第119話 魔女への頼み事
ブルゴー王国国王アレハンドロ・フル・ブルゴーの次女にして勇者ケビンの妻でもあるエルミニアは、母――ジャクリーヌ・トレイユとは幼い時に死別している。
それは今から15年前、エルミニアが3歳になったばかりで、ジャクリーヌが31歳の時だ。
ジャクリーヌはブルゴー王国トレイユ伯爵家の三女に生まれた。
残念ながら彼女は「魔力持ち」ではなかったのと、王族派貴族の三女という立場から、13歳になると同時にメイドとして王城で働き始めた。
王城内や王室関係者の近くに勤めるメイドは、基本的にブルゴー王国の有力貴族――特に親王族派貴族の子女であることが多く、彼女もまたその例に漏れなかったからだ。
人目を引く美しい容姿と人当たりの良い性格、そして真面目で丁寧な仕事をするジャクリーヌは、働き始めた直後から若いメイドたちの中でも抜きん出ていた。
すると彼女が17歳の時に、第一王子アレハンドロの妻として異国からやって来たローザリンデの専属メイドとして抜擢されたのだった。
当時18歳のローザリンデとは一歳しか違わなかったこともあり、この二人はすぐに打ち解けて、まるで本当の姉妹のように仲が良かった。
特に異国から来たばかりで周りに味方のいなかったローザリンデにとって、年の近い専属メイドの存在はとても心強かったようだ。
そのためにすぐに心を許した彼女は、ジャクリーヌに対して次第に己の心情を赤裸々に語るようになったのは自然なことだったのだろう。
そして優しく真面目で感受性の強いジャクリーヌは、立場こそメイドではあったが、気付けば第一王子妃の一番の親友と言っても過言ではなくなっていた。
しかしそんな関係も長くは続かなかった。
まるで姉のように慕っていたローザリンデは、嫁いでからわずか五年で急逝してしまったからだ。
それは次男イサンドロを出産した時だった。
運悪く赤ん坊が逆子だったために、その出産には丸二日かかった。
医師団の必死の処置もあり何とか無事に赤子は生まれたものの、その際の出血が多すぎたローザリンデは意識を失い、生まれたばかりの次男をその胸に抱くこともなく息を引き取ったのだ。
次男の誕生に喜ぶアレハンドロだったが、直後の妻の訃報に絶叫を上げた。
まるで狂ったように暴れ、悲鳴を上げ続けるその姿は、彼が生まれてからの29年間を知っている魔女アニエスにして、魔法で眠らさざるを得ないほどの狂乱ぶりだった。
その後、目を覚ましたアレハンドロの眼前には、すでに物言わぬ最愛の妻が横たわっているだけだった。
その妻の亡骸の前で、彼はいつまでも泣き続けた。
国を挙げて祝った第一王子の結婚式から僅か五年、誰がその葬儀を行うことになると予想していただろうか。
第二王子の誕生の喜びを上塗りしてしまうほどの訃報に国中が沈み込む中、ローザリンデの葬儀はしめやかに行われたのだった。
近く即位を控えていたこともあり、アレハンドロにはその後も後妻を娶る話は幾つかあった。
しかしローザリンデを忘れられないからと彼はその話を全て断り、結局独身のままブルゴーの王位を譲り受けた。
もっとも彼にはその時すでに長男セブリアン、長女スタニスラヴァ、そして次男イサンドロもいたので、その王位の継承には全く問題はなかったのだが。
それでも未だ29歳の若き国王が亡き妻の思い出に浸り続ける姿はあまりに居た堪れなかったし、その後妻に自分の娘を充てがおうと狙う貴族たちの暗躍も留まるところはなかった。
そんな中、その若き国王との距離を急激に縮めた者がいた。
それは誰あろう、亡き王妃の専属メイドだったジャクリーヌだ。
亡き正妃との思い出を追い続けて悲しみに沈む若き王と、彼女の専属メイドだった若き女性――ジャクリーヌ・トレイユ。
その二人が近づいていく様には、ジャクリーヌの計算とトレイユ家の思惑が透けて見えると非難する者もいた。
しかし実際には全くそんなことはなかった。
この二人に共通する話題は、亡きローザリンデだった。
ローザリンデの死に心を痛めていたのはアレハンドロだけではなく、それはジャクリーヌも同じだったのだ。
亡き正妃の思い出を語り合い、慰め合う二人の距離が急激に近づいていくのは全く自然なことだった。
そして翌年、ジャクリーヌはエルミニアを出産した。
国王の子を産み、それを国王自身も認知したとは言え、しがない伯爵家の三女でしかない彼女にはその後も王城に住むことは許されなかった。
彼女は国王の側妃の地位を手に入れる代わりに、母子ともに離宮に隔離される生活を余儀なくされることとなったのだ。
そこには多分なやっかみもあったのだろう。
国王の後妻の席を狙っていた幾多の貴族家の批判を浴びたトレイユ家は、貴族社会の中で
そしてジャクリーヌ、エルミニア母子も他の王族たちから距離を置かれ、彼女たちの住む離宮を訪れるのは限られた者だけだったのだ。
「ジャクリーヌよ、元気か? 暫く来れなんだで、ほんにすまんかったのぉ」
「あぁ、アニエス様。お久しぶりでございます。あなた様もお元気そうでなによりです」
「こんにちは、ばぁば。今日は一緒に
ハサール王城の裏手の森の中。
その一角に王族専用の離宮が建てられている。
もともとそこは代々の国王の側妃たちの居宅となっていたが、今は一組の母子が住んでいるだけだった。
いまはその住人――ジャクリーヌとその娘のエルミニアが来客を出迎えているところで、会話からもわかる通りその相手とは「ブルゴーの英知」――アニエス・シュタウヘンベルクだ。
来年には齢200歳を迎える彼女だが、見た目は八十歳前後にしか見えない。
この時代の男女の平均寿命が五十歳前後であることを考えると、この老婆は考えられないほどの長生きと言えるのだが、噂では何か魔法的な力で己の寿命を延ばすのに成功したと言われている。
しかしその詳細について、彼女は固く口を閉ざしたままだ。
もしもその方法を人に教えるならば、その教えを乞おうと多くの人間が詰め掛けることは想像に難くない。
そしてそれが想像できるがゆえに、アニエスは決してそれを人に教えようとはしなかったのだ。
そんな老女魔術師――魔女が、最近市井で流行の菓子を土産に持ち、一人で離宮を訪ねていた。
「ばぁば、ねぇねぇ、一緒に
幼いエルミニアがアニエスのざっくりとしたローブの裾を引っ張ると、母親譲りの銀色の頭を魔女がわしゃわしゃとかき混ぜる。
まるで愛しい孫娘を見るような顔で、彼女は三歳になったばかりのアレハンドロの二女を見つめていた。
「ええよ、エル。いっぱい遊んでやるからの。しかしな、その前に母上と大切な話があるんじゃよ。すまんが、ちぃーっと待っていてくれるか?」
「うん、いいよ。待ってる。ばぁばと母上のお話が終わるまで、わたし待ってるね」
「おぉ、おぉ、ええ子じゃなぁ、お前は。――それじゃ、後で行くから、先に用意しておいてくれるか? また小枝をいっぱい集めておいてくれ」
「うん!! わかった!! それじゃ、あっちで拾ってるから、お話が終わったらすぐ来てね!!」
「うむ。すぐに行くから、先に待ってておくれ」
言葉と共にドレスを翻して走っていく三歳児の後姿を眺めながら、大陸最強と謳われる老女魔術師アニエスは、その
「最近はどうじゃ? アレハンドロは様子を見に来ておるのか?」
「はい。どんなに忙しくても、二日に一度はここへ顔を出して下さいます。もっとも最近ではあの子に会うのが目的みたいですけれど。ふふふ……」
表情を改めたアニエスが
顔には人柄を表すような柔らかい微笑が浮かんでいたが、その中に微妙な憂いも透けて見えた。
それは親しい者でも注意していなければ見逃してしまうほどの、本当に些細なものだった。
しかし稀代の魔女と謳われるアニエスには、完全にそれを見抜いていたのだ。
「どうした? 何か心配事でも――とは言え、今のお主は心配事だらけじゃったな。まぁよい。どんな小さなことでもええから、何かあるなら申してみよ」
「いいえ。何も心配事など……」
そう言うと、ジャクリーヌは顔を伏せてしまう。
その仕草は、表情の変化から心を読まれるのを恐れているように見えた。
しかしそれ自体が余計にアニエスが気を回す原因になっているとは気づいていないようだった。
そんなジャクリーヌを見つめながら、アニエスは尚も言葉を続ける。
「ふむ……どうじゃ? 最近ではだいぶ少なくなったとは思うが、今でも王族関係者から嫌がらせを受けておるのじゃろう。もう一度ヤキを入れてやるから、その者の名を教えよ」
鼻息を荒くするアニエスと、無言のまま小さな笑みを浮かべるジャクリーヌ。
彼女のその表情自体が、アニエスの言の正しさを表していた。
しかし彼女はそれ以上何も言おうとはせずに、その微笑みをずっと絶やすことはなかった。
そんな側妃に小さく鼻息を吐くと、アニエスは話を続けた。
「では、実家の方はどうなのじゃ? アレハンドロが粛清したおかげで、今では正面切って嫌がらせをしてくる家もないとは思うが…… 気になることがあれば、何でも言うのだぞ?」
「いいえ。陛下に目を光らせていただいたおかげで、実家――トレイユ家の問題は無事に片付きました。今では以前と同じように周辺貴族ともお付き合いをさせていただいております」
「そうか。それはよかったの。 ……まぁ、此度の件は、多分に奴らの嫉妬が原因であろうからな。仕方ない部分もあったのかもしれぬ」
「はい。お気遣いありがとうございます」
相変わらずの微笑みを浮かべているが、やはりアニエスの目は誤魔化せなかった。
まるで何事もないかのように平然と振舞うジャクリーヌの顔を真正面から見つめると、遂にアニエスは切り込んだ。
「それで――何をそんなに思い悩んでおる? その顔を見るに、お主の抱える悩みは相当なものであろう? ――ここはわしとお主二人しかおらん。気にせず言ってみるがええ。誰にも漏らさぬと約束しよう」
「えっ……な、なにも……」
「嘘じゃな。その顔は悩みを抱えておる顔じゃ。ええか、わしの目は節穴ではない。この魔女の目を欺けるなどと思わぬことじゃ」
「……」
まるで射貫くようなアニエスの視線に、狼狽えるジャクリーヌ。
その様子を見る限り、やはり彼女は何かしらの悩みを抱えているのは間違いなかった。
しかしそれを彼女は誰にも言わずに自分の中にしまっておこうとしているらしい。
そんな彼女に、尚もアニエスは言い募る。
「お主も痛いほどわかっておるじゃろうが、今の王族は三つの派閥――セブリアン第一王子派、イサンドロ第二王子派、そしてお主も含めた現国王派に分かれておる。そしてご存じのように、わしの立場は中立じゃ。誰の味方もしない代わりに、誰の敵にもなるつもりはない」
「はい。存じ上げております……」
「それで、じゃ。お主が今抱えておる問題は、その中でも中立であるわし以外には話せないものなのではないのか?」
まるで年頃の娘に秘密を告白させるように、優しく、そして柔らかくアニエスは言葉を紡ぐ。
その顔には相手を安心させるような微笑みを浮かべ、決して彼女が口先だけでものを言っているのではないことが伺える。
ジャクリーヌはアニエスのことを信頼していた。
そして彼女が誰の影響も受けず、軍門にも下らず、その中立な立場を守り続けていることも十分理解している。
この国にいる誰よりも長く生き続け、四代前の王室からずっとこの国を守り続けて来た彼女は、どの王族に対しても忌憚なく意見を言う。
たとえそれが国王の機嫌を損ねることになろうとも、魔女アニエスは正しいことは正しい、間違いは間違いだとはっきり言い切ることができるのだ。
そんな彼女に怒った王族が、過去には拘束や追放をしようとしたこともあったが、アニエスは実力を以て
彼女がその気になれば、首都の半分を一瞬にして吹き飛ばし、王族全員を皆殺しにできる力も持つと聞くに至れば、誰も文句を言う者はいなくなっていたのだった。
もちろんその力を笠に着て、好き勝手にするのであれば話は別だろう。
しかし節度を
そんな魔女アニエスが、自分に悩みを打ち明けろと言う。
その真剣な姿を見たジャクリーヌは、遂におずおずと口を開き始める。
「実は……亡きローザリンデ様のことで…… 先日陛下の命でお妃様のお部屋を整理したのですが……」
「なんじゃ? 何かあったのか?」
「はい。お妃様との思い出があるからと、陛下の命でこれまで手を付けてこなかったのですが……書斎の中からお手紙の束が出てきたのです。そして手記も」
「手紙? 手記? ――して、何が書いてあった? その手紙は誰からのものじゃった?」
その話の内容に、思わず声が小さくなるアニエスとジャクリーヌ。
特にその手紙の内容を知っているらしきジャクリーヌは、事の他声を小さくしている。
あまりに小さなその声は、
それほど小さな声であれば誰にも聞こえないはずなのに、まるで彼女は警戒するかのように周りを見回している。
そんなジャクリーヌの姿に、緊張したアニエスは喉を鳴らしてしまう。
「はい。そのお手紙は、カルデイア大公オイゲン・ライゼンハイマー様からのものでした。――そしてその手記には、お妃様から出されたお手紙の内容が書き写されていたのです」
「……まぁ、その二人は実の兄妹じゃしな。二人が手紙をやり取りしておっても、べつにおかしくはないのぉ」
「確かにそうなのですが……その内容があまりに……」
「その内容とは? 人に言えぬようなことなのか?」
「はい。――アニエス様、お願いがございます。実はそのお手紙がここにあるのです。それをあなた様にお譲りしたいのですが……」
凡そ見ることのないような必死な顔で言い募るジャクリーヌ。
そんな彼女の前で、再び喉を鳴らしてしまう魔女アニエスだった。
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