第117話 ローザリンデの秘密
「わしを納得させられぬとあらば、娘婿とは言え容赦はせぬぞ」
威厳の中にも優しさを同居させる名君の誉れも高い国王アレハンドロではあったが、この時ばかりは感情をむき出しにしてケビンを睨みつけていた。
普通の人間であればその顔を見ただけで萎縮してしまうのだろうが、しかしケビンにはそんな様子は欠片も見られない。
どんな相手にでも己を曲げず、媚びず、妥協しない彼は、ともすれば極端な頑固者だと言われることも多かった。
しかしこの場においてはその頑固さが最大限に発揮されているようだ。
まるで相手を殺すかのような鋭い国王の視線を事も無げに真正面から受け止めた彼は、眉一つ動かすことなく飄々としていた。
「陛下の仰る通り、確かに王位継承一位の者を訴追するのは相当に難しいでしょう。特に今回のような状況証拠のみでは裁けないのも事実です。しかし、もとよりその前提がなかったとしたらいかがでしょうか?」
「前提が……なかったとしたら? なんだ? どういう意味だ?」
「はい。もしも殿下に初めから王位継承権がなかったとしたら、という意味です」
「……よいか、ケビンよ。王位継承とは、極めて政治的な問題なのだ。よってお前のような者が軽々しく触れるべきではない。それはわかっておるのか?」
恐らく大声を出したかったのだろう。
一瞬アレハンドロは大きく口を開きかけたが、鉄のような自制心でそれに耐えた。
そんな国王を前にしても相変わらずケビンは表情一つ動かさず、淡々と言葉を続ける。
「私が何に触れようとしているのかは、自分でも承知しております。そしてその言葉が示す意味もです。少なくとも私は、己の首を賭けてこの話をしているつもりです」
国王という絶対的な存在を前にしても全く怯むことなく、ケビンは真正面からアレハンドロを見据える。
その顔には一切の迷いも戸惑いもなく、ただひたすらに淡々と己の責務を果たそうとしているようにしか見えなかった。
王位継承は高度に政治的な問題だ。
部外者がこれに触れるのは禁忌とされており、たとえ王室の親戚筋であるケビンであっても例外ではない。
もちろん彼はその事情を十分考慮した上で、敢えてそれに触れようとしているのは理解していた。
そして触れずにこの問題を解決できないこともまた然りだ。
もしも国王の不興を買った場合、彼は本気でその首を差し出すつもりなのだろう。
そこにはケビンの覚悟が透けて見えていた。
そんな娘婿に何か思うところがあったのだろう。
アレハンドロは小さなため息を吐くと、何か諦めたような表情を浮かべた。
「お前の覚悟は、しかと見届けた。これ以上わしからは何も言わぬ。気の済むようにするがいい……」
国王アレハンドロの私室に、得も言われぬ緊張感が満ちる。
本来であればこの場に呼ばれている全員に発言する権利があるのだが、
まるで牽制するかのように互いの顔を見つめていると、誰かが喉を鳴らす音が聞こえた。
それを合図にして、再びケビンが口を開いた。
「それでは、お話しさせていただきます。 ――その前に、ひとつ陛下にお尋ねしたいことがございます」
「……なんだ?」
「時間もありませぬゆえ単刀直入にお訊きいたしますが、今は亡きお妃様――ローザリンデ様を、今でも愛していらっしゃいますか?」
その一言に、場が騒めき始めた。
全員がケビンの質問の真意を測りかね、口々に「なんだ」「どういう意味だ」と囁いている。
言葉にすらならないそんな騒めきの中で、質問をされた国王アレハンドロも怪訝な顔のまま立ち竦んでいたのだった。
「それはどういう意味だ? 何か関係があるのか?」
「はい。関係があるのです。これからのお話は、ローザリンデ様の名誉を汚し、陛下のお心を乱すことになるやもしれません。それでお伺いしたのです」
「……ローザリンデの名誉? ……わしの心を乱す? なんだそれは? ――すまぬが、もう少しわかるように話してはくれぬか? お前の言うことはさっぱりわからぬ」
「失礼いたしました。――それではもう少し噛み砕いてご説明いたします」
まるで無表情だったケビンの顔に、初めて感情が見えた。
それは「迷い」だった。
しかし彼は一瞬でそれを消し去ると、再び淡々と話を続けたのだった。
「これから私が話す内容は、亡きローザリンデ様の秘密にかかわるものです。そしてその名誉を汚すものでもあります。そんな事情もございますので、できますれば陛下と二人きりでお話しさせていただければと思うのですが……」
「人払いをせよと申すか? ――その秘密とやらは、それほどまでに人の耳に入れるのが
「はい。そして陛下のお心を酷く傷つけるものでもあるのです。……しかしこれを公にせずにして、
「そうか……」
迷う素振りを見せるアレハンドロ。
それからすぐに表情を改めると、ジッとケビンの顔を見つめた。
これから話される内容はアレハンドロにも興味のあるものだったし、それを聞かなければ話が先に進まないのもわかっている。
しかし、まるで脅しのような言い方に土壇場で迷ってしまったらしい。
これから何を聞かされるのか、彼はとても怖くなったのだろう。
そんな様子に気付いたケビンは、それまで能面のようだった顔に表情を浮かべると、彼を気遣うような素振りを見せた。
「陛下――やはり人払いをされた方がよろしいかと。いきなり皆の前で話すには、事が大きすぎるのではないかと思うのですが……」
「……よい。いずれ公にしなければならないのであれば、一度で済ませた方がよかろう。 ――わしに構わず話すが良い」
震えるような声でアレハンドロが答える。
その顔には何処か怯えのようなものが浮かんでおり、その言葉にも多分な強がりが含まれていた。
国王にそこまで言われた以上、ケビンはこの場で全て話さなければいけなくなった。
本来彼としては、アレハンドロと二人きりでこの話をしようと思っていたのだ。
それをいきなり皆の前で話せと言われてしまい、彼も些か戸惑っていた。
それでも国王にそう言われてしまったケビンは、
二十五年前に他界したアレハンドロの正妃――ローザリンデは、カルデイア大公国の第一王女だった女性だ。
そして彼女がブルゴー王国に嫁いできたのは、彼女が18歳、アレハンドロが24歳の時だった。
色白で美しく整った顔立ちに透き通るような薄茶色の髪、そしてスラリと背の高い容姿と気立てが良く知的なローザリンデは、顔合わせをした瞬間からアレハンドロの心を掴んだ。
そんな夫に彼女もすぐに心を許し、互いに政略結婚ではあったが初めから夫婦仲は良好だった。
ローザリンデには十歳年上の兄がいた。
それは現カルデイア大公国大公のオイゲン・ライゼンハイマーだ。
この二人の
兄の後ろをちょろちょろと歩く小さな幼女と、そんな妹を可愛がる兄。
宮殿の中庭ではよく二人が遊んでいる姿が目撃され、周りの大人たちもそれを微笑ましく眺めていた。
そのようにまるで絵に描いたような仲良し兄妹だったが、ローザリンデが15歳を過ぎたあたりから少々事情が変わり始める。
それまでは単に仲の良い兄妹でしかなかったが、妹が思春期を迎えた頃から、兄を見つめるその瞳に何か特別なものが含まれるようになったのだ。
当時既に二十代前半になっていたオイゲンは、そんな妹の感情に気づかない振りをしていた。
彼とても妹のことは憎からず思っていたが、さすがに血を分けた兄妹がそのような関係になるわけにはいかなかったからだ。
しかしある日、ローザリンデは一線を越えた。
実の兄であるオイゲンに向かって、異性として愛の告白をしたのだ。
しかし既に婚約者との婚姻も決まっていた兄は、そんな妹の想いに応えることはなかった。
当たり前だろう。
これから結婚して子を成して、次代の大公になる身であるに、実の妹と不適切な関係になるわけにはいかなかったのだ。
血が薄まるのを嫌い、一族以外に所領が継承されるのを防ぐために近親婚を繰り返す国もあるほど、当時は親族間での婚姻は忌避されていなかった。
しかし残念なことに、カルデイア大公国において近親婚は認められておらず、それどころか法律によって明確に禁止すらされていたのだ。
いや、むしろ親族間でのそのような関係は、不道徳として処罰の対象にすらなっていた。
そんな事情もあり、もしもローザリンデの想いが明るみに出た場合、間違いなく兄妹は引き離されてしまう。
もっとも彼らは王族なので、さすがに処罰まではされないだろうが、それでも二度と二人が近づけなくなるのは目に見えていた。
その後も彼らは仲の良いだけの兄妹として表面上は振舞いながら、決して成就することのない秘めた想いを互いに温め続ける。
そしてその二年後、運命の歯車が動き始めたのだった。
ある日のことだった。
朝の挨拶をするために両親を訪れたローザリンデは、不意に父親から声をかけられた。
いつもは簡単な挨拶だけで終わるのに、その時だけは様子が違っていた。
何か嫌な予感を覚えながら、それでも彼女は笑顔を浮かべる。
「はい、お父様。なんでしょうか?」
「ローザリンデ。突然ですまぬが、折り入ってお前に話があるのだ」
「はい」
「実は、お前に縁談が来ておってな。 ――相手はブルゴー王国の第一王子、アレハンドロだ」
「えっ!?」
見る見るうちに顔色が変わる娘を、些か心配そうに父王が見ている。
その横では母親が憂わしげな視線を送っていた。
「え、縁談ですか?
「あぁ。まるで降って湧いたような話だが、先方からのたっての申し入れだ。二週間後に顔合わせで、挙式は三か月後だ。あまりに時間がなくてすまないが、明日からでもすぐに準備を始めてほしい」
「えぇ!! そ、そんな……」
ジッと床を見つめながら、宮殿の廊下をとぼとぼと歩くローザリンデ。
彼女は打ちひしがれていた。
突然の縁談話を受け止めることができずに、どうしたらいいのかわからなくなっていた。
愛する兄に婚約者がいるのは仕方がない。
彼とても次代の大公になる身なのだから、有力貴族の娘を妻に娶い、子を成し、この国を繋いでいかなければならないのだ。
生れた時から決められていた、それが彼の使命なのだから。
しかしその横に、自分は決して立つことはできない。
いや、むしろこの秘めた想いが人に知られてしまえば、愛する兄と引き離されてしまうだろう。
兄妹でのそのような関係は、法的にも、感情的にもこの国では認められていないからだ。
このまま自分は、見も知らぬ男の妻になる。
その男の子供を産み、身知らぬ国を盛り立てて、その国の墓に入るのだ。
そこに自分の幸せはあるのだろうか。
あぁ、兄さま…… せめてその前に、あなたとの最後の思い出が欲しい……
ローザリンデは、その後もずっと沈み込んでいた。
心配した両親は頻繁に声をかけていたし兄も時々様子を見に来たが、ずっと彼女は塞ぎ込んだままだった。
コロコロとよく笑う明るい娘だったのに、まるで別人のように口数は減り、その愛らしい顔から表情は消えて、まるで能面のようになっていた。
本音を言うとオイゲンはもっと妹の近くにいてあげたかったのだが、婚約者の手前もあり敢えて距離をとっていた。
誤解を恐れた彼は決して妹と二人きりで会おうとしなかったし、様子を見に来てもすぐに帰った。
不意によそよそしくなった兄の様子に、心を痛めるローザリンデ。
そんなもどかしい日々が、彼女の心を余計に燃え上がらせていったのだった。
「やぁ、ローザ。明日には出立なんだな。お前がいなくなると寂しいよ」
明日の準備も終わり、夕闇迫る宮殿の中庭をローザリンデが一人で歩いていると、突然後ろから声をかけられた。
それが誰なのかすぐにわかった彼女は、思わず涙目になっていた。
「兄さま……明日で本当にお別れなのですね。
「ローザ、それは大げさだよ。他国に嫁いだとしても、実家に遊びに来るくらいはできるだろ? まぁ、頻繁には無理だろうけど、アレハンドロ殿は理解のある御仁だと言うじゃないか」
「はい。アレハンドロ様はとても素晴らしいお方でした。偉ぶらず、優しく、そして理知的なのです。そんな男性の元に嫁げる
「あぁ。お前は幸せなんだよ。世界で一番幸せだ。そう思って明日発つがいい」
それまで必死に我慢していたのだろうか、オイゲンが辛そうな顔をする。
眉は下がり、眉間にはシワが寄り、まるでその顔は涙を堪えているように見えた。
すると彼は、そんな顔を見られないように横を向いてしまう。
しかし時すでに遅く、その顔を見てしまったローザリンデは何かを吐き出すかのように突然話し始めたのだった。
「兄さま……兄さま……
「ローザ……」
「
「言うな、ローザ!! それ以上言ってはいけない。俺たちはこのまま何も言わずに別れるべきなんだ!!」
「兄さま……」
「いいか!? 俺たちのことは、誰にも知られちゃいけないんだ。 実の兄と妹が愛し合っているだなんて、そんなこと――」
「どうして!? どうしてなのですか!? どうして兄さまを愛してはいけないのです!? 好きになった男性が
「だめだ、ローザ……それ以上言ってはいけない!! 俺は……俺は……」
心の奥から湧き上がって来るものを無理やり押さえつけながら、オイゲンが叫ぶ。
しかしそんな兄の姿には一切構わず、ローザリンデは思いの
「
「……」
「そしてもう二度とここには戻って来られないでしょう。こうして兄さまとお話しができるのもこれが最後なのです」
「ローザ……」
「オイゲン兄さま、お願いがあります。これは
「あぁ、俺にできることなら、何だってしてやるよ」
「ありがとうございます。それでは……」
「あぁ」
「――
「ローザ……お前、自分が何を言っているのかわかって――」
オイゲンはローザリンデの顔を凝視した。
そのあまりと言えばあまりな願いに、彼とても何と言えばいいのかわからなかったのだ。
そしてやっと絞り出したその声は、聞き取れないほどに掠れていた。
そんな兄の姿を見つめるローザリンデの瞳は既に湿り始めている。
夜の
「いずれ生まれてくる子供に、兄さまの面影を重ねながら生きていきたいのです。あなたを手に入れるのが叶わぬなら、せめてあなたの子がほしい――お願いです、兄さまの子種を注いで下さいまし。後生ですから……」
ローザリンデの頬を、不意に涙が伝う。
愛する兄を必死な表情で見つめながら、大粒の涙をぽろぽろと零し始めた。
そんな姿を見てしまったオイゲンは、まるで理性の
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