第121話 漆黒の腕

 アニエスが手紙を受け取った数日後から、ジャクリーヌは徐々に体調を崩し始めた。

 初めは眩暈や吐き気に時々襲われる程度だったが、日が経つにつれて次第にそれも酷くなり、二十日も経った頃には立って歩くことさえできなくなった。


 伯爵家の三女という出自のために、国王の側妃でありながらも他の王族から疎まれていた彼女は、離宮から出ることはあまりなかった。

 他の王族との軋轢を避けたジャクリーヌは、まるで人目を避けるように娘とそこで静かに暮らす道を選んだのだ。


 しかし病が進行して寝たきりになった彼女は、今さら外に出ようと思ってもそれすら叶わなくなっていた。

 もちろんアレハンドロは彼女の病を治そうと宮廷医師を付きっ切りにしていたし、高名な祈祷師に祈らせたりもしたのだが、彼女の病は全く良くなる気配を見せなかった。


 一向に原因を突き止められない宮廷医師の顔には、次第に焦りの色が濃くなっていく。

 そんな医師に感情的に当たり散らす姿には、アレハンドロが名君と言われる所以は微塵も見られず、そこにはただ焦り、イラつく一人の男がいるだけだった。


 その後のジャクリーヌは次第に食事もまともに喉を通らなくなっていき、発病から約二ヶ月で遂に帰らぬ人となったのだった。




 これにはさすがの国王も参ってしまった。

 九年前に正妃に先立たれた彼は、その五年後にジャクリーヌに救われた。

 そして愛する末娘を授かってから三年、やっと過去との決別ができそうになった矢先に、その彼女も旅立ってしまったのだ。


 しかし残されたアレハンドロは、葬儀で泣くことはできなかった。

 何故なら彼の隣には、三歳になったばかりの末娘、エルミニアがいたからだ。


 厳かな葬儀の席で黒い喪服に身を包んだ三歳の幼女は、その愛らしい口を真一文字に結んで涙を堪えていた。

 王女たる者が人前で涙を見せてはいけないと、いつも母親に言われていたエルミニアは、ともすれば泣き崩れそうになるのを懸命に耐えていたのだ。

 

 細い肩をプルプルと震わせながら、必死に涙を堪える娘を見たアレハンドロは、その小さな身体を思わず抱きしめていた。

 そして己の悲痛な顔を隠しながら、耳元で小さく言葉をかけたのだ。



「エルミニアよ……我慢せずともよい、今は泣いてもいいのだぞ。お前の母親が死んだのだ。今日くらいは思い切り泣いてもかまわぬ……のぉ、エルミニアよ……」


「父上……母上はどうして死んじゃったのでしゅか? ……何か悪いことをしたのでしょうか?」


「……いや、お前の母上は何も悪くない。運悪く病に負けてしまった、ただそれだけなのだ。――ジャクリーヌはとても強く、優しく、大きな女性だった。母上は父上を助けてくれた恩人なのだよ。本当に素晴らしい女性だったんだ、お前の母上はな」


 耳元で静かに囁きかける父親の顔を覗き込むと、エルミニアはその透き通るような青い瞳に涙を浮かべ始める。

 こうして近くで見ていると、その瞳はジャクリーヌにそっくりなことに改めて気付かされるアレハンドロだった。



 そんな父親を見つめ返しながら、エルミニアはその小さな唇を震わせた。


「父上……母上は……母上は……ど、どうちて……死んでしまったのでしょう? どうちて……どうちて……」


「エルミニア……」


「母上に会いたいのです……もう一度母上に……ぐしゅっ、ぐしゅ……うえぇぇ、うわぁーん……母上ぇー あぁぁーん」


 声をかけられ、父王に優しく抱きしめられたエルミニアは、抑え続けた感情を遂に爆発させると力の限り泣き出した。

 白い頬に大粒の涙をぽろぽろと零す末娘を、アレハンドロは悲痛な顔のまま抱きしめ続けたのだった。

 



 一部の王侯貴族たちは生前のジャクリーヌを疎ましく思っていた。

 しかしそんな彼らも哀れな三歳児の涙には抗う術がないらしく、母親の亡骸に縋りついて泣き叫ぶ幼女の姿に思わず涙を貰いそうになる。


 身分が低いだとか、傷心の国王に取り入ったとか、全てが計算ずくだとか、そんな根も葉もない誹謗中傷にずっと晒されてきたが、ジャクリーヌは一切言い返すことなく粛々と己の運命を受け入れた。


 人目に付かないように離宮からも極力出ず、声も上げず、ただひたすら娘の成長だけを楽しみに生きてきた。

 そして誰にも迷惑をかけずに大人しく暮らしていただけなのに、病に負けて31歳の若さで急逝してしまったのだ。


 己の命よりも大切だったエルミニア。

 最愛の娘を残して旅立っていったジャクリーヌの想いを想像すると、その無念さは如何ばかりか。

 

 そんな参列者の想いを表すように、ブルゴー王国国王側妃ジャクリーヌ・トレイユの葬儀は、しめやかに営まれたのだった。





 ジャクリーヌの葬儀から一ヵ月。

 遂にアニエスは決定的な証拠を見つけた。

 それはジャクリーヌが死んだ原因が病などではなく、毒殺されたのだというものだった。


 側妃の死因に疑問を持ち続けたアニエスは、ジャクリーヌの血液をずっと調べ続けた。

 そして医師、薬学者、薬剤師、植物学者など考えつく限りの専門家に会いに行き、話を聞き、一ヶ月かけて遂にその毒物を特定したのだ。


 それは「オオハギ草」の根から抽出される毒物だった。

 一度摂取すると長期間体内に残留し、その後ゆっくりと人を死に至らしめる。

 そんな遅効性で有名な毒物だったのだ。


 しかし一体誰が何の目的で国王の側妃を暗殺するのか。

 しかも病に見せかけて毒殺するなど、随分と気の長い方法で、だ。



 などと言いつつも、実はアニエスには犯人の目星はついていた。

 しかし死因がわかったとは言え、それと犯人とを結びつける証拠は何もなかったのだ。


 セブリアン第一王子の出生の秘密に触れた直後に、ジャクリーヌは殺された。

 確かにこのタイミングで彼女の命を狙うなど、それは彼以外には考えられないだろう。

 しかし物証もなければ、状況証拠すら示せない。

 セブリアンが黒幕だというのはあくまでもアニエスの個人的な想像でしかなかったし、まさかそれだけで一国の第一王子を追及などできるわけもなかった。


 だから彼女は待った。

 ジャクリーヌの行動が筒抜けになっていたのであれば、彼女が誰にその秘密を話したのかは相手にもわかっているはずだ。

 だから必ず向こうから接触を図ってくる。


 そう思ったアニエスは、何も知らぬふりをしながら、ひたすら事が起こるのを待ち続けたのだった。





 アニエスは街に自分の屋敷を持っている。

 そこは王城から歩いても15分程度の距離だったが、いつも忙しい彼女はその移動時間すら惜しみ、王城の一角に与えられる小さな私室に寝泊まりすることが多かった。


 もちろん着替えや食事はメイドに運ばせていたので何不自由なく生活しており、その様子を見るかぎり、最早もはや彼女には自宅など必要ないのではないかと思えるものだった。

 しかし、さすがに一国の宮廷魔術師が狭い部屋一つに住んでいるのは些か体裁が悪いということで、その屋敷を押し付けられていたのだ。


 たまには帰ってきてほしいと執事に泣きつかれたアニエスは、半月ぶりに屋敷に戻ることにした。

 本来であれば馬車に乗るところだが、運動のために彼女は一人で道を歩くことにしたのだ。

 そして近道をしようと裏道に入った彼女の前に、突然黒ずくめの男たちが現れたのだった。



 人数は全部で五人。

 全身を真っ黒い布で覆ったその見た目からも、すでに彼らがまともな相手ではないことがわかる。

 そしてその異様な風体にアニエスが身構えた直後、先頭に立つ男がボソリと小さく呟いた。


「アニエス・シュタウヘンベルクだな。死んでもらう」


「ふんっ、やっと現れたか。随分と遅かったのぉ。 ――お前たちが来るのをずっと待っておったぞ、『漆黒の腕』よ。お前たちが出てきたということは、やはり此度こたびの黒幕はセブリアンか。わしの勘も衰えておらんかったのぉ」


 突然現れた暗殺者を前にして、アニエスは顔色一つ変えようとしない。

 それどころか、自分の予想が正しかったことに、満足そうな笑みさえ浮かべていた。


 いきなり自分の正体と黒幕を言い当てられた男は、その黒い頭巾の中で一瞬たじろいだように見えた。

 それでもやはりプロなのだろう。

 その直後にはすでに戦闘態勢になっていたのだった。


 

 アニエスを中心にして扇状に広がり始めた彼らは、そのまま後ろに回り込もうとする。

 しかしアニエスはそんな彼らを尻目に両腕を広げると、予備動作もないままにいきなり光の矢を放った。


「ぐふぅ!!」


「がは!!」


 最早もはや悲鳴にもならないような、空気の抜けた声が響く。

 その直後、拳大の穴を胸に空けた男二人は、受け身もとらずにそのまま地面に倒れ伏した。

 胸の穴から血を吹き出しながらピクリとも動かないその姿は、寸分違わず彼らが心臓を撃ち抜かれている証拠だった。


 そのあまりの出来事に、一瞬動きが止まった三人をアニエスは見逃さなかった。

 開いていた両腕を素早く前に構え直すと、またしても無言のまま何かを飛ばしたのだ。


 それは人の頭ほどの大きさもある炎の球だった。

 それが凄まじい速度で二人の男にぶつかると、そのまま腰から上を吹き飛ばしたのだ。

 鮮血を吹き出しながら地面に倒れる下半身と、そのはるか後方を転がる上半身。

 そのどちらもが真っ赤な炎に包まれていた。


 

 彼らは暗殺のプロだ。

 だから相手を確認次第速やかに目標を屠るのみなのだが、どうやら今回は相手が悪すぎたようだ。

 いま彼らが相手にしているのは、世界最強と謳われる魔女アニエスだったからだ。


 そのアニエスは、彼ら『漆黒の腕』が出てきた時点で自身の目的を達していた。

 もとより彼らをずっと待っていたのは、自分の予想の裏付けをするためでしかなかったからだ。

 そしてその目的を果たしたいま、これ以上彼らを生かしておく理由はなかった。




「な……く、くそっ……!!」


 一瞬にして仲間四人を潰された黒づくめの男は、その衝撃に思わず声を漏らしてしまう。

 彼とても永らく殺しのプロとして暗躍してきたのだ。

 自分の腕にはそれなりに自負はあったし、相手が高名な魔術師だとしても後れを取るとは思っていなかった。

  

 確かに魔術師の攻撃魔法は脅威だが、相手が魔術師である以上、そもそも呪文を詠唱させなければいいだけだ。

 だから速攻で距離を詰めて切りかかれば、一瞬で勝負はつくはずだった。


 しかし魔法の知識のない者が「無詠唱魔術師」と聞いてもピンとこなかったのだろう。

 まさかアニエスが予備動作もなく、しかも無言のまま攻撃魔法を放ってくるとは思っていなかったのだ。

 

 しかし彼の後悔もそう長くは続かなかった。

 なぜなら、その一瞬後には彼もまた首と胴体が離れ離れになっていたからだ。



「ふんっ、つまらぬ。なにが『漆黒の腕』じゃ。どいつもこいつも腕力だけではないか、くだらん」

 

 未だ血を吹き出しながら痙攣を続ける肉塊を前に、蔑むような視線を投げつけるアニエスだった。

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