第73話 幼女の新しい日常

 レンテリア家とラローチャ家、この両家の合意によってフェルディナンドとエメラルダは正式に夫婦となることが認められた。

 そして二人の間に生まれたリタも、伯爵家の家族として晴れて仲間入りすることになったのだ。


 その事実はリタの両親及び祖父母のみならず、屋敷の使用人たちにとっても本当に嬉しい出来事だった。

 両親、祖父母はもとより、使用人たちもリタの愛らしさにすっかりやられてしまっていたし、いま街で話題の美少女が自分の屋敷の令嬢であることが、彼らにはとても誇らしかったのだ。



 それまで彼らはリタのことを正式に「お嬢様」と呼ぶことができなかった。

 なぜならそれは、両家の合意がなされるまでフェルディナンドとエメラルダ、いてはリタの所属先が不明確だったからだ。


 しかしその合意がなされた今となっては、正式にリタを「お嬢様」、そしてエメを「若奥様」と呼べるようになった。

 もっとも書類上の手続きがまだ終わっていないので、あくまでもそれは屋敷の中に限定したものでしかなかったのだが。


 しかしそれも数日中には二人の婚姻とリタの出生を手続きするのは決まっていたので、対外的にもそう呼べるようになるのは時間の問題だった。



 ラローチャ子爵家夫妻は、バルタサールによる想定外の提案を土産にして、ほくほく顔で気持ちよく領地へと引き上げて行った。

 彼らにしてみれば、フェルとエメが駆け落ちなどせずに最初から正式な夫婦になっていたとしても、現在の状況となんら変わることはなかったのだ。

 いずれにしても他家に娘を出すことに違いはなかったので、いまさら否やはなかった。


 そこに今回「魔力持ち」の家から孫に婚約者を紹介してもらえるという、思いもよらぬ土産を貰うことができた。

 それは彼らにとってこれ以上ないものだったのだ。

 これでラローチャ家五代に渡る悲願が達成できるとあれば、もはやフェルとエメの結婚に異論などあろうはずもない。


 今回正式に外孫になってしまったとは言え、それでもやはりリタは可愛い孫であることに変わりはなく、ラローチャ夫妻は何度も彼女の身体を抱きしめては名残惜しそうにしていた。

 その気持ちが痛いほどわかるレンテリア伯爵夫妻は、途中で口を挟むなど野暮な真似は一切せずに、二人のするに任せたのだった。



 ここに辿り着くまでには様々な困難があり、時にはこれで終わりかと諦めそうになったこともあった。

 しかしその度に考え、手を尽くし、時に偶然に助けられながらここにたどり着いたのだ。


 確かにこれからも様々な問題や困難もあるだろうが、世界で一番可愛い孫娘の笑顔さえあれば、どんなことにでも耐えていける。


 そう思わざるを得ないレンテリア伯爵夫妻だった。




 ――――




「のう、こりはなんじゃ? 旨いのか?」


 リタたちが正式にレンテリア家の家族になって十日ほど経ったある日のことだった。

 調理担当者たちが昼過ぎの厨房で夕食の仕込みをしていると、突然背後から甲高い声をかけられた。


 その声に調理師見習いの十四歳の少年――チーロが振り向くと、そこに小さな幼女が佇んでいた。

 綺麗に整えられたプラチナブロンドの髪を垂らし、灰色の瞳で厨房を覗き込むその姿はとても愛らしく、まさに四歳児にしか持ち得ない愛嬌が自然に滲み出ている。


 その姿に気が付いた厨房中の者たちが何事かと思わず注視していていると、その幼女はニコリと笑顔を浮かべた。



 金色の髪に灰色の瞳の幼女――もちろんそれはリタだった。


 ラローチャ子爵が帰宅し、フェルディナンド夫妻の婚姻とリタの出生の手続をした翌日以降、すっかり落ち着きを取り戻した屋敷内をリタが探検という名の散歩をするのが日課になっていた。

 そして今日は仕込み中の厨房に漂う美味しそうな匂いを嗅ぎつけて、ふらふらと立ち寄ったらしい。


 そんな幼女の姿に初めこそ驚いたチーロだったが、よく見ると実家の弟妹たちとそう変わらない年齢のリタに親近感を覚えたようだ。

 彼はニコニコと笑顔を浮かべたまま、目の前の幼女の問いに答えた。

 


「これはリタ様。これはクリームです、甘いですよ。牛の乳から作りました」


「おぉ、こりがのぉ……」


「これからこれを鍋で煮るのです。今夜のお料理に出てきますので、楽しみにしていてください。 ――ところでどうされたのですか? もしかしてお散歩中ですか?」


「おう、そうじゃ。なにもしゅることがなくて、暇でのぉ。それで散歩しゃんぽをしておったら、なにやら美味しそうな匂いがしたものでな」


「そ、そうですか……」


 思えばチーロは、リタが言葉を喋ったところを初めて見た。

 するとその奇妙な口調とイントネーションに些か驚きを隠せなかった。


 見た目はこんなに可愛いのに、どうしてこんなおかしな話し方なのだろうと彼は思ったが敢えて口には出さなかった。

 たとえ相手が四歳の幼女だとしても主人の家族に違いはなく、そんなことを聞くのは不敬にあたると思ったからだ。


 そんなチーロをリタが上目遣いに見つめてくる。

 その様子を見る限り、どうすれば自分が一番可愛らしく見えるかを彼女はわかっているらしい。

 そして今のポーズは、人にお願いを聞いてもらうためのものなのだろう。



「のう、お願いがあるのじゃが…… 訊いてくれるかのぉ?」


「は、はい。どのようなことでしょうか?」


「しゅまぬが、この干し肉とリンゴを一欠片ひとかけら分けてくれんか?」 


 そう言うとリタは、短い腕と指を必死に伸ばして、目の前の食材の入った籠を指差した。

 透き通るようなレンテリアの灰色の瞳はキラキラと輝き、その顔を見ただけで全てを許してしまいそうになる。

 そしてチーロもまんまとその罠にはまっていたのだった。


「は、はい、どうぞ。えぇと、このくらいでいいですか?」


「うむうむ、十分じゃ。かたじけない、礼を言う。――ところで、おまぁの名は?」


「えぇと、チ、チーロと申します。ここで調理師見習いとして雇っていただいています」


「ほう、チーロか。わちはリタじゃ、よろしくのぉ」


 そう言うとリタは、目当ての食材を受け取りながらニカっと笑う。

 その顔は確かに愛らしかったが、何処かで見たような別の表情も混じっているような気がした。

 そしてそれが何なのか、何処で見たのかををチーロが考えているとおもむろにリタは口を開いた。

 



「ピピ美や、ほれ、おやちゅだじょ。おまぁの好物のりんごじゃ、ほれ、食べれ」


「やったー、おやつ、おやつ。ありがとう、リタ。どこかに座って一緒に食べよう!! うんうん、食べよう食べよう!!」


 チーロの耳に、突然そんな声が聞こえた。

 それはとても甲高く耳に刺さるような声だったが、小鳥のさえずりにも似て決して不快なものではなかった。

 しかし声は聞こえど姿が見えず、チーロがキョロキョロと周りを見廻していると、突然リタのドレスの胸元から何かが飛び出して来たのだった。



 それは小さな妖精だった。

 透き通るような長い金色の髪はキラキラと光り輝き、1センチ程度しかないとても小さな顔はよく見るととても整っている。

 顔のバランスから言えば若干大き目の瞳は悪戯っぽく吊り上がり、その全体が緑色に染まっていた。


 そして絶えず薄い緑色のオーラのようなものを漂わせるその小さな身体は、恐らく十センチ程度しかないだろう。

 人間で言えば凡そ十歳ほどの全裸の少女が、まるで昆虫のような羽を動かしながら宙を舞っていた。


 その人形のような愛らしい姿は、同じ金色の髪のリタと相まってまるで姉妹のようにも見えたのだった。


 

「リ、リタさま!! そ、それは……?」


 突然目の前に現れた妖精の姿に、腰を抜かす勢いでチーロが尋ねる。

 するとリタは鷹揚に頷いた。


「うむ。こやちゅは『ピピ美』じゃ。わちの子分じゃな。よろしゅう頼む」


「ねぇねぇ、誰が子分なのよ? ねぇねぇ、やめてよね、本当に!! ぷんぷん!!」


 リタの言葉に思わず抗議の声をあげるピピ美だったが、すでにチーロはそんな事には構っていられなかった。

 確かにこの世には人間以外の種族も多数存在するのは知っていたが、まさかこんなところで見られるとは思っていなかったのだ。


 しかも森の奥地まで分け入らなければ、その姿を見ることも叶わないピクシー族など、滅多に見られるものではない。

 


「なんぞ、冗談ではないか。しょんなに怒らんでもよかろうもん。――それじゃあ、これでわちらは行くのじゃ。ではのぉ、チーロや。達者でのぉ」


「バイバイなの、チーロ。リンゴをありがとうなの」


「バ、バイバイ……」


 なんだかよくわからないうちに小走りで去って行くリタの背中を見つめながら、調理師見習いのチーロは呆然と佇んでいたのだった。




 その後二人は玄関横のベンチに腰かけると、短い脚をぶらぶらとさせながらリタは干し肉を、ピピ美はリンゴをモッチャモッチャと頬張り始める。

 そしてその前を多数の使用人が通り過ぎていく。


 するとその殆どの者は、仲良くベンチに腰かけて口を動かす一人と一匹の姿を驚きの顔で見つめていたのだ。

 その驚きはピピ美を二度見、三度見までするほどだったが、さすがに主人の家族であるリタに気軽に質問をしてくる者はいなかった。


 

 暫くその場で忙しそうに動き回る使用人をモチャモチャと口を動かしながら眺めていると、突然後ろから声をかけられてしまう。

 その声はここ最近聞くようになった新しいもので、リタはその声の主を苦手にしていた。


「リタ様、ここにいらっしゃったのですね。どちらへ行かれたのかと思って彼方此方あちこち探し回りましたよ!! さぁ、マナーのお勉強の続きをいたします。どうぞこちらへお越し下さい」


 そう言いながらリタに向かって手招きをする三十代の女性。

 それは家庭教師兼マナー講師のスヴェトラ女史だった。

 リタが正式にレンテリア家の令嬢になった翌日、早速彼女はレンテリア家の祖父母に雇われたのだ。



 レンテリア伯爵夫妻――特に祖母のイサベルは、リタの行儀やマナー、そして特に話し方をとても気にしていた。

 いまのままのリタでも十分に可愛らしいのだが、さすがにこのまま公式な場に連れ出すのは憚れた。


 彼女の場合はただの滑舌の悪い四歳児に留まらず、その妙に年寄りのような口調が見る者におかしく思わせる。

 だからイサベルとしては、講師を雇ってまでその口調を直そうとしたのだ。

 

 近いうちにムルシア家の面々の前で挨拶をすることになるはずだ。

 それはもちろん、先日約束を交わした婚約者の件でだ。

 だからイサベルは、それまでになんとかしなければいけないと思ったのだろう。

 もっともこんな短時間でどうこうできるようなものではないのだろうが。


 しかし、未だ四歳の幼児とは言え、さすがに将来の侯爵夫人になろうとする者が「わしはリタじゃ。よろしゅう頼む」などと言った日には目も当てられない。

 少なくとも、最初の挨拶だけでも貴族令嬢らしく振舞えなければいけなかったのだ。



 未だ新しい生活に慣れていないように思えたため、婚約者の件はリタには伝えていなかった。

 とにかく今はこの生活に一日でも早く慣れてもらうことを優先したからだ。

 それで最初のひと月は彼女の好きにさせてあげたいと思った。

 

 しかしそれにはあまりにも時間がなさ過ぎた。

 それで挨拶だけでも完璧にしようと思ったイサベルは、急遽マナー講師のスヴェトラ女史を雇ったのだ。


 その彼女が、途中でレッスンを逃げ出したリタを連れ戻しに来ていた。

 散々屋敷の中を探し回った挙句、やっと見つけた四歳児はもっちゃもっちゃと口を動かして何かを食べていた。


 そんな彼女を情け容赦なくスヴェトラ女史が連れ戻そうとする。

 するとその姿に気付いたリタは、突然大きな声をあげた。


「ピピ美よ、敵に発見されてしもうた!! ここは戦略的撤退じゃ、良いか!?」


「了解であります、隊長どの!!」


「よし、逃げるぞ!! それぇー!!」


「おー!!」


「あっ!! リタ様、いけません!! 戻ってらっしゃい!! リタ様――――!!」


「戻れと言われて、戻るあほぅがおるかいな!! さらばじゃ!!」


「あぁ、リタ様――!!」



 夕暮れの迫る閑静な貴族邸宅に、賑やかな叫び声がこだまする。


 レンテリア伯爵夫婦は、半分呆れ、そして半分は楽しそうにその声を聞いていたのだった。

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