第95話 婚約者の真意

「なんじゃとぉ!? おぉ、われぇ!! 大人しくしておれば付け上がりおって、このたわけがぁ!! わちが直々に成敗してくれる!! そこへ直れ!!」


 目の前に婚約者がいることも忘れて、リタは大声で叫んだ。

 その口調は素の彼女そのもの――いや、感情的になっている分余計酷い言葉遣いで、これまでずっと猫を被ってきたのが全て台無しになるものだった。


 その証拠に、いきなり大声を出したリタの姿にフレデリクは驚愕の表情を隠せずにいる。

 直前まで妹の頭を押さえつけて謝らせようとしていたことさえ忘れて、ただただ固まっていた。


 それはエミリエンヌも同じだった。

 彼女も兄同様に全身を強張らせたまま、ひたすらリタの顔を見つめていたのだ。



 そんな兄妹の姿に気付いたリタは、突然ハッとしたように正気に戻る。

 しかし時すでに遅く、目の前の二人以外にも複数の人間にその現場を目撃された後だったのだ。


 その中にはフレデリクの父親のオスカルと祖父のバルタサール、そしてリタの祖父のセレスティノの姿もあった。

 空になったワイングラスを取り替えようとテラスから戻って来た彼らは、偶然リタがガチギレした場面に遭遇していたのだ。


 その三者の反応はそれぞれだった。

 オスカルは顔を強張らせて固まり、セレスティノは額を押さえて天井を見上げ、そしてバルタサールは一瞬驚いた後にニヤリと謎の笑いを浮かべていた。



 その直後、ハッと我に返ったリタは遅まきながらもその場を取り繕おうとする。

 愛らしい顔にやっちまった感を満載にして、周りをキョロキョロと見廻していた。


「な、なんちゃって……てへ、ぺろ」


 リタは自分の中で一番可愛いと思っている表情を作ると、目の前の兄妹の前でお道化たふりをする。

 しかし二人は、そんなリタの努力など目に入らないかのように、身動ぎ一つせずに固まったままだ。


 それでも暫くすると、兄よりも胆力のある妹の方が先に我に返った。



「な、なによその態度!? あ、あんた随分言葉が汚いじゃない!! もしかして今までのは偽物のあんただったの!?」


「に、偽物なんかじゃありませんことよ。さっきのはほんの冗談でごじゃります。いやでしゅわね、おほほほほ……」


 とにかくこの場を誤魔化したいリタは、喋り方がおかしくなっているのにも気付かずに必死に取り繕っている。

 それでも彼女の怒りは収まってはおらず、虎視眈々とエミリエンヌへの攻撃の機会を伺っていたのだが。


「と、とにかく、私はあんたなんかに謝ったりするもんですか!! いくら兄さまの婚約者だからと言って大きい顔しないでよね!! 私は認めない。あんたを義姉ねえさまだなんてぜったいに呼ばないんだから!!」


「おほほほ……ふざけるんじゃありませんことよ、この唐変木。あまり適当なことばかり吠えていると、殴りつけますわよ。血が出るまで」


「な、なんですってぇ!! やれるもんならやってみなさいよ!! できもしないくせに口ばっかり!! この、しっこたれ!!」


「そ、それは言うなや……ですわ!! おまぁ、ええかげんにせぇ……ですことよ!!」


 最早もはやリタの口調はめちゃくちゃである。

 幼女への怒りと婚約者への気遣いに板挟みになってしまい、彼女はすでに本来の話し方すらできなくなっていたのだった。



 そんな二人が相変わらず一触即発の状態になっていると、やっとフレデリクが正気に戻る。

 彼はブルブルと頭を振ると、リタと妹を交互に見廻した。


「リ、リタ嬢……さっきのあれは……」


「お、おほほほほ……いやですわフレデリク様。さっきのはほんの戯れではごじゃりませぬか。おほほほほ……」


「そ、そうか……」


 微妙におかしなリタの話し方が気になって仕方がないフレデリクだったが、それをいま追及したところで仕方がないと思い、そのままにすることにした。


 婚約者に向かって必死に言い訳を始めたリタだったが、それに追い打ちをかけるようにしつこくエミリエンヌが割って入る。

 彼女はリタと兄の間に身体をねじ込むと、自身の頬をこれ見よがしに近づけて来た。


「ほら、どうぞ、殴ってみなさいよ!! ほらほら!! どうせ口だけなんでしょ!?」


 どうやらエミリエンヌはどうしてもリタに手を出させたいらしい。

 そうすることで既成事実を作りあげ、その結果大人に介入させるつもりなのだろう。

 

 許すまじ、小賢しい幼女め!!


 しかしそんなことなどお見通しのリタは、絶対に自分から手を出そうとはしない。

 先に手を出した方が負け。

 つまりはそういうことだ。

 あからさまなエミリエンヌの挑発に怒りで身体を震わせながらも、リタは必死に耐えた。

 


「うぬぅ……この……」


「ほらほら、叩いてみなさいよ、ほら!!」


「くぬぅ……」


「なによ、できないの!? それじゃあ、こうしてやる!!」


 散々挑発しておきながら、自分の方が痺れを切らしてしまったエミリエンヌは、おもむろにリタの頬を両手でつかむ。

 そして力いっぱい引っ張り始めた。


 ぎゅーっ!!


「いたたたた!! 痛いやないか!! なにすんのじゃ、このボケが!!」


 ついに相手から手を出されてしまったリタは、大義名分ができたとばかりにエミリエンヌの頬を両手でつまむ。

 そしてそのまま力一杯引っ張った。


 むぎゅーっ!!


「痛い、痛い!! 何すんのよ、この乱暴者!!」


「それは、おまぁも一緒じゃ!! そっちから手を出して来たんじゃろが、どの口が言うか!! この口か!?」


 ぎゅーっ!!


「いたたたた、やったわね!! あんたなんてこうしてやる!!」


 バシンッ!!


「ぶふっ…… い、痛いじゃろ!! やめぇや、おまぁ!!」


 べちんっ!!


「いったぁ!! もう、ゆるさない!! えいっ!!」


 びばしっ!!


「うえぇ、痛い痛い……おまぁ……ええ加減に……ぐすん、ぐすん……」


 ぱしんっ!!


「あんただってなにして―― いたたた!! やめて、やめてよ、いやぁ!!」


 ぎゅーっ!! 


「ううぇぇぇ!! 痛いじゃろがぁ、なにすんじゃぁー!!ふぇぇぇぇ」


「あぁぁーん、リタが、リタが虐めるー うわぁぁぁん」


「びえぇぇぇぇん」


「うぇぇぇぇん」




 ――――




「フレデリクよ。これでわかったであろう? 女子おなごというものは、我々男には理解しがたい生き物だということが」


「……はい、お爺様。しかし今回の件はエミリエンヌが悪いのだと思います。妹の方から先に手を出したのですから……」


「まぁな。あれはわしらも見ておったからわかっておる。それでも片方だけを一方的に悪者にすると、後々とても面倒くさいことになるのだ。それが女子おなごというものだ。どちらも平等に立てねばならん。心しておくのだぞ」


「は、はい。よくわかりました」


 最終的に頬の叩き合いにまで発展し、涙と涎で顔をぐちゃぐちゃにしたリタとエミリエンヌは、お互いの母親に連れられて別室へと去って行った。

 そんな衝撃的な場面を茫然と見送ったフレデリクに向かって、祖父のバルタサールが話しかけてくる。


 彼は孫の肩に手を置くと、ゆっくりと諭すように語りだしたのだった。




「いいか。お前の婚約者――あのリタという女子おなごはなかなかに得難いものだ。あれだけの知恵と洞察力、そして胆力をもつ女子おなごなど、そうはおるまい」


「はい。わかっております」


「ははは、そうか。わかっておればそれでよい。それにあの器量だ。必ずや将来は美女との呼び名を己のものとするだろう。……ふふふ、あんな美しい妻を娶れるなんぞ男冥利に尽きるわい。この果報者めが」


 まるで好々爺そのものの顔で、バルタサールは孫の頭をわしゃわしゃとかき回す。

 その姿には、王国最強と名高い軍隊の将軍の顔は微塵も見られなかった。


「お、お爺様、おやめください。ぼ、僕は別にそんな――」


「いいではないか。妻が美しいと、色々とはかどるものだぞ? ふはははっ!!」


「……?」


 穢れなき八歳児に向かって一体何を言い出すのかと思うところだが、当のフレデリクにはやはりその話は早すぎたようだ。

 一人で笑う祖父の顔を、彼は不思議そうな顔で見上げているだけだった。



 そんな孫の前で一頻り笑い声を上げたバルタサールは、ふと真顔に戻ると真っすぐにフレデリクの顔を見つめる。

 するとその視線に何を思ったのか、彼は背筋をまっすぐに伸ばした。


「ところで、フレデリクよ。先ほどのリタはまるで子供そのものだったであろう?」


「はい。まぁ、まだ五歳ですから。妹みたいなものです」


「そうだな。しかしあの姿は本来の姿ではない――としたらどうする?」


「……意味がわかりません」


「ふむ。まぁ、わからんか。そうだな……さきほどの婚約の儀の席で、お前は泣いたであろう?」


「は、はい。申し訳ありません。あのような晴れの舞台を台無しにするようなことを致しまして、深く反省する所存です……」


 すっかり忘れていたことを再び祖父に指摘されたフレデリクは、その細い肩をさらに小さくすぼめると謝罪の言葉を口にした。

 そんな孫の肩に優しく手を置くと、バルタサールは尚も話を続ける。


「いや、謝らなくともよい。わしはべつにそんなつもりで言っているのではないからな。――それよりも考えてみよ。この者たちの中で、先ほどのお前の失態を憶えている者がどれだけおると思う?」


「えっ……?」


 フレデリクには祖父の質問の意味がよくわからなかった。


 この貴族社会の中では、男が家族以外に涙を見せることほど恥ずかしいことはない。

 例えるなら、それは公衆の面前で裸踊りをするに等しいもので、それだけ貴族男子の涙は禁忌とされているのだ。


 それなのに自分は、よりによって婚約の儀などという一世一代の晴れの舞台でやらかしてしまった。

 これはまさに失態以外の何ものでもなく、式事の途中で父親に咎められたのも仕方のないことだったのだ。


 何やら深刻な様子でフレデリクがそんなことを考えていると、バルタサールはその厳つい顔に豪快な笑顔を浮かべた。



「ふむ。その様子ではわしに言われるまで、お前自身も先ほどの失態を忘れておったのではないか? どうだ?」


「た、確かに……すっかり忘れておりました」


「そうであろう。ではまた問うが、お前の婚約の儀では何を真っ先に思い出す?」


「……リタ嬢のお漏らしでしょうか」


「うむ、そうだな。恐らくお前の婚約の儀と言えば、この先リタの粗相ばかりが思い出されるであろうな。お前の失態なぞ、その陰に隠れて誰も憶えてはいまい」


「……」



 確かに祖父の言う通りだ。

 リタのお漏らし騒ぎのインパクトの方が強烈過ぎて、自分の失態については自分自身でさえ忘れていた。

 あの騒ぎの前では、自分の失態なぞ霞んでしまっている。



 そんな思考に沈む孫を柔らかく見つめながら、バルタサールは尚も話を続けた。


「それでだ。もしもそれをリタが意図してやっていたとしたら、如何いかがする?」


「えっ……!?」


「お前の恥を塗り潰すために、己がそれ以上の恥を晒す。あの女子おなごであれば、そのくらいのことはしかねんと言っておるのだ。わかるか?」


「……」


 思えばあのお漏らしのタイミングは、まるで計っていたかのようだった。

 自分が涙を流して父親に叱責された直後に、彼女は尿意を訴えたのだ。


 もしかしてあれはわざとだったのだろうか。

 もしも本当にそうであるのなら、あの子はいったい――



「ははは。なにをそう難しい顔をしておるのだ? あの粗相が意図したものかどうかなぞ、リタ本人に訊いてみなければ誰にもわかるまい。もっとも仮にそうであったとしても、あやつは絶対に認めないだろうがな。ふははは」


「リタ嬢……」


「まぁ、なんだ。お前の婚約者はそれだけの人物かもしれんということだ。もっともこれは多分にわしの願望も混じっておるから、真相はわからんがな。精々あの子を大事にしてやることだ、いいな?」 


「はい。承知いたしました……」



 

 孫が自分の話を理解した様子を確認すると、バルタサールは豪快な笑い声を上げながら去って行った。

 そして残されたフレデリクは、一人考え始める。


 確かに事前の情報では、あの「ムルシアの女狐」とまであだ名される母親を正面から言い負かしたとも、魔術師の卵に選ばれるだけの魔力と才能を持っているとも聞かされていた。


 だから相当な頭脳を持つ気難しい女の子なのかと思っていたが、実際に会ってみれば案外普通だった。

 いや、あれを普通などと言ってはいけないだろう。

 何故なら彼女は、多くの人に将来美人になると断言されるほどの器量を誇っているからだ。


 そう言われてみれば、確かに彼女は整った顔をしているし、可愛らしいとも思う。

 少し小柄だが、将来美人になると言われればそんな気もする。


 

 ……それにしても、さっきの言葉遣いには本当に驚いた。

 あれだけ貴族令嬢然とした彼女の口から、まさかあんな言葉が出てくるとは思わなかった。

 しかし彼女の生まれは辺境の村だと言うし、実際に貴族の屋敷で暮らすようになってからも日が浅いとも聞いていた。


 普段のリタ嬢はその佇まい、立ち居振る舞い、言葉遣いに至るまでまさに伯爵家令嬢そのものだ。

 しかしその皮を一枚剥くと、その下には逞しい村娘の姿が隠れているのだろうか。


 きっとあの変わった言葉遣いがそうなのだろう。

 それもまた面白いのかもしれない。



 それはそうと、とにかく彼女と魔法の話ができたのがとても楽しかった。

 確かに自分も個人的に魔法の研究をしているが、あくまでもそれは趣味の範囲でしかない。


 しかしリタ嬢は現役の魔術師の卵だ。

 だから彼女からは生きた魔法の知識を学ぶことができる。

 できることなら、このままずっと彼女と話をしていたいが、それは叶わないだろう。

 自分は明日にでも領地に戻らなくてはいけないのだから。

 



 広間の隅に一人残されたフレデリクがそんなことを考えていると、その姿を遠くから母親のシャルロッテが見つめていた。


 最愛の息子を見つめる母親の顔には、普段ではあまり見られない優しい微笑みが浮かんでいたのだった。

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