第92話 失態と惨状

「私はハサール王国ムルシア侯爵家オスカル・ムルシアの長男フレデリクでございます。この度はこのようなご縁によりまして――」


わたくちはハサール王国レンテリア伯爵家フェルディナンド・レンテリアの長女、リタでございます。ムルシア家の皆様に置かれまちては――」



 本日の主役二人が、スルスルと流れるようにお決まりの口上挨拶をこなしていく。

 その姿には全く危なげはなかったが、それでも周りの大人たちは皆ハラハラしながら見守っていた。


 その言葉はマナー講師のスヴェトラ女史と何度も練習したものだったし、事前のリハーサルでは完璧にこなしていたので、最早もはや誰も心配していないはずだった。 

 しかし実際に始まると、まるで自分のことのように緊張を隠せないエメラルダは、リタと一緒になって無意識に口を動かしていた。


 そんな大人たちの不安を尻目に、淡々と口上を述べていくリタ。

 その姿を正面に座るムルシア家の一行が、何か珍しいものを見るような目つきで見守っていた。



 今ここにいるムルシア家の者の中で、リタに会ったことがある者はバルタサールとシャルロッテの二人だけだ。

 残りの者たちももちろんリタの基本的な情報――外見的な特徴や特殊な出自、そして魔術師の能力を持っているなど――は事前に聞いていたが、それらの情報を頭の中で組み立てても、いまいち具体的なリタ像が思い浮かばなかったようだ。


 しかしその中でも一番理解できなかったのが、弱冠五歳にしてあの「ムルシアの女狐」シャルロッテを正面から論破するほどの胆力を持っているところだった。

 特に夫のオスカルに至っては、あの妻を正面から撃破するような幼女なのだから、きっと小さなオーガかトロルのような|女子(おなご)に違いない、などと勝手に思いこんでいたのだ。


 ちなみにオーガもトロルも、怪力だけが自慢の知能の低いモンスターなので、オスカルが想像しているのはきっと別のモンスターなのだと思われる。

 そんなところにも彼の頭の――以下略。



 婚約相手についての情報が少ない。

 それはフレデリクについても同じだった。

 リタのところに伝わってくる彼の情報は、父親のオスカル同様に「脳筋」だというものくらいで、その為人ひととなりや容姿などの情報は殆ど伝わってきていなかったのだ。


 ムルシア家当主のバルタサールは首都アルガニルに住んでいるが、息子のオスカル一家はムルシア領の本宅に住んでいる。

 そしてここアルガニルとムルシア領は馬車で五日かかるほど離れているので、そう簡単にやって来ることはできない。


 そもそも領主一家が半月も自領にいないなどあり得なかったので、これまでも一家全員が首都に来たことなどなかったのだ。

 そしてバルタサールが孫に会いに行く時には彼の方から自領に帰って行くので、実際にフレデリクの姿を見たことのある者がレンテリア家にはいなかったのだ。

 




 そして本日。

 実際に目の前に鎮座するリタを見て、ムルシア家の者たちは皆興味深々だった。

 もちろんそれは、お付きのメイドや護衛の騎士たちなども含めて全員だ。

 

 この幼女が将来の奥方になるのだと思うと感慨深いらしく、皆食い入るようにリタの姿を見つめている。

 そして領地に残った者たちに説明するために、目の前の全てを記憶に残そうと一瞬たりとも目を逸らそうとはしなかった。


 そんなムルシア家の面々が一番最初の驚いたのは、リタの容姿が想像よりもずっと可愛らしいことだった。

 あの若奥方をやり込めたくらいなのだから、どんな化け物みたいな幼女が出てくるのかとオスカルよろしく思っていたようなのだが、そのあまりの美少女ぶりに皆驚いていたのだ。



 シャルロッテと言えば「ムルシアの女狐」とあだ名されるほどの策略家として有名だ。

 思い通りに相手を動かす巧みな話術と洞察力、そして有無を言わさぬ押しの強さは他家から非常に恐れられている。


 交渉事に彼女が顔を出してきたら、最早もはやお手上げ。

 その交渉は必ず負けると言われるほどだった。

 さらに「脳筋」夫の影の操縦者としても有名で、彼女がいる限り次代のムルシア家は安泰とまで言われる始末だ。


 若干五歳のこの幼女が、そんな人物を真正面から言い負かしたと言うのだ。

 まるでよくできた人形のような美しい顔をしていながら、一体どの口でそのようなことを言うのかと思うと、興味津々で思わずその顔を見つめてしまうほどだった。

 

そんな痛いほどの視線が集中する中で、これまでの練習の成果を発揮したリタは最後まで淀みなく口上を言い切ることができた。

 そしてホッと一息つきながら、正面に座る婚約相手の様子を伺い始めたのだった。




 見たところ、フレデリクも緊張しているようだった。

 リタよりも先に口上挨拶を済ませた彼はすでに緊張することもないはずなのだが、先ほどから顔を強張らせたままずっと俯いている。


 もちろん相手に対して失礼になるほど極端に顔を下に向けているわけではなかったが、それでも彼が意識してリタから視線を逸らしているのがわかるものだったし、その仕草は些かわざとらしかった。

 そんな様子に気付いたリタは、彼とは視線が合わないのをいいことにジッとその容姿を観察し始めた。


 


 部屋に入って来た時もそう思ったが、やはり何度見てもフレデリクは小柄だった。

 恐らく彼は同年代の少年の中でもかなり小さいほうなのだろう。

 顔も手も何もかもが小さく見える。

 そしてその年齢でその体格ということは、この先成長期に入ったとしても極端な身長の伸びは期待できそうにもない。


 その容姿から想像する限り、恐らく彼は外で身体を動かすよりも本を読んだりする方が好きそうに見えた。

 何故なら日焼けが目立つ活発そうな妹に比べて、フレデリクの顔も手も真っ白だったからだ。


 さらに武家貴族の筆頭であるムルシア家に生まれていながら、その細く白い両手には剣の稽古の跡が殆ど見られない。

 それどころかひょろひょろとまるで小枝のように細い両腕では、およそ剣などを振り回す姿は想像できず、彼が本当にムルシア家の長男なのかと本気で疑いそうになってしまう。


 しかしその母親譲りの薄茶色の瞳には、間違いようのない知性の光が満ちていた。

 これまでも数多の才能を持つ子供を見てきたリタ――アニエスにははっきりとそれがわかったのだ。

 彼は軍人ではなく、優れた文人になるべく才能を秘めていると。



 

 相手が下を向いているのをいい事に思う存分彼の姿を凝視していると、リタは突然視線を上げたフレデリクと目が合ってしまう。

 そしてそのまま固まった。


 相手よりも先に視線を外してしまえば、そこで負けだ。

 マウントを取られるのと同様に睨み合いでも絶対に負けたくない彼女は、思わずフレデリクを全力で睨みつけてしまう。

 その眼力めぢからは強すぎて、思わず殺気がこもってしまうほどだった。


 そもそもここは婚約者同士の挨拶の場なのだということさえ忘れて、ひたすらリタはフレデリクを睨みつけた。

 しかも殺気のこもる視線で。

 すると彼の方から先に視線を反らされてしまうと、リタは己の勝ちを確信したのだった。


 しかし次の瞬間、自分はやらかしてしまったことを悟った。

 何故なら、フレデリクはその真っ白な顔に怯えの色を浮かべたまま、泣きそうになっていたからだ。

 母親譲りの薄茶色の瞳に涙を浮かべて、ともすればそのまま白い頬に溢れさせそうになっている。


 ここまできて、やっと自分がこの場にいる理由を思い出していた。

 一体どこの世界に、初対面の婚約者を睨みつけて泣かす女がいるのかと。

 それを考えると、思わずリタは自分で自分を小一時間問い詰めてやりたくなってしまった。




「あら、フレデリク、どうかしたのかしら? 突然涙ぐんだりして……」


 そんな息子の異変を敏感に察知したシャルロッテが、気遣うように声をかける。

 その言葉にもフレデリクは返事ができないまま押し黙っていた。

 するとその声を遮るように甲高い声が響いた。


「あのね、あの子がね、兄さまをね、泣かしたの!!」


 それはフレデリクの妹のエミリエンヌだった。

 まるであげつらうかのようにリタを指差しながら、親の仇を見るような目つきでリタを睨みつけていた。 


「うぅ……わ、わたちはしょんなつもりは……」

 

 そんな幼女の指摘に、思わずリタは口籠ってしまう。



 どうやらエミリエンヌはリタのことが気に入らないらしい。

 自分と同い年のポッと出の幼女に、大好きな兄を取られてしまうと思ったようだ。

 それにそろそろこの長い式事にも飽きてきていた五歳児は、この出来事を利用して騒ぎ出そうとしていた。


 突然降って湧いた小さな騒ぎに気付いたオスカルは、横に座る息子の顔を覗き込む。

 不意に父親に見つめられたフレデリクは、びくりと肩を震わせると溜めていた涙を思わず零してしまった。

 そんな息子に、オスカルは咎めるような声をかけた。 


「フレデリク、お前は何を泣いているのだ? 男子たるもの人に涙を見せるなといつも言っておるではないか。しかもこのような一生に一度の晴れの舞台で、お前はなんという恥を晒すのだ」


「も、申し訳ありません、父上……」


 いまがどんな場なのかを気にもせずに突然説教を始めた父親に、それでもフレデリクは謝罪を始める。

 彼のその行動もこの場に即したものではなかったが、父親の方がもう一つ上をいっていた。

 よせばいいのに、彼は更に言い募ろうとしたのだ。


「そもそもお前は――」


「うぅ…… ち、父上、本当に申し訳――」


「あなた、こんなところでおやめ下さい!! いまここがどのような場なのかおわかりですか!? 咎めるにしても後にしてくださいまし!!」


「あぁ!! 兄さまを泣かした!! あの子が兄さまを泣かした!! 悪いんだ!!」


「エミリエンヌ!! あなたも大きな声など出してはいけませぬ。この場をなんだと思っているのですか? はしたない!!」


「とにかく涙を拭け。これから妻になる女子おなごに涙を見せるとは、男子として本当に恥ずかしい――」


「あなた!! おやめくださいと何度――」



 全く場の空気を読まずに息子を叱責し始めるオスカル。

 そんな夫をシャルロッテがいさめていると、今度はその横でエミリエンヌが大きな声を上げる。

 そしてシャルロッテが娘に注意をそらしていると、再びオスカルが説教を始めた。


 仮にもこの場は侯爵家と伯爵家を結ぶ婚約の儀の席であるというのに、オスカルとエミリエンヌにとってそれは関係ないことのようだった。


 その様子を見ていると、オスカルが「脳筋」と言われる理由がこの場の全員によく理解できたし、それを諫めるシャルロッテの姿からは彼女の苦労が垣間見えていた。


 「婚約の儀」という厳かな席に、形容できない気まずい空気が漂い始める。

 そんな空気を感じ取ったバルタサールは、なんとも言えない苦笑を顔に浮かべていた。

 それを払拭して何とか場を仕切り直そうとしていると、今度は別の場所から声が聞こえてきたのだった。




「お、おしっこ……」


 些か舌足らずで甲高い声――それはリタだった。

 そのぽってりとした愛らしい唇を前に突き出したまま、身体を震わせながら声を上げている。

 しかもドレスの上から下腹部を押さえて、なにやら切羽詰まった顔をしていた。


 突然目の前で叱責を始めたオスカルに、レンテリア家の者たちは気を取られていた。

 そしてすっかり目を離しているうちに、何やらリタに緊急事態が発生していたようだ。

 

 なんとなく嫌な予感を覚えながら、それでもエメラルダが声をかけると、席に座ったままリタは身体を震わせていた。

 テーブルの下の両足をモジモジと激しく動かしながら、尚も彼女は叫ぶ。


「お、お、おしっこ!! おしっこ出る!!」


 突然の幼女の叫びにその場の全員が色めき立つと、後ろから慌ててメイドが駆け寄ってくる。

 それと同時に、まるで椅子を蹴飛ばす勢いで母親のエメラルダが立ち上がった。


「えぇ!? い、今すぐに下ろしてあげるから、もう少しだけ我慢して――」


「も、も、漏れりゅ!!」


「お願い、なんとか耐えてー!!」


「あ……あ……!!」


「我慢して!!」


「あっ……」


「えっ!?」


「……で、出ちゃった……」


「えぇぇぇー!?」


「はぁー!?」



 突然発生した惨状を目の当たりにして、直前のムルシア家の失態など誰もが忘れ去っていたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る