第74話 彼女の純潔の理由
リタがレンテリア家の屋敷にやって来てから一ヵ月が過ぎた。
その間もムルシア公バルタサール卿から婚約の件の正式な連絡はなかったが、話に聞けばバルタサールにしてリタを孫の婚約者にするのに苦労しているようだった。
肝心の息子嫁――リタの婚約者になる人物の母親――が、息子の嫁候補を伯爵家から選ぶのに難色を示しているらしい。
彼女曰く、最低でも同じ爵位――侯爵家以上からでなければ認められないそうだ。
そして彼女を攻略できなければ、その尻に敷かれている息子も同意しない。
それほどに息子嫁は、あのバルタサールをして難攻不落と言わしめるほどの女傑らしかった。
「脳筋」と揶揄される一族の中でも、さらに「女傑」と言われる嫁とは一体どれほどの人物なのかと非常に興味を引かれるところではあるが、話によると相当美しく、そして気の強い女性らしい。
そしてその妻に今でもベタ惚れするバルタサールの息子――オスカルは彼女の言いなりだそうだ。
そんなわけで、正式な婚約の申し入れはしばらく先になりそうだったのだが、それでも両親はそろそろその話をリタに伝えるべきだと思ったようだ。
それである日の昼下がり、いつものようにピピ美と一緒に昼寝をしようとしていたリタを呼び止めたのだった。
「なんじゃとぉー!?」
リタの第一声はそれだった。
レンテリアの灰色の瞳を見開き、大きな口を開けて母親譲りの整った顔に驚愕の表情を浮かべている。
そしてそのあまりの驚きのために、次の言葉が見つからないようだった。
「あのね、リタ。まだ正式な申し入れではないけれど、これはほぼ決まった話なの。あなたのいないところで勝手に決めてしまったのは確かに悪かったとは思うけれど、これは仕方のないことなのよ」
「そうだ、リタ。こうしなければお前も私達もこの家にはいられなかったんだ。ごめんな、わかってくれ。とと様とかか様の勝手を許してくれるかい?」
何やら両親が気の毒そうな顔をしながら説得を始めたが、当のリタは驚いた顔のまま固まっていた。
そんな姉貴分の姿を不思議そうな顔で見つめながら、羽音を立ててピピ美が飛び回る。
「ねぇねぇ、結婚ってなに? 婚約ってなに? ねぇねぇ、教えて、教えて!?」
「そうだなぁ…… えぇと、大人になったらお母さんになる約束をすることかな?」
「……それじゃあリタは、
不思議そうな顔をしながらピピ美が飛び回る。
彼女はリタの周りもクルクルと飛んでいるが、それでもリタは固まったままだ。
「そうねぇ…… 新しい家を作ると言えば、確かにそういう意味になるのかしら……? 新しい里ねぇ……」
「そうだな。それに近いだろう。いいかいピピ美? 人間はピクシーと違って別の人間と二人で新しい里を作るんだよ。それでリタと一緒にそれを作る人が見つかったんだ」
「ふぅーん、そうなんだ!! それじゃあリタは
「い、いや、ピクシーは生まないと思うけれど…… まぁ、つまりはそういうことなのかな」
そんな二人と一匹の会話を聞きながら、リタはひたすら昔を思い出していたのだった。
――――
前世でこの世に生まれ落ちて213年(正確には212年で転生したのだが)、アニエスは一度も結婚などをしたことはなかった。
それどころか、未だにユニコーンに跨れることからわかる通り、彼女は一生を純潔で過ごしたのだ。
前世でのリタ――アニエスが師匠であり養育者でもあったブルゴー王国の前宮廷魔術師ヒルデベルト・シュタウヘンベルクに路上で拾われたのは、今から207年前、彼女が六歳の時だった。
ある日ヒルデベルトが気まぐれに街中を散策していた時、偶然路肩に倒れていた幼女の姿が目に入った。
普段であればそんな浮浪児になど目もくれない彼だったが、その瞬間ヒルデベルトの目は大きく見開かれたのだ。
痩せて薄汚れ、見るからに臭いそうなその身体に、膨大な魔力のオーラを見た。
その大きさはまさにこれまで彼が見たことのないほどだったが、その身体の主は栄養失調で今まさに死にかけていたのだ。
するとヒルデベルトは、己の身体が汚れることも厭わずにその幼女を抱き上げると、そのまま自宅へと連れ帰った。
それが当時六歳だったアニエスだったのだ。
それからというもの、その身を拾い上げ、
もちろんヒルデベルトがアニエスを拾った理由は、彼女の隠された才能を見抜いた以外にはなかったのだが、それでも彼はまるで父親のようにアニエスに接してくれた。
物心ついた時から路上生活を続けて、すでに両親の思い出など殆どなかった彼女も、そんなヒルデベルトに対しては本当の娘のように振舞った。
思えば彼はその時からアニエスの才能を見抜き、将来の宮廷魔術師の座を譲るつもりだったのだろう。
そんな私生活では優しい父親のようなヒルデベルトだったが、こと魔法の勉強、訓練に関しては全く妥協せず、それはもう厳しいものだった。
そしてその期待に応えようと必死に食らいついたアニエスだったが、彼女がある程度独り立ちできるようになった時、気付けばとうに三十歳を過ぎていたのだ。
十五歳で成人を迎えて結婚し、
もっともその年齢で恋愛や結婚に彼女が興味を持っていたかと言えば、それは微妙だったのだが。
もちろんそんな青春時代を過ごした彼女には、色恋沙汰など全く縁がなかった。
もっともアニエスの名誉のために付け加えるならば、娘時代のアニエスは決して容姿に恵まれていないわけではなかった。
平均的な身長で、痩せぎすで出るところもほとんど出ていない身体つきだったが、それでも彼女の顔はそれなりに美しいと言えなくもない顔だちだったからだ。
しかし彼女は全く化粧気もなかったし、美しく着飾ることにも興味を持たなかった。
彼女の興味はひたすら己の魔法の知識と技術の向上、そして養父の期待に応えることにしかなく、極端に人と接するのが苦手な内向的な性格をしていたのだ。
今でこそ老人力を発揮して屈託なく誰とでも付き合えるが、当時は本当に人付き合いを苦手とする地味な少女だった。
しかしそんなアニエスにも、たった一人だけ彼女を好きだと言ってくれた男がいた。
それは彼女が二十一歳の時だった。
彼女が師匠の頼まれ事で頻繁に魔法省に通っていた時に、一人の青年と出会ったのだ。
彼は国の魔法省で役人をしている二十代半ばの青年だった。
その青年は毎日のようにアニエスが届けにくる師匠の書類を受け取るだけの人物だったが、次第にアニエスに対して親し気な口をきくようになった。
内向的で人付き合いの苦手なアニエスには最初のハードルは高かったとは言え、一度親しくなってしまえばすぐに雑談をするような仲になり、気付けば休日に食事に誘われるようにすらなっていた。
それまで色恋沙汰の経験が全くなかった彼女ではあるが、戸惑いながらもアニエスなりに週末を楽しみにしていたようだ。
しかしその直前に、アストゥリア帝国との小競り合いが激化。
急遽その青年は現場へと駆り出されて行ってしまった。
そして現地へと赴く前日の夜、突然アニエスの自宅に訪れた彼はたった一言アニエスに向かって「好きだ」と言った。
しかし彼は二度と戻って来ることはなかった。
アニエスは、ずっと彼を待ち続けた。
来る日も来る日も魔法省に書類を届けに行く度に、その青年の姿を探した。
一ヵ月経ち、二ヵ月経ち、しかしいつまで経ってもその姿を見つけることはできなかった。
するとある日、そんなアニエスの様子に気付いた他の職員が彼女に告げた。
彼はもう死んでしまったと。
話によれば、彼は魔術師だという理由だけで戦闘の前線に駆り出され、その後乱戦に巻き込まれて死んでしまったそうだ。
そして現地から届けられたのは、死亡通知というたった一枚の紙きれだけだった。
思い返して見ると、アニエスは彼のことを何も知らなかった。
年齢も、住んでいる場所も、家族も、出身も、何一つ知らず、唯一知っているのは「スヴェン」という名前だけだった。
アニエスは泣いた。
全力で家まで走って帰ると、彼女は自室に閉じ籠り翌日の朝まで泣き続けた。
しかしそんなアニエスの様子を心配したヒルデベルトの前に再びその姿を現した時には、すでに彼女はいつも通りのアニエスだった。
その日以降、アニエスは色恋沙汰に興味を示すことはなくなった。
もとよりそんなものに興味のなかった彼女ではあったが、以前にも増して頑なにそう言った話題を無視するようになったのだ。
そして気付けば212歳で転生するまで、彼女は純潔を守り通したのだった。
――――
「スヴェン……」
リタの口から謎の言葉が漏れる。
その場の全員がその言葉の意味がわからずにいると、次第にその白い頬にポロポロと大粒の涙が零れ始めた。
その言葉を口にするのは何年ぶりだろうか。
100年、150年――いや、正確に言えば192年ぶりだ。
永らくその名を口にしていなかったが、もうその名は忘れてもいいのだろうか。
彼は許してくれるのだろうか。
このままいけば、自分はこの家のために結婚させられる。
行きがかりとは言え、貴族の枠組みの中に組み込まれてしまった以上、それは仕方のないことだろう。
これまでも自分は二百年以上に渡って我が儘を貫いてきたのだ。
だからそのことに関しては否やはない。
確かに今まで経験したことのない、結婚、出産というものに恐怖がないかと言えば嘘になるが、こうなってしまった以上受け入れるしかないのだ。
ただし、自分がスヴェン以外の男を愛せるか自信はなかった。
「あぁ、リタ、泣かないで…… そんなに婚約するのが嫌なの? 気に入らないの?」
「そうだ、リタ。勝手にこんな大切なことを決めてしまって、とと様もかか様も悪いことをしたとは思っているんだよ。ごめんな、許してくれ」
突然涙を流し始めた娘に、両親はおろおろと落ち着きがなくなる。
そしてその周りではピピ美が忙しなく飛び回る。
リタ――アニエスの事情を知る由もない両親はリタが泣き出した理由を取り違えていたが、彼女は決してそれを改める気はなかった。
彼らが誤解するのであればそのままにしておけばいい。
リタはただそう思うだけだった。
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