる。
もしそうなれば、後は野垂れ死ぬ運命が待っているだけだった。
今日ジョゼットが休みを取った理由――それはロレンツォと一緒に田舎の両親に会いに行くためだった。
そして何故にそんなところへ行くのかと言えば……
「お嬢さんを僕にくださいっ!! おなしゃす!!」
という、男が避けて通れない、例のアレをするためだ。
休みを貰えないかとジョゼットがメイド頭に相談すると、彼女はまるでスクープを掴んだ瓦版屋のような顔で走り去っていく。
そのニヤけた顔を見る限り、ジョゼットがプロポーズされた話は、メイド頭によって面白可笑しく尾ひれがついた挙げ句、瞬く間に屋敷中に広まるのだろう。
とは言え、正当な理由を述べなければ休みも貰えないので、そこはジョゼットにとって痛し痒しといったところか。
今から約二か月前、出征が決まったロレンツォは突然ジョゼットに結婚を申し込んだ。
しかしそれはあまりに唐突だった。
確かに二人は互いに憎からず思っていたし、告白まがいのこともしていたが、彼らの関係は決してそこまでのものではなかったからだ。
これまで二人は、レンテリア邸の中でしか会ったことはない。
それも週に五日のリタの家庭教師の時だけだ。
例えば二人きりでデートをしたり、一緒に食事をしたりなど、互いのプライベートで会ったことはなかったし、それどころか屋敷の中でも二言三言言葉を交わすので精一杯だった。
だから二人が恋人同士なのかと問われれば、それは少々微妙だったのだ。
しかしその時のロレンツォには、そんなことは関係なかった。
ただ彼は、後悔したくなくて必死だったのだ。
それから向かう先は、互いに殺し殺される戦場だ。
いくら魔法で身を守れるとは言え、下手をすれば自分だって二度と戻って来られないかもしれない。
いや、全く従軍経験のない素人同然の自分であれば、むしろあっと言う間に殺されてしまってもおかしくないのだ。
確かに人よりは身を守る術を心得ているが、その分危険な場所に行かされる。
実際に今回だって、生還できるか疑わしい困難な作戦に駆り出されているではないか。
それだって話を聞いた限りでは、相当危険な任務だ。
このまま自分は思いの丈を伝えずに死んでいくのか。
いや、それだけは許せない。我慢ができない。
確かにジョゼットとは、未だ結婚を申し込むような深い関係にはなっていない。
それなのに突然こんなことを言ってしまえば、彼女だって答えに困ってしまうだろう。
しかし、それでいいじゃないか。
自分がジョゼットを好きな気持ちに、全く偽りはないのだ。
これで断られれば、それまでの関係だったということだ。
そうだ。
言わずに後悔するくらいなら、言って後悔した方がいい。
そう思ったロレンツォは、唐突なのは十分承知のうえでジョゼットにプロポーズした。
恋人同士の関係を一足飛びに飛び越えて、いきなり結婚の申し込みをしたのだ。
かくしてジョゼットは、その想いに応えてくれた。
ロレンツォが無事に帰ってきたら、結婚すると約束してくれたのだ。
そして約束通りにロレンツォは戻ってきたが、その姿は少々変わってしまっていた。
愛しい人との再会に初めこそ笑顔で喜んだロレンツォだったが、直後に左腕を見せながら口を開いた。
「この前の約束だけど……忘れてくれてもかまわないよ。 ――見ての通り、僕はこんな身体になってしまった。だからこれから、きっと君に負担をかけるかもしれない。僕は幸いにも肉体労働者ではないから仕事にはそれ程影響はないけれど、それでもこの身体では普通の人にできることも満足にできないだろう」
自嘲気味な笑顔を浮かべながら、それでもゆっくりと優しく語りかけてくるロレンツォ。
その彼を見つめながら、ジョゼットは告げた。
「いいえ。先生はお仲間を助けに行ったのでしょう? つまり、人の命を助けたのです。ですから、何ひとつ恥ずべきことはありません。もしもお身体が不自由であれば、私がそれをお助けします。一生お側にいて、先生をお助けしますから……ですから……お願いですから……そんな悲しいことを言わないで下さい……」
「ジョゼット……」
不自由になった自分の身体を理由に、身を引こうとするロレンツォ。
その彼の胸に勢いよく飛び込むと、ジョゼットは涙ながらに訴えた。
「一生私がお助けしますから……私が先生の手になりますから……約束通り結婚してください。なにも遠慮はいりません。――私はもう、先生がいなければ生きていけない……先生が行ってしまって、私はずっと生きた心地がしなかった」
「……」
「でも、こうして生きて帰って来てくれました。先生は私との約束を守ってくれたのです。それだけで十分です。 ――先生、ありがとうございます」
涙ながらに語られる、心からのジョゼットの言葉。
それを聞いたロレンツォは、昂る感情を抑えることができずに思わず涙を零してしまう。
それでも男の意地で必死に顔を隠していると、グイっと力強く顔を掴まれる。
そして今度は、ジョゼットの方からキスをした。
この日のために新調したワンピース。
その爽やかな薄水色の色彩は、厳しい残暑の中に涼しさを感じさせる。
そんな洋服に身を包んだジョゼットが静かに佇んでいると、通りの向こうから見慣れた顔が見えてくる。
生真面目な性格を表すように時間通りにロレンツォが姿を見せると、照れたように顔を綻ばせた。
「や、やぁ、おはよう。もしかして待たせちゃったかな」
「おはようございます。いえ、私も今来たばかりです。待ってませんよ」
まるで嬉しくてたまらないと言いたげな、輝くような笑顔のジョゼット。
そんな彼女の顔に見惚れてしまったロレンツォは、何気に呆けた顔をする。
そして意図せず口から本音が溢れてしまう。
「そうか、よかった――そ、それにしても、今朝の君も綺麗だね……凄く可愛いよ……いい、凄くいい……最高だ……」
「せ、先生……」
「えっ……? あっ、ご、ごめん!! ひ、独り言だよ!! 聞かなかったことにして」
「いえ、あの……あ、ありがとうございます。先生にそう言ってもらえると、とっても嬉しいです」
十代半ばの
しかも互いに両手をモジモジさせて、恥ずかしそうにする。
そんな二人の姿を傍から覗く三人のメイド。
塀の影から顔だけを出して、照れる二人の姿をガン見している。
それから面白くなさそうな顔をして口々に言葉を吐いた。
それはまるで呪いの呪文のようだった。
「くっそう……気に入らん。幸せそうな顔しやがって……ムカつくわぁ」
「もげろ、もげろ、もげろ……」
「先生……ジョゼットの親父に斬り捨てられてしまえ……」
そんな呪いの言葉を唱えられているなど露にも知らぬ二人は、そのままジョゼットの実家に向かって歩き始める。
それから仲良く肩を並べると、まるで散歩でもするかのように、のんびりと話を始めた。
実家のあるモサリナ村までは、歩いて約一時間。
初めは馬車に乗ろうかとも思ったが、ロレンツォはそれを諦めた。
馬車酔いで粗相するのを警戒した彼は、時間がかかってでも歩くことにしたのだ。
しかし厳しい残暑のためにすぐに後悔し始めたロレンツォだったが、直後にその考えを改めた。
何故なら実家に着くまでの一時間、のんびりジョゼットと話が出来たからだ。
二人が屋敷で会う時は、彼らは互いに仕事の最中だ。
ロレンツォはリタの魔術学の授業をしなければならないし(それは表向きで、実際には彼がリタから学んでいるのだが)、ジョゼットも二人にお茶とお菓子を出した後は他の仕事をしている。
だから毎日顔を合わせている割には、それほどゆっくり話をしている暇はなかった。
モサリナ村までの道中に二人は色々な話をする。
互いの趣味や好きな食べ物、出身地や子供の頃の話など、仕事中の屋敷ではできないような話をたくさんすることができた。
そして二人で声を出して笑い合う度に、さらに互いの距離が近くなるのを感じた。
しかしそんな楽しい時間も、そう長くは続かない。
初めは暑い日差しの下を一時間歩くのは大変かと思ったが、気付けばあっという間だった。
そしてあと五分で目的地に着くといったところで、やっとロレンツォはずっと訊きたかったことを口にした。
「あのさ、ジョゼットさんのお父さんなんだけど……どんな人?」
「えっ? 私の父ですか? うーん、べつに普通の父親だと思いますけど……」
「……もしかして怖い人だったりする?」
「いいえ、怖くはないと思いますよ? 母にも私にも優しいですし、弟や妹たちも皆可愛がっていますし――」
「そっか……」
些かキョトンとした顔のジョゼットの答えを聞く限り、どうやら彼女の父親は普通の人物のようだ。
もっとも何をもって「普通」とするのかは不明だが、少なくとも「娘が欲しければ、俺を乗り越えて行け」などという人物ではないらしい。
実はロレンツォは、それがずっと気になっていた。
これから結婚の許可を貰いに行くジョゼットの父親の人柄が、気になって仕方なかったのだ。
しかし彼はなかなかそれをジョゼットに訊けなかった。
彼女の父親を怖がっているなど、男として思われたくなかったからだ。
何気にホッと胸を撫で下ろしながらさらに道を進むと、それほど広くはない畑の真ん中に古くて小さな家が見えてくる。
周りに色とりどりの花を植えられたその家の様子は、まるで絵本に出てくるような可愛らしさを感じさせる。
古い家ではあるのだろうが、隅々まで手入れが行き届いており、とても綺麗だった。
その家を見ただけで、ジョゼットの両親の人柄が伝わってくる。
何気にロレンツォがそんなことを考えていると、実家を指差したジョゼットが顔を綻ばせた。
「あそこが私の実家です。小さな農家を営んでいます。家が小さくて恥ずかしいですが、私はあの家で生まれ育ったので、見てるとなんだかホッとしますね」
「あぁ、なかなか良いところだね。
「ふふふ、そうですね。そう言えば先生も生まれは田舎でしたね」
ロレンツォの言葉で思い出したのか、互いに田舎出身であることに親近感を覚えたジョゼットは、不意に零れるような笑顔を浮かべる。
元来無口で感情をあまり表に出さないジョゼットだが、いまの彼女はまるで違っていた。
普段のお仕着せのメイド服ではなく、清楚で涼し気な私服のせいだろうか。
それとも普段は結っている長い髪を下し、今はドキッとするような少女らしい姿のせいだろうか。
いまのジョゼットは、ロレンツォが良く知る屋敷での彼女とは違って見えた。
そんなジョゼットの笑顔にロレンツォが惹きつけられていると、不意に彼女が指差した。
「あっ、あそこで父が待っていますよ。ほら、あそこです」
「えっ……?」
その言葉にドキッとしながらロレンツォが視線を向けると、確かに家の前に一人の男の姿が見えた。
しかしそれを見た瞬間、ロレンツォは自分の顔が引きつるのがわかった。
何故ならそこには……まるで熊のような男が立っていたからだ。
それも筋肉の盛り上がる太い腕を組んで、家の前で仁王立ちになっている。
するとそんな男に向かって、両手を振り回しながらジョゼットが声を上げる。
「おとうさーん!! ただいま!! 約束通り、彼を連れて来たよ!!」
細く、高く、透き通る声。
生まれ育った実家と両親の近くにいる安心感のせいだろうか、屋敷では決して大きな声を出さないジョゼットが突然大声を上げた。
やはりその声も、ロレンツォが初めて聞くものだった。
家の前の大男が、その声に反応する。
そしてゆっくりと二人の方に近づいて来ると、のしのしと重そうに歩く姿も、顎まで伸びるモミアゲが目立つ厳つい顔も、やっぱり熊にしか見えなかった。
そんな熊が
「ほぉ……お前がうちの娘を
腹の底から響くような、低く、太く、ドスの効いたその声に、思わずロレンツォの喉がゴクリと鳴った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます