第91話 姿を現した婚約者
6月。
遂にリタの婚約の儀が執り行われる日がやって来た。
これに先立つこと数ヵ月、スヴェトラ女史から話し方の矯正指導を受けてきたせいか、リタの話し方はかなり良くなってきていた。
もとより年齢的に舌足らずな部分はどうにもならなかったが、ずっと気になっていた滑舌の悪さはかなり改善されていたのだ。
もちろんスヴェトラ女史の本業はマナー講師なので、その他にも貴族の礼儀作法や立ち居振る舞いなど、その指導は多岐に渡る。
しかしブルゴー王国で百年以上に渡って宮廷魔術師を務めてきたアニエス――リタには、当然その手の作法は身に付いていたので、いまさらという気がしないでもなかった。
だから最初のうちは意図的に講義をすっぽかしたり、逃げ出したり、行方不明になったりすることも多かった。
もっともそんな時はピピ美と一緒に厨房の片隅でもっちゃもっちゃとつまみ食いをしていることが多かったのだが。
そんなことも多々あり、すっかりリタは不良生徒の烙印を押されてしまう。
しかし困ったスヴェトラ女史が祖父母に泣きついたせいで、リタは彼らから説教をされる羽目になってしまった。
普段は優しい祖父母とは言え、やはり一族の長であるレンテリア伯爵夫妻に叱られてしまえば、さすがのリタも真面目に講義を受けざるを得なくなったのだった。
しかし実際に習い始めてみると、生まれ育ったブルゴー王国とここハサール王国とでは、細かいしきたりや礼儀作法が色々と異なっている事に気が付いた。
そこに興味を抱いた彼女は、真面目にそれらを学んでみることにしたのだ。
そんな努力の甲斐もあり、いまではすっかり小さな淑女と化したリタは、本日遂に婚約の儀を迎えることになったのだった。
ムルシア侯爵家の別邸は、レンテリア家と同様に首都アルガニルにある。
その屋敷はリタの住む邸宅から馬車で二十分ほど走った場所にあり、王宮からも程近い。
ぐるりと周りを見渡せば、そこはムルシア家以外にも名だたる公爵家や侯爵家などの屋敷が立ち並ぶ閑静な住宅地だ。
そんな場所に国の基幹を担う貴族家の別邸が集中している。
その目的は、ひとたび事が起これば各貴族たちが一斉に王宮に駆け付けられるようにしているためだ。
もちろん各貴族家はそれぞれの領地に本宅を持っており、普段はそこで過ごす者も多い。
しかし武家貴族の筆頭に数えられ国の軍隊の大半を抱えるムルシア公にあっては、領地にある本宅を息子のオスカル一家に任せて、バルタサール本人は首都の別邸に詰めていることが多かった。
特にここ十年近くは隣国――カルデイア大公国の侵略行為も見られず至って平和な状態だったので、バルタサールは自身の領地には戻らずに、近くにいてほしいという国王の求めに応じていたのだった。
そんなムルシア侯爵邸の広間の一角に、今日の主役の一人であるリタが鎮座していた。
今日の彼女は母親譲りの美しいプラチナブロンドの髪を高く結い上げ、その周りに色鮮やかな飾りをあしらっている。
そしてすっかり色白になった顔には、丸見えになったうなじとともに血色がよく見えるような化粧を施していた。
そんなリタは普段よりも少しだけ大人っぽく見えて、その愛らしさも二割増だった。
大きく愛らしい瞳は髪と同じ金色の睫毛に彩られ、そのぱっちりとした瞳の色は見る者を惹き付けて止まない透き通るようなレンテリアの灰色だ。
顔の各パーツは完璧なバランスで配置され、その可愛らしくも美しい顔は将来の美少女、
まるで完璧に作られた人形のようにも見える女児と並んで、父のフェルディナンドと母のエメラルダ、そして祖父母のレンテリア伯爵夫妻も姿もある。
その後ろには、屋敷から連れて来た筆頭執事や世話役のメイドまで、総勢十名からなるお付きの者たちも一緒だった。
豪華なドレスに身を包みすっかり小さな淑女と化したリタだったが、緊張の面持ちを隠せずにキョロキョロと周りを見回していると、次第に尿意を覚えてしまう。
しかしそれをメイドに告げようとした直後、先触れと共に正面の扉が開かれたのだった。
まず姿を現したのは、ムルシア侯爵家当主、バルタサール・ムルシアその人だった。
身長180センチを超える大柄で威風堂々とした姿はまさに武人といった趣で、彼が武家貴族の筆頭であることはその姿から疑う者は誰もいない。
齢63にして鍛え抜かれたその身体は、未だ彼が王国軍の将軍であり続けているのを納得させられる。
そんな彼でも寄る年波には勝てないらしく、最近では体力の衰えを感じてそろそろ息子に家督を譲ろうかと思っているようなのだが、国軍の将軍職はそのまま続行するつもりらしい。
もっともそれは、息子のオスカルが未だ軍の中での地盤を築けていないのが原因だったし、もとより彼が将軍職を辞すことを国王が許そうとしないので、その選択も仕方がなかったのだが。
残念ながらバルタサールは妻を六年前に亡くしている。
だから本来であれば妻の腰に回されるべき左手を、彼は腰に吊るした装飾用の剣に添えたまま一人で部屋に入って来た。
次に現れたのが、バルタサールの長男であり次代のムルシア家当主でもあるオスカル・ムルシアとその夫人、シャルロッテだった。
シャルロッテは以前にレンテリア邸で会っていたし、リタ自身がやり込めた既知の人物だ。
相変わらずその美しい容姿を最大限に飾り立て、その姿を見るに、もしかして彼女は今日の主役が誰なのかを理解していないのではないかと思うほどだった。
そんな絶世の美女と誉れも高いシャルロッテの横には、夫のオスカルが立っている。
その彼は妻をして「脳筋」と呼ばざるを得ないような人物だと噂には聞いていたが、実際に見て「なるほど」と思う。
彼の父親のバルタサールは同じ「脳筋」に見えて実は相当な策士であることがわかっている。
しかしオスカルにいたっては本当に見た目通りらしい。
その筋骨隆々の大柄な身体と見る者を圧倒する鋭い眼差し、そしてその猛々しい風貌は若い頃のバルタサールそっくりだと言われれば確かに納得できる。
しかし彼には決定的に父親とは違うところがあったのだ。
それは思慮の深さだ。
バルタサールはその容姿から脳筋だと侮られているし、彼自身も敢えてそれを否定しようとはしていない。
もちろんそれは世を
しかし息子のオスカルからはそれらを感じ取ることができなかった。
特徴的な薄茶色の瞳には、父親から受け継いでいるはずのものが見えなかったのだ。
もっとも彼の名誉のために言うならば、ただそれだけを以てオスカルが暗愚というわけではない。
彼は彼なりに父親を凌ぐ部分も多いからだ。
それは剣技だったり大軍を動かす指揮能力だったりと、
ただオスカルは父親に比べるとかなり考えや行動が直情的だったり、策謀を
要するに、彼は典型的な「オラオラ系の単純バカ」ということなのだろう。
だからそれを十分に理解している妻のシャルロッテは、夫に代わって自身が色々と考えなければならないのだ。
婚約破棄を迫るために彼女が直接レンテリア家に乗り込んできたのも、それが原因と言えよう。
そしてシャルロッテに手を引かれているのが、長女のエミリエンヌだ。
年齢はリタと同じ五歳で、父親譲りの薄茶色の瞳に母親譲りの黒い髪が特徴的な、見るからに気の強そうな幼女だ。
彼女は顔、雰囲気ともに母親そっくりで、気が強そうに釣り上がった瞳と薄ら笑いを浮かべた口元までも、全てがミニチュア版シャルロッテと言っても過言ではない。
そんな手強そうな幼女が、部屋に入るなりまるで
そして次に姿を現したのが、誰あろう次々代のムルシア家当主であり将来のリタの夫になる人物、フレデリク・ムルシアだった。
その姿を見た途端、リタの瞳に驚きの色が広がる。
それは目の前に現れたフレデリクの姿があまりに想定外だったからだ。
ご存知のように、ムルシア家は「脳筋一族」と揶揄されている。
確かに先代や次期当主のオスカルを見る限り、その言葉は彼らを端的に言い表していると言えたし、シャルロッテが漏らした言葉からも、それはフレデリクにも当てはまるのだろうと勝手に思い込んでいた。
それが実際に彼の姿を見ると、まるでその真逆だったのだ。
フレデリクを一言で言い表すと、それは「美しくも儚い」だった。
身長180センチを超える父親と祖父の鍛え抜かれた身体はまさに筋骨隆々と呼ぶに相応しいものだが、それに反して彼の容姿はあまりにも小柄でひ弱過ぎたのだ。
フレデリクは未だ八歳の少年なので今から断定するのは早計なのだろうが、それを差し引いたとしても彼の身体がそれほど大きくなることはないだろう。
図らずもそう思わずにいられないほどに、彼は小柄で線が細すぎた。
確かにその顔には紛れもないムルシア家の血が見て取れたし、横顔には父親の面影も見えていたが、その容姿の大半を母親から譲り受けているようだった。
その証拠にフレデリクの顔の造形はまさに「美しい」という言葉が似合うものだったし、間違いなくそこには美貌の母親の血が色濃く現れていたのだ。
くわえて、もしも彼が髪を長く伸ばしていれば、「フレデリカ」(フレデリクの女性名)と呼ばれても誰も違和感を覚えないほどに女性的な顔立ちをしていた。
それらを総じて言うと、リタの婚約者になるフレデリクは滅多にいないような「美少年」だということだ。
良くも悪くも、さらにその背の低さや身体の線の細さまでもが母親に似てしまったらしいフレデリクは、その顔に父親の面影が見えなければ、まさか彼が「脳筋一族」ムルシア家の将来の当主だとは誰も思わないだろう。
そのくらいフレデリクの容姿はレンテリア家の面々の想像の斜め上をいっていたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます