第67話 幼女の想いと大人の事情
「なるほど……フェルディナンド殿の言われることも、確かにもっともではありますなぁ……」
フェルの提案に対してラローチャ子爵家当主、マルセロ・ラローチャが唸るような呟きを零す。
そして己の顎を擦りながら、何処か遠くを見つめるような仕草をした。
その姿を見る限り、直前のフェルの言葉を本気で検討に値するものとして捉えているのは間違いなかった。
しかしその姿にレンテリア伯爵夫人イサベル・レンテリアが、椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がる。
もとよりつり目がちな瞳はより一層吊り上がり、その頬は興奮を表すように紅く上気していた。
「フェルディナンド!! あなたは何を勝手なことばかり言うのです!! そのような世迷い言、このレンテリア家が許すとでも思っているのですか!?」
叫びつつ横の夫を見つめるイサベル。
しかし彼は妻の剣幕とは裏腹に、黙って息子を眺めているばかりだった。
とても落ち着いたその様は、感情的に叫んでしまった妻とはまるで対照的で、そんな二人の相対する態度に視線を向けながら尚もフェルは口を開く。
眉間には深いシワが刻まれ、それが苦渋の選択であることを物語っていた。
「……しかし母上、私たち家族が離ればなれにならない方法は
「り、理解って……そんな理解など出来るわけがありません!! そのような無茶が通ると思っているのですか!? 何を勝手に――」
「しかし母上!! 私にはこれ以上の――」
「だまらっしゃい!! あなたはレンテリアの名をどう思っているのですか!? 次男のあなたにはただの家名なのかもしれませんが、これは先祖から代々受け継いだ――」
イサベルとフェルが互いに互いの言葉を遮りながら、ひたすら平行線を辿っていく。
するとその様子を眺めていたマルセロが、二人の言葉に口を挟んだ。
子爵が伯爵家の者の言葉を遮るなど不敬の極みだが、いまやこの場の全員がそんなことには構いもしなかった。
「いや、確かにフェルディナンド殿の提案は非常に魅力的ですな。エメラルダは夫、娘とも離ればなれにならずに済むし、我がラローチャ家には『魔力持ち』の血が流れ込む。そして事件の当事者を廃嫡することによって、レンテリア家は対外的に事件の決着をアピールできるのです。そのうえ、ムルシア侯爵にも申し訳が立つ。 ――これはまさにウィンウィンではないですか」
何気に満足げな笑顔を浮かながら、勢いよくマルセロが言い立てる。
未だレンテリア家の回答が示されていないにもかかわらず、まるで決定のように言い募る様は、それだけこの話に説得力と現実味があるからなのだろう。
しかしそんな彼に対し、イサベルは尚も言葉を並べる。
「なにがウィンウィンなのですか!? なにが申し訳が立つのですか!?」
「いや、これはまさにその通りでしょう。私としてはこれ以上の解決策はないかと――」
「確かにそれが最上の方法かもしれませんし、フェルディナンドもよく考えたものだと
「想い……想い、ですか? それは――」
思わず口走ったイサベルに、マルセロが怪訝な顔をする。
どうやら彼は、伯爵夫人の言わんとすることを汲み取れなかったらしい。
しかしイサベルは、訝しむようなマルセロの視線を受けながら、小さな溜息とともにゆっくりとその頭を振った。
「……いえ、何でもありません。忘れてください」
そう言うとイサベルは、リタがいるであろうテラスの方へ顔を向ける。
もちろんそこからは壁の向こうの彼女が見えるわけもないのだが、まるでイサベルの目には天使のようなリタの姿が見えているようだった。
そして同じ方向を、横に座る夫――セレスティノも同じような顔で見つめていたのだった。
その後も三人の意見――話し合いは平行線を辿ったまま、最後には出口の見えない言い合いに発展していく。
すると
「ここまでお話を聞かせていただきましたが、失礼ながらこれ以上話を続けても決して結論は出ないでしょう。無論私としてもお話したいことはありますが、この場は一旦私に預けて頂けませんか?」
本来であれば彼がこの場のホストなのだが、実際の話し合いは全て妻に任せて、彼は終始無言のままこの場の意見に耳を傾けていた。
そして何を思ったのか、突然この場を締めようとしたのだ。
全員の視線がセレスティノに集まる。
それはイサベルとフェル、そしてラローチャ子爵夫妻のみならず、筆頭執事のエッケルハルトから部屋付きのメイドまでを含めた全てだった。
彼らは突然口を開いたレンテリア家当主の発言に注目していた。
「マルセロ殿もジェセニア殿も夜通し馬車に揺られてお疲れでしょう。とりあえず今夜は美味しい料理でも召し上がって頂いて、ごゆるりと身体をお休めになられるのがよろしいかと。二、三日中には再度このような場を設けますので、それまでお休みください」
いかにも学者然としたセレスティノの物腰は柔らく、決して高圧的ではなかったが、その口調からは有無を言わさぬ強い意思が感じられ、全員を見つめる灰色の瞳には深い思慮が感じられた。
この屋敷の主であり、伯爵家当主が提案したのだ。
それぞれにどんな思惑があるにせよ、この場はそれを受け入れざるを得なかったのだった。
その日の夜に、ラローチャ子爵の歓迎の宴が開かれた。
もちろんそれは公式なものではなく、家族だけのこじんまりとしたものだ。
そしてその場でもリタは両家の祖父母に愛想を振りまいていた。
それは事前にエッケルハルトから言い含められていたのもあるが、彼女としても自発的にそうしていたのだ。
リタとしてはこのままレンテリア家に残るのが希望だった。
下位貴族は上位貴族に逆らうことができない。
だからもしもこのまま貴族の一員となるのであれば、少しでも位の高い貴族になるべきなのだ。
そうすることで、己の自由を少しでも多く担保できる。
それは二百年近くに渡って多くの貴族の栄枯盛衰を見て来た彼女なりの結論だった。
今日一日、リタは物珍しく屋敷の中を歩き回りながら、出会う人間全員に愛想をふりまいていた。
そしてさらに宴の席でもそうしていたせいだろうか、疲れ果てた彼女は途中でうつらうつらと船を漕ぎ始めてしまう。
右手のフォークに肉を刺したまま、幼児用の椅子の上でゆらゆらと身体を揺らすリタの姿はとても微笑ましく、そして可愛らしいものだった。
母親譲りのプラチナブロンドの髪はシャンデリアの灯りを反射して光り輝き、さらにその長い
夏場の日焼けで些か黒くなってはいるが、それでも十分に白い顔はまるで神の造形かと思うほどに整っており、その姿は将来の美少女、延いては美女と呼ばれることが約束されているようだ。
その姿を見る限り、成人した暁にはその優れた容姿だけでも数多の貴族から縁談が持ち込まれるのは想像に難くない。
いや、場合によってはそう遠くない未来に、有力な貴族の子息の婚約者として請われるかもしれない。
それほどまでに、リタの容姿は飛びぬけていた。
もちろんそれは両親、祖父母の贔屓目を抜きにしてもだ。
これまでは貧しい田舎暮らしのうえに擦り切れた
夏場の農作業ですっかり泥だらけで真っ黒く日焼けをしていたし、川での水浴び程度では常に清潔だとは言い難かった。
それが風呂に入って身体を洗い、髪を切り、真新しいドレスで着飾った彼女の姿は、生まれた時からその容姿を見て来た両親をして驚かせるものだったのだ。
確かにリタの顔は母親のエメに似てとても整っていたし、親の贔屓目もあるのだろうが、とても可愛らしいとは思っていた。
しかしいざこうして着飾った姿を客観的な視線で見て見ると、彼女の愛らしさはまさに異次元だった。
その姿は、まさに天使か、小さな女神と言っても過言ではなかったのだ。
そんな孫娘にすでにメロメロになっている四人の祖父母の視線を集めているうちに、ついに彼女はソース皿の上に顔ごと突っ伏してしまった。
「うぶぶぶ……ぶはっ!! 」
お付きのメイドとエメが慌てて身体を起こすと、リタはその愛らしい灰色の瞳を白黒させていた。
その白い顔はソースで茶色に染まり、金色の髪も前髪の部分がベトベトになっている。
そんな見る者が思わず笑いそうになるような自身の姿に全く気付くことなく、彼女は小さく呟いた。
「はぁはぁはぁ……な、なんぞ、死ぬかと思うたじょ……」
その言葉の直後、その場には大きな笑い声が響いたのだった。
「よろしいですわ、エメラルダさん。あなたはそこにいて下さい。リタは
メイドの手を借りてエメがリタを椅子から下ろしていると、向かいの席からイサベルが声をかけてくる。
直前に大笑いをしたせいなのか、いつも固く引き締めている口元は未だ柔らかく緩んだままだ。
突然伯爵夫人に声をかけられたエメは思わず緊張して背筋を伸ばしたのだが、夫人の優しげな微笑みを見てその申し出を受け入れることにした。
それはリタを見つめる慈愛に満ちたイサベルの眼差しに気付いたからだ。
彼女はいまや伯爵夫人ではなく、可愛い孫娘の世話を焼きたがる祖母でしかなかったのだ。
メイドの手を借りながら、それでもイサベル本人の手によってリタは風呂に入れられた。
通常そのような世話は全て専属のメイドが行うのだが、この場ではイサベルが自らの手でやりたがったのだ。
それは、それだけ彼女がリタに関わりたいと思う気持ちの現われだった。
自らの手で汚れた孫のドレスを脱がし、裸を抱えて浴槽に入れ、優しくその身体を洗う。
その一連の動きは確かにぎこちなく、やり慣れているとは到底言えなかったが、幼児特有のポッコリとしたイカ腹の目立つ裸を愛おしそうに見つめるその顔は、
気の強そうなつり目がちの瞳は優しく細められ、口元には柔らかい微笑が浮かび、まるで壊れ物を扱うかの如く孫娘の身体を丁寧に洗うその様は、紛れもなく孫を慈しむ祖母の姿そのものだった。
風呂で身体を洗われている時から何度もあくびを繰り返していたリタは、風呂上りにそのままベッドへと連れて行かれる。
もちろんその場にはイサベルの姿もあった。
彼女は遠慮をするメイドを言い包めると、そのままリタのベッドの横に腰をかけた。
そして孫が眠りに就くまで、毛布の上から優しくトントンとその柔らかい身体を叩き始めたのだった。
薄暗い寝室のベッドの中から、レンテリアの灰色の瞳が覗く。
蝋燭の灯りを反射して何処か幻想的に見えるその瞳は、ジッとイサベルの顔を見つめていた。
そして口を開く。
「お婆しゃま。わちは、ラローチャのお家に行くのかの? ここにはおられんのかの?」
突然の問いかけに、イサベルは思わず苦しそうな顔をする。
何故なら彼女は、その問いに対して今は明確な答えを持っていなかったからだ。
そんな瞳の色に吸い込まれそうな錯覚を覚えながら、イサベルは口を開いた。
「……そうですね。あなたにはまだわからないでしょうけれど、これは難しい問題なのです」
「ほうか……でもわちは、ここにおりたいのぉ。お爺しゃまとお婆しゃまと一緒におりたいん」
「リタ……そうね、
「ほな、そうすればええじゃろ? ダメなんか?」
「ダメではありません。しかし、これには色々と――」
「ほんじゃ、ええじゃろのぉ。わちはお婆しゃまが
リタの灰色の瞳に涙が浮かぶ。
その小さくて可愛らしい鼻を鳴らして、彼女は必死に涙を我慢していた。
その姿にイサベルはハッとした。
昨日出会ったばかりなのに、今となっては溺愛していると言っても過言ではない孫娘の口から好きだと言われたのだ。
そして一緒にいたいとも言われた。
昨日の話もそうだったし、今日の話し合いでも常に自分たちは大人の事情ばかりを言い合っていた。
思えばそこに、肝心な孫娘の希望を顧みる者は一人もいなかったのだ。
本来、そうではないだろう。
大人達の事情によって揺れ動く、この不憫な孫娘の想いを一番大切にしてあげなければいけないはずなのだ。
そこには
目の前の孫娘を守ることだけが今の自分の使命なのだ。
図らずもリタ本人からそれを思い知らされたレンテリア伯爵夫人イサベル・レンテリアは、涙を流したまま寝息を立て始めた最愛の孫娘の姿を、いつまでも見つめ続ける。
そしてその薄茶色の瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれていたのだった。
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