第141話 猫派か犬派か、それが問題だ

 リタの正体について一しきり騒いだ後、救出隊隊長ハーマンの指揮のもと被害状況の確認と負傷者の手当てのために、ムルシア侯爵軍兵たちはその場から走り去っていった。

 戦いが終わった安堵感からだろうか、その場で思い思いに雑談に興じていた彼らではあったが、上官の号令一下、まるで蜘蛛の子を散らすように現場へと向かったのだ。


 そんな彼らの後姿を、リタは無言で見送っていた。

 周りの者たちに持ち上げられ、囃し立てられてしまったせいで、未だに彼女は顔を強張らせたまま固まっている。

 そして兵たちが負傷者の治療を始める様子を、まるで疲れ切ったようにぼんやりと眺めていた。

 

 

 敵兵にとどめを刺して歩く者、負傷者に肩を貸す者、死体を運ぶ者、皆それぞれに動き回っている。

 そんな中に一人の女性が目に入った。


 血と泥と草木の汁で汚れた灰色のローブに身を包み、思わず目で追いそうになるほど大きな胸をゆさゆさと揺らして歩く女魔術師。


 それはブリジットだった。

 見れば彼女も必死になって負傷者の治療を行っていたのだ。

 ユニ夫とピピ美と一緒になって藪の中に隠れていたはずだが、戦闘が終わったので出てきたのだろう。

 怪我にうめき声をあげる兵士の前で、彼女も魔術師としての本領を発揮していたのだった。


 他の兵士に混じって走り回っていたブリジットだったが、途中でロレンツォの姿に気が付いた。

 一瞬だけ顔に喜色を浮かべたが、すぐにその表情を曇らせると大きな胸を揺らしながら心配そうに駆けてくる。



「あ、あの、ロレンツォさん。よかった。ご無事でなによりでした……」


「やあ、ブリジットさん。あなたも無事でよかったです。 ――ところで、どうしてここにあなたが? 兵たちと一緒に本隊に行ったはずでは……」


 その言葉に複雑な表情を浮かべるブリジット。

 彼女は何か言い辛そうにしている。


「はい、そうだったのですが……途中で兵士たちと逸れてしまいまして。怪我をして森の中に倒れていたところを、リタ様に助けられたのです。訊けばあなたを助けに向かう途中だというものですから、私もご一緒させていただいたのです」


「そうか……それは運が良かったなぁ。そんな偶然もあるものなんだねぇ」


 相変わらずロレンツォは、場違いなほどのんびりとした口調だ。

 彼も人並みに驚いたり焦ったりもするのだが、普段の物言いがとてものんびりしているので、人からは何事にも動じない性格に見えるらしい。


 そんなロレンツォに軽く微笑みを浮かべると、ブリジットが話を続けた。



「それが……もしかすると、それは偶然なんかじゃなかったのかもしれません」


「偶然じゃないって? それはどういう意味?」


「はい。あの……私、ティターニア様に会ったのです。 ――いえ、助けられたと言った方がいいのでしょうか」


「ティターニア……? その名で僕が知っているのは、あの伝説の妖精族の女王だけだけど……」


 ロレンツォは不意に怪訝な顔になると、怪我の後遺症で些か青ざめたブリジットの顔を見つめる。

 その顔は彼女の真意を測ろうとしているように見えた。



「はい。まさにそのティターニア様なのです。彼女がこの森の中に顕現していたのです」


「えっ……?」


 その言葉に、まさしくロレンツォは絶句した。


 妖精族の女王ティターニアは、人間――人族がこの世界に生まれる前から存在すると言われている。

 いまではこの世界の大半を人族と魔族が支配しているが、それ以前はエルフやドワーフに代表される妖精族や魔獣といった半ば精霊界に属する者たちがその中心だったからだ。


 それらを統べる者――女王ティターニアは悠久の時を生きながら、自らの子と呼ぶ妖精、魔獣を守りながらともに生きてきた。

 そしてこの世界の中心が人族の手に渡ってからも、変わらず彼らを見守り続けている。


 ティターニアは、人間の前に姿を現すことは殆どない。

 たとえどんなに望んだとしても、彼女がその価値を認めない限り決して人間の前に現れることはなかった。

 記録に残っている限りでは、今から約三百年前に、当時最強と謳われた魔女シャンタルの前にその姿を見せたのが最後だったのだ。

 

 

 その女王が、自ら望んで人族に会いに来た。

 それはきっと、己の願いを――彼女はめいと言っていたが――をリタに申し付けるために違いなかった。


 全てを知る彼女のことだから、きっとリタがあそこを通りかかるのがわかっていたのだろう。

 そのためにたまたまあの場所で死にかけていたブリジットを助けたのだ。



 その説明を聞いたロレンツォは、驚愕の眼差しでブリジットを見つめる。

 そして小さな声で囁いた。


「……ということは、君はリタ様の正体を――?」


「はい、聞きました。ティターニア様からも、リタ様本人からも」


「そ、そうか……」


 ブリジットの答えに咄嗟に言葉が浮かばなかったようだ。

 ロレンツォは暫く何かを考えているようだったが、やがて諦めたように頭を振った。


「とにかく女王ティターニアが顕現するなんて凄いことだ。それも彼女自ら進んで会いに来るだなんて、今まで聞いたこともないよ」


「えぇ、本当に。こんな奇跡のような出来事なんて、今でも信じられません。 ……でも、その対価としてリタ様は――」


「この戦争を終わらせろと言われたんだろう? しかもそれは頼みと言うよりも命令に近いものだったとか」


「はい。リタ様は彼女から直々に命じられたのです。この戦争をやめさせろと。そしてあなたにならできるはずだとも言われました」


「……そうか。それはそれだけリタ様の能力を買っているということなんだろうな。しかし、こんな数万人もの人間が殺し合う国と国との衝突に、最早もはや一人の個人ができることなんて限られると思うけれど ――いったいリタ様は、どうするつもりなんだろう……」


 そこまで言うとロレンツォは何処か遠くを見つめた。

 そんな若き魔術師に向かってブリジットが再び声をかけたが、その薄茶色の瞳はロレンツォの左腕を凝視していた。

 


「それはそうと……その腕は……」


「あぁ、これ……まぁ、名誉の負傷ということで」


 ブリジットの視線に気が付いたロレンツォは、前よりも短くなった左腕を軽く振る。

 そして、軽い口調で事も無げに言い放つ。

 その顔にはいつも通りの優し気な微笑が浮かんでいたが、彼が相当無理をしているのがブリジットには伝わっていた。


「わ、私の知り合いに有名な治癒師がいて――」


 そんなロレンツォに、ブリジットは気遣うような言葉をかける。

 しかしその言葉を最後まで言わせずに、彼は小さくかぶりを振った。


「ありがとう。でも、もう手遅れなのは自分でもわかっているよ。どんなに優れた治癒師でも、これはもう無理だろう。傷口は自分で塞いでしまったし、千切れた腕は行方不明だしね」 


「そうですか……」


「まぁ、不幸中の幸いという訳でもないのだろうけど、これが利き腕じゃなくて良かったよ。また一から文字の練習をするだなんて、それこそゾッとするからね。それに魔法なら片腕でも問題なく行使できるし、きっと大丈夫だよ」


「……はい。確かに怪我は残念でしたが、とにかく命に別条がなくて良かったです。あなたにもしものことがあったらと思うと、私は……私は……」



 ブリジットはそれまでもずっと瞳に涙を溜めていた。

 それがここに来て突然溢れ始めると、胸の大きさの割に華奢な肩を震わせてしゃくり上げ始める。

 そして遂に、顔を覆って泣き始めてしまった。


 その様子にロレンツォは慌て始める。

 どうしたらいいのかわからずに、まるで途方に暮れたような顔でわたわたと手を振った。

 その顔には直前の戦闘で見せていた凛とした佇まいは全く見られなかった。



 そんなブリジットを何とか泣き止ませようとしていると、突然彼女はロレンツォの胸に身体を預けてきた。

 そしてその温かな身体を押し付けるようにして、さらに大きく泣き始めてしまう。


 ここに来てロレンツォの顔には、まさに絶望の表情が浮かんでいた。

 どうしてこれほどまでブリジットが泣きじゃくるのか、彼には全く理解できなかったのだ。


 出会ってから数日しか経っていなかったとは言え、確かに彼女とは一緒に戦う仲間としての友情を感じるようになってはいた。

 しかし無事に再会したからと言って、ここまで感情的に泣きじゃくるものなのだろうか。

 もしかするとその辺の感情は、男と女とでは違うのだろうか。


 などと考えていると、気付くとさらに絶望的な状況になっていた。

 それは何故なら、じっとりとした瞳でこの状況をリタに見つめられていたからだ。



 男の胸に飛び込んで泣きじゃくる巨乳の女。

 彼女の肩に手を廻し、優しく宥め続ける童貞の男。


 いや、正確に言うと彼はブリジットの肩に手を廻してもいなければ、優しく宥めてもいなかったが、いささひねくれて歪んだリタの灰色の瞳にはそう映っていたのだ。


 そしてあまつさえ「これをジョゼットが知ったら、何と言うだろう――まさに修羅場だな。面白そうだ、言いつけてやろう」などと思っていた。


 その咎めるでもなく、止めるでもないレンテリアの灰色の瞳に見つめられたロレンツォは、何か背中を冷たいものが走り抜ける感覚に襲われるのだった。




 暫くして落ち着きを取り戻すと、ブリジットは顔を真っ赤に染めてロレンツォの胸から離れた。

 そして慌てて「ごめんさい」と言い残すと、まるで逃げるようにその場から去って行く。

 そんな彼女の背中を茫然と見つめていたロレンツォだったが、横からリタに声をかけられた。


「……のう、ロレンツォよ。おまぁ、将来を誓った女がいると、今のうちに彼奴あやちゅに伝えた方がいいのではないか? このままだと、確実に修羅場になるじょ。 ――というか、わちが敢えてそう仕向けてやるがの、うひひっ」


「えっ? なんでそんなことを伝えなければ――? それに修羅場ってなんですか? リタ様、仰る意味が良くわかりませんが……」


 ちっとも意味がわからないと言わんばかりに、ポカンとした表情を返すロレンツォ。

 その顔を見る限り、本気でリタの言葉が理解できていないようだった。


 そんな弟子の姿に大きなため息を吐くと、『そんなんだから、その歳でお前は女性経験のひとつもないのだ。この童貞めっ』などとリタは思わず心の中で呟いてしまう。


 しかし当のリタ本人も、前世では二百年以上に渡って独身を貫いていたのだ。

 もしもそれをケビンにでも聞かれたら、「どの口がそれを言うのか」などと言われていただろう。




「それはそうと、ロレンツォよ。つかぬことを訊くが、おまぁは犬派か? それともぬこ派か?」


「はぁ?」


 直前までポカンとしていたロレンツォの顔が、さらに不思議そうな顔になる。

 何故いまここで、そんなことを訊くのか。

 彼の顔にはそう書いてあった。


 しかしそんな弟子に向かって、リタは大まじめな顔をする。


「何をアホみたいな顔しくさってからに。シャキッとせぇよ――それで、犬とぬこのどちらが好きかと訊いちょろうが。早う答えんね」


「は、はぁ…… そうですね、どちらかと言えば犬の方が好きですね。両親と一緒に暮らしていた時に犬を飼っていましたので。ちなみに名前はササキでした」


「ササキ……変な名じゃのぉ……まぁええわ。ふむぅ、そうか。おまぁは犬が好きか。じゃがの、わちはぬこ派なんじゃ。残念じゃったな」


「……」



 人にどっちが好きかと聞いておきながら、その答えに「残念」はないだろう。

 思わずそう思ったロレンツォは、少々憮然とした顔をしてしまう。


 そんな弟子の顔を見ながら、何か悪いことを企む顔のリタ。

 その顔は悪戯を思いついた時の幼女そのもので、彼女がロクなことを考えていないのはロレンツォには一目でわかった。


 そして次の瞬間、彼の脳裏にひとつの閃きが過る。


「も、もしかして、リタ様……その猫とは……まさか……」



「ふふん、さすがはわちの弟子じゃ、ようわかったのう。 ――せっかく呼び出したのに、前回はすぐに帰らせてしまったからの。今回は思う存分暴れてもらおう思っちょるん」


「ゴクリ……」


「さて、蹂躙じゅうりんの時間じゃ!! 腹ぺこぬこさんの出番じゃな!!」


 「ふんぬっ」とばかりに胸を張るリタ。

 ピンクの魔女っ子ステッキを弄びながら、その愛らしい顔に趣味の悪い不敵な笑みを浮かべたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る