第86話 リタが大嫌いなこと
「フェル!! お前なんてことしてくれたんだ!! どれだけの人間に迷惑をかけたのかわかっているのか!?」
両親との挨拶を終えたアンブロシオは、彼らの背後に小さくなっているフェルディナンドを見た瞬間、烈火のごとく怒鳴りつけた。
直前までの和やかな雰囲気など何処へやら、その瞳は鋭く細められ、顔には険悪な表情が浮かんでいる。
そしてその横にいる彼の妻――エヴェリーナも、そんな夫を止めようとはしなかった。
そんな兄に向かって小走りに駆け寄ると、フェルディナンドは口を開いた。
「に、兄さん……大変申し訳ありませんでした。自分の仕出かしたことがどれだけの人に迷惑をかけたのか、どのような事態を引き起こしたのか、ここに帰って来てよくわかりました。――僕たちが如何に自分のことしか考えていなかったのか、どれほど身勝手だったのかと本当に身に染みています」
「あ、あの、わ、
フェルディナンドに続いてエメラルダも謝罪の言葉を口にした。
その美しい顔は歪められ、その青い瞳からは今すぐにでも涙が零れそうになっている。
神妙な顔で背筋を伸ばし深々と頭を下げるその姿は、何処から見ても彼らが深く反省しているのがわかるものだった。
そして兄が口を開くまで、彼らは決して頭を上げようとはしなかった。
そんな弟夫婦の姿を無言のまま暫く見つめ続けたアンブロシオだったが、次第にその顔の険しさを解いていく。
そして最後にがっちりと弟の身体を抱きしめた。
「フェルディナンド!! とにかく無事で良かった、よくぞ生きて帰って来てくれた!! お前たちが家を飛び出してから、手を尽くして
アンブロシオは弟の顔を両手で挟み込みと、まるで言い聞かせるように大声を出す。
それから再びその身体を抱きしめると、満面の笑みで叫んだ。
「よかった!! 本当に良かった!! とにかく生きて帰って来てくれただけで俺は満足だ」
「に、兄さん……?」
兄の姿を見た時からずっと顔を強張らせていたフェルディナンドだったが、さらに厳しい兄の第一声で身を竦めて小さくなっていた。
自分たちの仕出かした事の大きさと残された者たちへかけた迷惑、そして傷つけられた家名に対して自分は何も反論できるはずもなかったのだ。
それを十分に理解するフェルディナンドは、どんな罵声でも甘んじて受け止めようと覚悟していた。
もしも顔を殴りつけられるのであっても、黙って耐えるつもりだったのだ。
それが気付けば自分との再会を喜ぶ兄の姿があり、しかも抱きしめられていた。
そのあまりの予想外の反応にフェルディナンドは呆気にとられるばかりだ。
しかしその反面、そんな兄に対して一瞬でも許してもらえないかもしれないなどと思ってしまった自分を彼は恥じていた。
そんな弟に向かって、アンブロシオは尚も言い募る。
「……とは言え、お前が多くの人間に多大な迷惑をかけたのは紛れもない事実だ。確かにお前との再会は嬉しいが、俺はそこまで許すわけではないからな。勘違いするなよ」
「は、はい。兄さん、それは重々承知しています。 ……本当に……本当にすいませんでした…… ぼ、僕は、僕は……」
次第にフェルディナンドの声に震えが混じりだす。
そしてがっちりと兄に抱きしめられたまま、彼は涙を流し始めたのだった。
すでに両親への謝罪は済ませていたフェルディナンドだったが、改めて兄に許しを請うために彼は緊張していた。
孫を連れ帰って夫婦二人で謝罪した結果、ひと悶着はあったものの、何とか両親二人は許してくれた。
しかし兄に至ってはどうなるかわからなかったのだ。
それまでも兄弟仲は悪くないと思ってはいた。
それでも自分の仕出かしたことの大きさを考えると、あの優しい兄とは言え謝罪を受け入れてくれないかもしれない。
そして一緒に逃げたエメラルダも、同様に受け入れてもらえないかもしれないと思ったのだ。
しかし予想に反してあっさり許してくれた兄を、フェルディナンドは涙が止まるまでひたすら抱きしめ返していたのだった。
「兄さん、迷惑をかけて本当に申し訳ありませんでした。僕がいなくなった後は色々と大変だったと聞いています。何度も領地と首都を往復して父上と一緒に方々に謝罪して歩いたとも…… その間は
「大丈夫よ、フェル。私はあんなものは苦労だなんて思わなかったし。ただ、生まれたばかりのライネリオのお世話には少し困ったけれどね」
そう言って笑うエヴェリーナの顔はとても優しく、慈愛に満ちていた。
その顔を見る限り、少なくとも彼女は二人の帰還を歓迎してくれているように見える。
そして今も泣きじゃくるエメラルダの肩を抱いて優しく声をかけてくれていた。
兄も
その事実に気付いたフェルは思わずそこに甘えてしまいそうになったが、やはりそこは最後まで筋を通すべきだと思ったようだ。
目の前の二人が浮かべる笑顔にも釣られることなく、緊張の面持ちで隣に佇む妻のエメラルダを改めて紹介した。
そしてその後もフェルディナンドは反省の弁を垂れ続けるのだった。
「フェル、お前の謝罪はもう十分聞かせてもらった。お前たちの言葉と態度からは深い反省と謝罪の気持ちが伝わって来たよ。――俺たちとしては、とにかくお前が無事に帰って来てくれただけで満足なんだ。だからと言って何のお咎めもないというわけにもいかないだろうが、すでにもう色々と咎めは受けているんだろう?」
「はい。向こう十年は派閥の会合や寄り合いには出られませんし、別途許可が下りるまでは全ての公式行事にも姿は見せられません――まぁ、僕らは事実上貴族界から干されたようなものなのでしょう。あとは父上と母上、そして家の仕事の手伝いをしながら娘の成長を見守るのみです」
些か自虐気味に笑う弟を眺めながら、アンブロシオは苦笑を浮かべた。
「そうか。まぁそれは仕方ないだろう。いや、むしろその程度の咎めで終わって本当に良かったと思うぞ。駆け落ち騒ぎだなんて、場合によっては二人とも廃嫡されていてもおかしくはないんだからな」
「はい、わかっています。それは、バルタサール卿の口利きがあったのでそうならずに済みました。なんともタイミングが良かったと言いますか……僕らは幸運だったのです」
「あぁ……ムルシア公か……」
フェルディナンドとエメラルダの心からの謝罪を最終的に笑顔で受け入れた兄と義姉だったが、最後のフェルディナンドの言葉に何かを思い出したように片眉を上げる。
そして祖父の背後に身体を半分隠している一人の幼女に気が付いた。
「ムルシア公と言えば――あの子がお前たちの娘だろう? 紹介してくれないか?」
その幼子は祖父のセレスティノの身体に隠れるようにして立っていた。
祖父の後ろに身体の半分以上を隠しながら、緊張した面持ちで彼女はこちらを覗いていたのだ。
半分だけ顔を覗かせるその姿は何処か微笑ましく、それは見る者に思わず笑みを誘う姿だった。
そしてその顔にはレンテリアの灰色の瞳が輝いており、その瞳の色は彼女がレンテリア家の血を引く者であることを間違いなく証明していた。
そんな愛娘に向かってフェルディナンドが手招きをする。
「ほら、リタ。こちらへ来てご挨拶をしなさい」
「……あい」
祖父に優しく背中を押されると、おずおずとリタがその姿を現した。
そしてゆっくりとアンブロシオの前に進み出ると、ピョコリとお辞儀をする。
「お
それは最近憶えたばかりの貴族子女の挨拶である「カーテシー」だった。
彼女はこれまでの練習の成果を見せて、それを完璧な形でこなす。
そして滑舌が悪く舌足らずな喋り方で必死に挨拶の言葉を交わす幼女の姿に、思わずエヴェリーナが声をあげた
「あらあらあら……これはこれは……まるで天使ね。 ――あなたがリタね? 話には聞いていたけれど、本当に可愛らしいわねぇ」
目の前でピョコリとお辞儀をしたリタの姿に、エヴェリーナは感嘆の溜息を漏らす。
それから優しく抱きしめたり、語り掛けたり、頭を撫でまわしたりと、まるで小動物を愛でるような仕草でリタをかまい続けた。
そんな妻の姿を見つめながら、アンブロシオはこの場の立ち話をやめて一旦屋敷に入ることを提案する。
その言葉を切っ掛けにして、その場の全員が客間へ移動して行ったのだった。
「私たちはこれから大人の話をするんだ。お前たちがいてもつまらないだろうから、何処かへ遊びに行ってもいいぞ」
「はい、父上。それでは僕はリタに屋敷の中を案内してもらいます。お話が終わりましたらお呼びください」
父親の言葉に息子のライネリオが即答する。
どうやら彼はその言葉を待っていたのだろう、客間に入った直後からアンブロシオの顔にチラチラと視線を送っていたのだ。
そして母親がその言葉に顔を頷けたのを見ると、早速彼は腰を浮かした。
その姿を見たフェルディナンドも、横に佇むリタに声をかけた。
「そうだな。悪いがリタ、ライネリオに屋敷の中を案内してあげてくれるかい? ――あぁそうだ。せっかくの機会だから、お前の魔法の練習の成果でも見せてあげると良い。今日もフィオレッティ先生は来ているんだろう?」
「あい。そりでは、
「あぁ、そうするよ。」
幼女特有の甲高い声に満足そうに頷くと、フェルは愛おしそうに娘を見送ったのだった。
そんなわけで大人たちが大人の話をしている間、リタとライネリオは部屋を追い出されてしまった。
もっとも追い出されたと言っても、あの部屋に四歳児と七歳児がいても退屈するだけなのは目に見えているので、彼らにとっては渡りに船と言ったところなのだろう。
その判断に満足そうな顔をした二人の幼児(ライネリオはもう幼児という年齢でもないが)は、それから数人のメイドと護衛の騎士を引き連れて屋敷の中を練り歩き始める。
そんな中、
「なぁ、お前、なんか赤ちゃんみたいな喋り方だな。もっとちゃんと話せよ、イライラするんだよ。何処か頭でもおかしいのか?」
そう口を開く彼の顔には、何処か人を蔑むような表情が浮かんでいた。
それは両親の前では決して見せない顔だった。
その豹変ぶりに驚いたリタが背後の護衛騎士を振り返ると、彼はその顔に苦笑を浮かべている。
その様子から察するに、いまの人を小馬鹿にしたような表情、話し方がライネリオ本来の姿なのだろうと思われた。
それを見る限り、七歳児のライネリオは痩せて小さな四歳女児に対して早速マウントを取りに来たのは間違いなかった。
初対面の年下相手にいきなりマウントを取ろうとするなど、それはとても大人げない行為なのだろう。
しかしライネリオ自身も幼い子供としか言いようのない年齢なので、それは仕方がないとも言えた。
しかしここに一つ、大きな問題があったのだ。
それは、リタ――アニエスが人にマウントを取られるのが大嫌いだということだった。
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