第120話 薄っぺらい正義感

「アニエス様、お願いがございます。実はそのお手紙がここにあるのです。それをあなた様にお譲りしたいのですが……」


 その言葉に誘われたアニエスがジャクリーヌの後をついて行くと、小さな書斎の中で紙の束と手帳を渡された。


 それは上級貴族か王族でなければ使えないような、一見してわかるほどにキメの細かい薄手の紙の束だった。

 普段から仕事で執筆することの多いアニエスであっても、終ぞ使ったことがないほどそれは高級なものだ。

 

 そしてそれは、もしもこれだけの量を買うとしたら一体幾らかかるだろうかと、などと根が貧乏性のアニエスが思わず考えてしまうほどの量だった。



「ジャクリーヌよ……これがそうなのか? ローザリンデの書斎から出てきたという……」


 手紙の束にざっと目を通したアニエスの声が、何気に震えている。

 試しとばかりに一番上の紙を斜め読みをした彼女は、そのあまりの内容に言葉が上手く出てこなかったようだ。

 そして次第に緊張の色が見えてくると、心配そうにジャクリーヌが口を開いた。


「はい……この内容をどう思われますか? 私はこれを決して表に出すべきではないと思うのです。――だからと言って、私一人の胸にしまっておくには荷が重すぎます」


「た、確かに、これはな……」


「ですから、どうかアニエス様、これをあなた様にお預けしたいのです。ご迷惑なのは重々承知しておりますが、何卒この秘密を分かち合っていただければと……」


「う……うむ、よかろう。これはわしが預かっておくことにしようか。ときにジャクリーヌや、これを知っておるのは――」


「今のところ私とアニエス様の二人だけです。――最早もはや私の手には負えませんので、これをどうするかはあなた様にお任せいたします。 ……卑怯なようですが、私はもう忘れてしまいたいのです。もしもアニエス様がご迷惑だと仰るのならば、この場で燃やしてしまってもかまいません」



 必死なジャクリーヌの視線を浴びながら、顎をさすってアニエスは考える。

 そして一瞬の逡巡の後、彼女ははっきりと答えた。


「いや、これはわしが預かろう。――ジャクリーヌよ、お主の言う通りこの件はすっかり忘れてしまうのじゃ。この手紙の束も、この手帳も初めから存在しておらんかった。ええな?」


「はい。承知いたしました。――以後私はこの件に関しては一切何も申しません。私は何も知らないし、何も見ていない。それでよろしいですね?」


「うむ、それでよい。もしも今後この件が明るみに出たとしても、わしもお主の名は一切出さぬことを誓おう」



 この手紙を見つけて以降、ずっと彼女は悩んでいたのだろう。

 まるで安心させるかのようなアニエスの物言いに、目に見えてジャクリーヌは安堵していた。

 そしてアニエスがジャクリーヌの顔に再び笑顔が戻ったのを見ると、そこに突然大きな声が聞こえてきた。


「もう!! ばぁばも、母上も、どこに行っちゃったの!? ねぇってばー!!」



 その叫び声に幼いエルミニアとの約束を思い出したアニエスは、慌てて庭に走って行く。

 するとそこには頬を膨らませて拗ねている第二王女の姿があった。


「ばぁばったら、だめじゃない!! 約束やくしょくどおり小枝をいっぱい集めておいたのに、ずっと来ないんだから!! どこ行ってたの!?」


「おぉ、おぉ、エルミニアや、すまんすまん。――さぁて、それじゃあ、お前のお気に入りの魔法を見せてあげようかのぉ」


「わぁい!! ……それじゃあ、今回だけは特別とくべちゅに許してあげる!! そのかわり、いっぱい遊んでくれないといやよ!!」


「わかった、わかった。たくさん遊んでやるから、機嫌をなおせ。のぉ、エルミニアよ」


「うん!!」


 それからアニエスは夕方になるまでエルミニアの相手をしていたが、その実、ずっと心ここに有らずといった様子だった。

 無邪気に笑う三歳児の姿に微笑みを向けながら、その目だけは決して笑っていなかったのだ。




 ――――




『ブルゴー王国に嫁いで一ヵ月が経ちました。そして月のものが来なくなってからも一ヵ月です。もしかすると私は、本当に兄さまのお子を宿らせたかもしれません』


『それは素晴らしい。本当にお前の望みが叶ったではないか。そして俺の望みもだ。もしも子供が生まれたら、きっと俺たちと同じ髪と瞳の色に違いない。アレハンドロ殿に何か言われたら、母親似なのだと言うのだぞ』



『最近はお腹の中から蹴るようになりました。兄さまに似て、元気なお子になるでしょう』


『俺に似れば武術に長け、お前に似たら美しい娘に育つだろうな。姿を見ることは叶わぬが、遠くから我が子の成長を楽しみにしている』



『結婚して九ヶ月、子を宿って十ヶ月になりました。近いうちに生まれそうですが、今から不安で仕方がありません』


『俺は近くにいてあげられないが、遠くからお前と俺の子の無事を祈っていよう』




「うーむ……これは……」


 深夜、王城の一角に設けられたアニエスの私室から小さな呟きが聞こえる。

 そこではアニエスが、昼間に預かって来た手紙の束を丁寧に広げて一枚ずつ読んでいるところだ。

 

 几帳面なローザリンデの性格を表すように、その手紙は日付ごとにきちんと並べられ、外側の封筒も全て保管されていた。

 手帳には兄に宛てて出した手紙の内容が全て書き写してあり、それらを交互に読んでいくと、まるで二人が会話をしているように見えたのだ。



 その内容はまさに驚きだった。

 手紙からは、当時のカルデイア大公国の第一王子と第一王女の兄妹が互いに愛し合っていたことがわかる。


 どうやら彼らは、ローザリンデが嫁ぐ直前に身体の関係を持ったらしい。

 そして兄は妹に己の子種を注ぎ込んだのだ。


 愛する兄と離れることが決まった妹は、せめて兄の面影を追いたいからと彼の子供を授かることを望んだ。

 そして兄はその望みを叶えた。 


 もしもこれが本当であれば、そんな女を娶らされたアレハンドロは好い面の皮だろう。


 彼は正妃を心の底から愛していた。

 確かに始まりは親が決めた政略結婚だったが、彼はローザリンデに一目会った瞬間からその虜になっていたのだ。


 白く美しく整った顔立ちに透き通るような薄茶色の髪、そしてスラリと背の高い容姿と気立てが良く知的なローザリンデは、顔合わせをした瞬間からアレハンドロの心を掴んだ。

 そして実際に夫婦になってからも、ローザリンデはアレハンドロを立て、気遣い、優しく包み込んだのだ。


 そんな彼女に、アレハンドロはどんどんのめり込んでいき、ローザリンデもその想いに応えた。

 心の底から愛し合う彼らは、まさに鴛鴦おしどり夫婦として国民からも、諸外国からも有名だったのだ。



 それがこの手紙によれば、全てが偽りだったことがわかる。


 アレハンドロに抱かれている間も、彼女は背中越しに兄の姿を見ていたのだろう。

 妻を最後まで愛し抜いたアレハンドロには、それはあまりにも酷な現実だった。

 そしてそれを偶然知ってしまったジャクリーヌは、その真実に一人胸を痛めていたのだ。


 最愛の兄からの手紙は、ローザリンデにとってまさに「宝物」だったのだろう。

 綺麗な箱の中に丁寧に収められたそれは、アニエスの目からもまさに「宝物」に見えたのだ。


 心の底から夫に愛されておきながら、その裏で実の兄を愛し、その子供を産んだ。

 そして何も知らずに自分を愛し続ける夫に、その子供を育てさせる。

 

 夫に愛している振りをしながら、その向こうに兄の姿を見続けていた。

 それが優しく嫋やかで、夫を包み込む美しい正妃の正体だったのだ。

 



「歪んでおる……あまりにも歪んでおる……」


 一通り手紙を読み終わったアニエスは、その衝撃の内容に思わず脱力してしまう。

 思い切り仰け反った彼女は椅子の上で四肢を投げ出し、暗い天井を見上げながら小さな声で独り言を呟く。


「よもやこんなこと、アレハンドロに言えるわけがなかろう。それにセブリアンには何の罪もないしのぉ…… 母親の罪を償わせるのは、余りにも酷じゃろうて」


 この手紙の内容が本当であれば――両者の直筆のサインがある時点で本物に間違いないのだが――アレハンドロの血を引かない第一王子セブリアンには王位継承権はない。

 しかし彼は生まれて以来ずっと次期国王として育てられていたし、周りもそう思ってきた。

 それよりも、もとよりこの件に関しては彼に全く罪はないのだ。



 もしもこれを公表してしまえば、国家を二分するお家騒動勃発は間違いないだろう。

 それでなくても第二王子のイサンドロは兄を蹴落とそうと虎視眈々と狙っているのに、誰が好き好んでそんなところに燃料を投下しようと思うのか。


 そして北のアストゥリア帝国と南の魔国と小競り合いを続けているこの状況で、さらに西のカルデイア大公国にまで喧嘩を売っている余裕など全くないのだ。



 そして、国王アレハンドロだ。

 この五年間ずっと苦しんで来た彼は、やっとジャクリーヌという安らぎを見つけた。

 今ここで過去をほじくり返して一体どうするのか。


 彼の思い出の中でのローザリンデは、完璧な女性のままになっている。

 それをいまさら


『実は正妃はこんな酷い悪女でした。あなたは愛されてなんかいなかったし、セブリアンも他人の子です。托卵おつ


 などと言えるわけもなかった。



 すでに本人亡き今、それを明るみに出したところで損をする者は多けれど、得をする者は少ない。

 そしてなにより、国家の安全を脅かす恐れさえあるのだ。


 一体誰が好き好んで、そんな火中の栗を拾うような真似をするのか。

 確かに何が正義かと問われれば困ってしまうが、薄っぺらい正義感を翳したところで誰も得はしないのだ。

 そしてそれ以上に人を傷つけ、国を乱し、他国に隙を与える。


 そこまで考えが及んだアニエスは、この件については一切公表しないと心に誓ったのだった。

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