第142話 恐怖と混乱の伝播

 オスカル・ムルシアが領主を務めるムルシア侯爵領は、ハサール王国の中でも最西端に位置している。

 単独の領主が治める領地の中でもその面積は最大で、広さは王国の二割を占めるほどだ。

 また、肥沃な土地とそれによる農産物、そして北部に広がる海のおかげで水産資源にも恵まれており、それらを交易品とすることにより多額の収入を得ている。


 いまから約四百年前、地方豪族のひとつでしかなかったムルシア家は、同じ豪族だったハサール家の王国建国に協力した。

 その対価として、王国の侯爵位と未来永劫に渡ってこの土地の所有権を認められたのだ。


 そのためムルシア侯爵領は、他領とは違って王国に対して地税を払う必要がなく、その潤沢な予算を軍隊の配備に割いている。

 その軍隊の規模は王国の中でも最大で、有事の際には王国の盾として速やかに駆け付けるのだ。



 何故ムルシア侯爵領がそこまで大規模な軍隊を有するのかと問われれば、それは領地の西端が隣国カルデイア大公国に接しているからだと答えるだろう。

 

 ムルシア侯爵領は、隣国からの侵略行為に絶えず悩まされてきた。

 その小競り合いは約四百年前のハサール王国建国時から続いており、何が原因でこのような紛争を続けているのかは、今となっては誰にもわからない。


 しかしただ一つ言えるのは、未だかつてここまで深く領地に入り込まれたことはなかったということだ。


 様々な要因と偶然が重なった結果、今回遂に領都カラモルテまで三十キロの地点まで敵に攻め込まれていた。

 そしてそこへ至る街道沿いにムルシア侯爵軍が陣を張り、東進を続けるカルデイア大公国軍を待ち構えているところだったのだ。




「オスカル将軍、敵兵の姿が見え始めました。その数およそ一万。扇状の陣形で進軍を続けています。あと三十分ほどで先頭集団が接触するかと」


「わかった。数はこちらの方が上だ。 ――慌てる必要はない。じっくり懐に入るまで待ち構えろ。いいか、号令があるまで決してこちらから攻撃するな。相手に深く入らせてからの包囲攻撃だ。いいな?」

 

「承知したしました。その旨、徹底させます」


「わかったら行け」


「はっ!!」



 展開させた陣形を見渡せる高い砦の上に、一人の大柄な男が立っている。

 180センチを軽く超える長身に、鎧の上からでもわかるほどに盛り上がる筋肉。

 如何にも押しの強そうな角ばった顎と、見る者全てを震え上がらせるような鋭い眼差し。


 見るからに厳つい、まさに武人の中の武人。

 そんな彼は誰あろう、ハサール王国ムルシア侯爵家当主にしてムルシア侯爵軍将軍、オスカル・ムルシアその人だった。

 いま彼は、史上初めて領都近くまで攻め込んできた隣国の軍隊を迎え撃とうとしていた。


 人知れず隠れた策士だった、今は亡きバルタサール・ムルシア。

 そんな父親とは違って息子は些か脳筋に過ぎるきらいはあったが、あくまでもそれは許容範囲内のものだ。

 彼の名誉のために言わせてもらえば、決して愚か者でも愚鈍でもなく、少々物事に真っすぐ過ぎる程度でしかなかった。


 もっともそれこそが今回の巧妙な敵に踊らされる原因になっていたのだが、父親の代から仕える参謀やベテランの部下たちが上手く立ち回っていた。

 それでも西の三番の砦を人質に取られたことにより初動の遅れが目立ち、敵に軍勢を揃える時間を与えてしまったのだ。


 それでも彼の自論――「戦いは数と腕力」の示す通り、敵の軍勢一万に対して一万五千を展開させ、さらにその兵の練度も相当高かった。


 

 ムルシア侯爵軍の兵はこれが全てではなかったし、いざとなれば他領からの応援も呼ぶことができる。

 しかしオスカル以下彼の兵士たちの全員が、必ずここで敵を止めるつもりだった。


 それは自分達の背後に、領都カラモルテがあるからだ。

 将軍オスカルはもとより、兵たちの家族の多くが領都に住んでいる。

 だから絶対にここで敵の進軍を止められなければならないのだ。


 陣を張る兵の顔には決死の覚悟が溢れており、自分達の家族を守るのだという気概に満ちている。

 そして先頭集団の目に憎きカルデイア大公国軍の姿が見えてくると、その場の全員が戦いの興奮に身体を震わせるのだった。




 ――――




「ヴァルネファー将軍。まもなく先頭集団が接触します。進軍を続けますか?」


「一度止まるように指示を出せ。相手は我々を深く入り込ませようとするはずだ。左右に広がるように陣形を整えて、誘いに乗るつもりがないことをアピールしろ」


「はっ!! 了解いたしました!!」


 こちらは侵略側――カルデイア大公国軍の本隊。

 その後方に陣を構えるダーヴィト・ヴァルネファー将軍の元には、五分と空けずに情報が届けられる。


 現在のところ数では劣勢だが、今も続々と本国から兵が送られていた。

 実際に本隊の後方には既に第二陣が控えており、一陣の動き次第で柔軟に対応できるように準備しているのだ。


 その情報に満足そうな笑みを浮かべると、ヴァルネファーは後ろを振り返る。

 そして口を開いた。


「ジークムント、これでいいのだな? 数の上では第一陣は劣勢に見えるが」


「あぁ、かまわない。普通であれば必ず向こうは誘い込むような陣形を組んでいるはずだ。それには乗らないと見せつけることで、必ずあちらから動いてくる」


「確かに。そのための第二陣なんだしな」


「あぁ。 ――どうやら新しい将軍とやらは、小細工がお嫌いな様子だ。あの忌々しい策士だった父親とはかなり違うタイプだな。俺としてはむしろやりやすいが」


「はははっ。まぁ、先の砦の件を見る限り『脳筋』のあだ名は伊達ではないようだ」


「ふんっ、辺境侯が『脳筋』では目も当てられん。まったく、敵ながら心配になってくるほどだ」


「ふはは、違いない」


 これから戦が始まるというのに、少々肩の力が抜けすぎた様子の二人。

 その姿を見る限り、彼らには気負いというものが感じられず、まるで近所にピクニックに来ているような気安さだった。



 そんな時、突然二人の前に慌ただしく走り込んでくる者がいた。

 それは定時連絡担当の男だった。

 余程慌てて来たのだろう、目を大きく見開いたその顔には大粒の汗が流れ、激しく肩を上下させている。


 将軍の前であるのにもかかわらず、最早もはや敬礼を忘れるほどの慌てようだ。

 その様子を見る限り、彼のもたらす情報は只事ではないことが予想された。

 それも悪い方向で。


 そんな男にヴァルネファーとツァイラーが揃って怪訝な顔をしていると、息継ぎをしながらその男は口を開いた。




「も、申し上げます!! 第一陣最後尾が化け物に襲われています!! 三メートルはあろうかという巨大な獣で、突然森から現れると兵たちを襲い始めました!!」


「なに!? 化け物だと!?」


「は、はい!! 化け物――いえ、魔獣と言った方がいいかもしれません!! それも三頭もです!!」



 返答に困ったヴァルネファーが言い淀んでいると、男の背後からさらにもう一人の連絡係が現れる。

 その男も同様に息は乱れ、その顔は驚愕――いや、恐怖に歪んでいた。


「失礼ながら申し上げます!! 右翼が戦闘に入りました!! 敵は巨大な黒い騎士です!! あ、あれは人間なんかじゃない!! 化け物だ!!」


「黒い騎士だと!? なんだそれは!?」


「は、はい!! 普通の人間の三倍はあろうかという大きさの巨人です!! う、腕が十本もあり、巨大な戦斧と剣で兵たちを薙ぎ倒しています!!」


「……」



 二人の男の報告に、思わずヴァルネファーは考え込んでしまう。

 無精ひげの目立つ顎に手を当てて、二人の報告を頭の中で整理する。


 言っている意味が全く理解できない。

 二人揃って化け物だと言っているが、いったいそれはなんなのだ。

 確かにこの辺りには広大な森がひろがっているので、そこから魔獣の類が姿を現す場合もあるだろう。


 しかし黒い巨人とは一体何なのだ?

 しかも騎士だと……?



「ほ、報告いたします!! 本隊左翼で、兵たちがドラゴンに襲われて――」


 二人の男の報告にヴァルネファーが考え込んでいると、更にもう一人の連絡係が走り込んで来た。

 その男も先の二人同様に慌てふためき、その言葉の内容まで同じだった。


 そしてその報告を聞く将軍と参謀の口から、同時に同じ言葉が漏れた。


「ドラゴンだと!! ば、バカな!! 何故そんなものが……? 一体何が起こっているのだ――」



 

 ――――




「うわぁー!! に、逃げろ!! 食われるぞ!!」


「グオォォ!! グルルゥ……」


 カルデイア軍兵士の目の前を、巨大な三頭の獣が駆けまわる。

 その獣――いや、魔獣と言った方が正しいだろう――は体長四メートルはあろうかという四つ足の生き物で、敢えて動物に例えるなら獅子に似ていた。


 大人の胴体ほどもある太い首の周りにはフサフサとしたたてがみが生えており、全身を覆う体毛は細く短い。

 おまけに背中にはまるでコウモリのような大きな翼が生えており、それを開くと全幅は4メートルはあるだろうか。


 そしてさらに鋭く尖った尻尾は、サソリのそれのようだ。 

 その鋭いトゲのような尻尾の先からは、毒にしか見えないような紫色の液体が糸を引いている。



 それはこの世界の生き物ではなく、召喚士や魔術師が呪文を唱えて呼び出す魔獣――「マンティコア」だった。

 大きな翼で空を飛び、尻尾の先を突き刺して相手を毒殺する。

 巨大な牙で相手に噛みつき、あらゆる生き物を食い殺す。


 そんな化け物としか形容しようのない彼らだが、その一番の特徴は、いつも腹を空かせているところだった。

 しかもマンティコア――「人食い」の名が示すとおり人肉が好物だったのだ。


 そのマンティコアが次々に兵士に噛みついて、大好物である喉笛の柔らかい肉だけを贅沢に堪能していた。

 しかもその数は三頭。

 口から血の混じった涎を垂れ流しながら、彼らは手当たり次第に兵士たちに噛みついていたのだ。



 現場はパニックだった。

 兵たちはここにいる目的すら忘れて、ただ後退り、逃げ惑うだけで、抵抗しようとする者は皆無だった。

 初めのうちは槍で突いたり剣で斬り付けたりする者もいたのだが、鋼のように堅い身体には傷一つ付けられずに人間の死体ばかりが増えていく。


 その様子に心を折られた兵士たちは、すでに無秩序に逃げ惑うしかなかった。

 そしてマンティコアが通った後には喉笛を食いちぎられた兵士の死体が積み重なっていったのだった。




 ――――




「な、なんだこいつは!?」

 

 まもなく始まる戦のために、整然と列をなすカルデイア兵たち。

 その彼らの目の前に、突然巨大な影が現れた。

 音もなくゆっくりと森の中から現れたそれ・・は、まるで戦いを挑むかのように武器を構える。


 それは身の丈四メートルはあろうかという巨人だった。

 まるで武神のように鍛え抜かれた身体に禍々しい装飾の施された黒色の鎧を纏い、頭全体を覆い隠すようなヘルムのせいでその顔は見えない。


 その姿は一見巨大な人間のようにも見えたが、彼の上半身が明らかに普通の存在ではないことを物語っていた。

 彼の鍛え抜かれた分厚い胸板の横からは、左右五本ずつ、合計十本もの太い腕が生えていたのだ。

 そしてその一本一本の手には様々な得物が握られている。


 それは思わず鈍器かと思うような太い諸刃の剣だったり、凄まじい大きさの戦斧だったり、はたまた五メートルはあろうかと思うような長い槍だったりした。

 そんな完全武装の武神のような存在が、音もなくカルデイア軍兵の前に姿を現したのだ。



 その巨人は「ヘカトンケイル」だった。

 彼は精霊界の魔獣――マンティコアとは違い、冥界の住人だ。

 以前リタが呼び出した「イフリート」と並び、冥界の四天王の一人でもある。


 四メートルを超える肉体から繰り出される物理攻撃はおよそ普通の人間が太刀打ちできるものではなく、また強靭な肉体と全身に纏う神器級の鎧のおかげで、並みの攻撃では傷一つ付けることはできない。


 そんな反則とも言える絶対的な存在が、無言のまま、まるで情け容赦なく武器を振り回し始めたのだ。

 その姿を見た者の恐怖は如何ほどだろうか。


 

「ぐあぁー!!」


「ぎゃー!!」


「に、逃げろ!!」


 それは突然だった。

 遠目にはゆっくりと見えていたが、近くで見るとその歩みは意外と素早く、背を向けて逃げる兵にも楽に追い付いていた。

 そして辺りにはカルデイア兵の血と首と腕と足と、そして臓物が巻き散らかされ始める。


 その様子はまさに地獄絵図だった。

 金属の鎧に身を包んだ完全武装の兵士たちが鎧ごと真っ二つにされ、まるで丸太のような戦矛に貫かれ、巨大な金槌で叩き潰されていく。

 そして彼らが巻き散らかす血によって、大地が真っ赤に染まっていた。


 それはすでに戦いではなく、虐殺以外の何ものでもなかった。

 そもそも四メートルを超える巨人が十本の腕に持つ武器を振り回しているのだ。

 そんな者に近づける者などいるはずもなかったし、遠くから射る矢もまるで小枝のように叩き折られる。


 今さらそんな化け物に向かって行く者などいるはずもなく、彼らは皆パニックを起こして逃げ惑うばかりだった。




 ――――




「ド、ドラゴンだ!! 逃げろー!!」


「嘘だろ!! なんでこんなところに!?」


「こ、こんなの敵うわけないだろ!! なんだってんだよ!!」


 カルデイア軍の左翼に、突然空から何かが襲いかかって来る。

 それはドラゴンの頭にコウモリの翼、そして矢尻のような先端の蛇の尾を持つ生き物だった。

 空を飛んでいるのでよくわからないが、その長い尾の先まで含めると恐らく体長は五メートルはあるだろう。


 全部で三頭いる彼らは、地上近くまで降りてくると突然その口から炎の塊を吐き始める。

 そして逃げ惑う兵士たちは次々に炎に巻かれていくのだった。


 

 実際にドラゴンを見たことのない者ばかりなので仕方がないのだろうが、その名にしては些か小さな竜――それは見紛う事なく「ワイバーン」だった。

 それが三頭空から現れて、カルデイア兵たちに突然炎を吐き始めたのだ。


 いくら隊列を乱すなと叫んでみても、今更その言葉を聞く者など一人もいない。

 そして武器の届かない空の上から一方的に攻撃された彼らは、いまや逃げるしかなかった。




 右からはヘカトンケイルに薙ぎ倒され、背後からはマンティコアに噛み殺され、そして左からはワイバーンに焼かれる。

 まるでこの世のものとは思えないその光景は、兵士たちの心に確実に恐怖を植え付けて、瞬く間に軍全体へと伝わっていく。


 最早もはやその恐怖の伝播は誰にも止められず、次第に収集のつかない状態へとなっていったのだった。

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