第55話 進むも地獄、退くも地獄
「エッケルハルト!? エッケルハルトじゃないか!?」
「フェルディナンド様!! あぁ、やはりそうだったんですね!!」
静寂が支配する地方執行官事務所の中庭に、突如フェルの声が響き渡った。
するとそれまで死を覚悟していた騎士たちも、思わずそちらへ目を向けてしまう。
そこには防護壁から顔を覗かせて、まるで場違いな大声を出すフェルがいた。
そしてエッケルハルトと呼ばれた初老の男も驚きを隠せずにいたのだが、目の前に立ちはだかるヘカトンケイルに腰が引けてしまい、近づきたくても近づけずにいた。
それに気付いたリタは、巨人に向かって声をかける。
「おぉ、ヘカトンケイルよ。おまぁ、ちょっち待て。そのまま
ゲプハルトをはじめ、地方執行官や騎士たちを牽制する指示をリタが出すと、巨人は無言のまま僅かに頭を縦に振る。
その様子を見る限り、この二人には間違いない主従関係が見て取れた。
その事実に驚きを隠せないエッケルハルトではあったが、それでも小走りにフェルのもとへと近づいていくと勢いよくその身体を抱きしめた。
「あぁ、坊ちゃま、フェルディナンド様!! 探しましたよ!! やっと見つけた!! やはりあなた様だったのですね!!」
「エ、エッケルハルト、おい、ちょっと――」
驚きのあまり緊迫した状況すら忘れてしまったフェルは、その顔に戸惑いの表情を浮かべてしまう。
それでも彼は、抱きしめられるに任せていた。
その後ろでは妻のエメも驚いたまま二人を見つめており、それに気付いたエッケルハルトは急にバツの悪い顔をしたかと思うと、そっとフェルから離れた。
そんな彼にエメが話しかける。
「エッケルハルト…… どうしてあなたがここに……?」
「あぁ、エメラルダ様。お久しぶりでございます。相変わらずお美しく――」
エメを見つめるエッケルハルトの瞳はとても優しく、フェル同様に嬉しそうな笑みを浮かべた。
相手が女性なのでさすがに抱き締めたりはしなかったが、実のところ彼はそうしたかったらしい。
その証拠に、何度も抱きしめるような素振りを見せていた。
久しぶりに再会した二人の顔を嬉しそうに見つめるレンテリア伯爵家筆頭執事だったが、その時エメの背後に隠れるように顔を覗かせる一人の幼女に気が付いた。
顔半分が隠れているので全容は不明だが、その女児はエメそっくりの輝くようなプラチナブロンドの髪とフェルと同じ灰色の瞳を持っていた。
その瞳の色は、代々のレンテリア家の者が持つ特徴的な色に違いなかった。だから彼にはすぐにわかったのだ。
エッケルハルトは確認するように質問をした。
「あの……失礼ながら、こちらのお嬢様は……もしかして……」
「あぁ、そうだよ。私たちの娘のリタだ。いま四歳なんだ」
エッケルハルトの予想通り、その女児は紛うことなき二人の子だった。
そして愛娘を紹介するフェルの顔には、間違いようのない誇らしさに満ちており、その言葉にリタの顔を凝視したエッケルハルトは、何を思ったのか突如その瞳を潤ませ始めた。
「あぁ……これは……この髪色はエメラルダ様と同じですね……そしてこの灰色の瞳は間違いなくレンテリア家の色。 ……あぁそうだ、このお方は間違いなくセレスティノ様のお孫様なのだ……」
まるで危機感の感じられない会話を聞いていると、まるでそこだけ別の時間が流れているような錯覚に襲われてしまう。
しかし突如この緊迫した状況を思い出した彼らは、慌てたように説明を求めた。
「と、ところで、あなた様のその顔は? それにあの巨人は? そして彼らはどなたですか? ここではいったい何が――」
まるで答える間も与えずに、矢継ぎ早に質問を投げつけるエッケルハルト。
その彼に向かってフェルは、何とか言葉を差し込んだ。
「あぁ、これは――」
フェルの話に暫く聞き入っていたエッケルハルトは、事が昨日の捕縛と暴行、そして処刑宣告を受けた話に至ると、その顔に明らかな憤りを浮かべ始める。
そして赤黒く腫れたフェルの顔を痛ましそうに見つめた。
相変わらず丁寧な口調のままではあるが、彼が相当腹を立てているのは付き合いの長いフェルにはすぐにわかった。
そんなエッケルハルトは慇懃な姿勢を微塵も崩すことなく、ゲプハルトの方へ向かって大きな声を張り上げたのだった。
「
突如朗々と声を上げ始めた見慣れない男に、その場の全員が大人しく聞き耳を立てる。
それは彼の話が興味深いためなのか、それとも目の前に佇む巨人に恐れをなしているからなのかはわからなかったが、状況から言って後者であるのは間違いなかった。
しかし理由はどうであれ、静まり返った裏庭に響き渡るその声に全員が聞き入っていたのは紛れもない事実であったし、名前が挙がったゲプハルトが胡乱げに言葉を返したのもまたそうだった。
「な、なんだ!? レンテリア伯爵家の者が、一体ここになんの用だ!?」
「あぁ、これはゲプハルト庶務調査官殿ではありませんか。 ――ご機嫌麗しく」
「しゃ、社交辞令はいい!! 訊かれたことにさっさと答えろ!!」
「それでは畏れながら申し上げますが――ゲプハルト様は、こちら様のことはご存じでしょうか?」
そう言ってエッケルハルトがフェルに掌を向けると、ゲプハルトは怪訝な顔を返した。
「なんだ、その田舎農夫がどうかしたのか!?」
「そうですか、ご存知ありませんか。 ――それではお教えいたしますが、このお方はレンテリア伯爵のご次男のフェルディナンド様ですよ」
「な、なにぃ!?」
その言葉を聞いた途端、ゲプハルトの眉が跳ね上がる。
レンテリア伯爵家といえば、自身の実家――ゲプハルト男爵家の上位のオットー子爵家のさらに上位の貴族家だ。
爵位で言えば二つも上であるために、どのような事情があろうとも
しかも財閥系貴族家としてここハサール王国ではあまりに有名すぎて、その権力の及ぶ範囲は計り知れない。
その事実にも愕然としたが、そんな相手に自分が何をしたのかを思い出すと、思わず顔を真っ青にしてしまった。
知らなかったとは言え、そんな人物に暴力をふるい、痛めつけ、
もしそれが伯爵家の耳に入りようものなら、その報復は恐ろしさのあまり想像すらできない。
その事実に思い至ったゲプハルトは、顔中から脂汗を滴らせながら、それでも自身の運命に抗おうとする。
「な、なにを適当なことを!! そ、そもそもお前だって、本当にレンテリア伯爵家の者なのか? どう見ても怪しいではないか!? しょ、証拠はあるのか? あるなら見せてみろ!!」
「ふむ、証拠ですか……証拠……まぁ、確かにそんなものはありませんな。それで信じていただけないと仰られるのであれば、致し方ないかと」
そう言いながらエッケルハルトは、チラリと視線を遠くに投げる。
するとその先には、彼が乗って来た馬車が停まっていた。
それには大きくレンテリア家の紋章がついており、御者も護衛の騎士も皆同じ紋章を付けているのが見える。
その様子を見る限り、彼も含めた全員が伯爵家の人間であることは間違いなかった。
その彼に向かって、エッケルハルトは冷ややかな視線を向けた。
「信じるも信じないも、あなた様次第です。もしも信じられぬと仰るならば、どうぞご自由に捕縛していただいて結構です。 ――ただし、我々は全力で抵抗させていただきますので、ご了承いただきたく」
「て、抵抗?」
「聞こえませんでしたか? 抵抗ですよ、抵抗。もちろんこの巨人に力を借りて、あなた方全員を叩き潰す……そういう意味に他なりません。 ――仮にも
自分から証拠を示せとは言ったものの、彼らが伯爵家の人間であることは今やゲプハルトも確信せざるを得なかった。
そして今は動きを止めてはいるが、これ以上自分たちが何かしようとするならば、彼はあの巨人をけしかけると言っているのだ。
その事実に、遂にゲプハルトはその膝を屈した。
そしてよろよろと力なく前に出る。
「くっ……し、知らなかった……知らなかったんだ。その男……いや、そのお方が伯爵家のご次男だったなんて……」
「知っていた、知らなかったは関係ありません。今やレンテリア伯爵家のご次男を暴行し、
「し、しかし、まさかその男が――」
「くどいですよ、庶務調査官殿。たかが男爵家が伯爵家に乱暴をはたらいたのです。これが何を意味するのか、どういう結末を迎えるのか、そしてどのように責任を取るべきなのかは、さすがのあなた様にもおわかりでしょう?」
「く……く……」
「もしもそれすらもおわかりになられないと仰るならば、それこそ目も当てられません。 ――よくぞ男爵などと爵位を名乗られていらっしゃると、本気で呆れる次第でございます」
「くっ……うっ……しかし……」
腹の底から絞り出すような、何処か獣じみた唸り声を上げ始めたゲプハルト。
この期に及んで言い訳を考えているようだったが、全くかまうことなくエッケルハルトが話を続ける。
「それで再度伺いますが、いったいどうなさるおつもりなのです? このまま戦闘を続けるのか、降伏するのか、どちらを選ばれるのです? ――どうぞ、お答えくださいませ」
まるで夕食のメニューを伺うような軽い口調にもかかわらず、異常にゲプハルトは狼狽え始める。
もしもこのまま戦闘を続けても、皆殺しにされるのは目に見えている。
だからと言ってこのまま降伏しても、伯爵家からお咎めがあるのは確実だ。
さらにオットー子爵の命令を無視して、せっかく発見した「魔力持ち」を殺そうとしたのもバレてしまう。
確かに彼らの身分など知る由もなかったが、エッケルハルトの言う通り、今やそれは重要ではない。
重要なのは、男爵家の者が伯爵家の者を暴行して、怪我をさせた事実だ。
そして
下位貴族が上位貴族を殺そうとした。
その事実は厳しい貴族社会において到底許されるはずもなく、もしもこれがレンテリア家の耳に入ってしまえば、確実に自分は処刑されてしまうだろう。
いや、それどころか、実家のゲプハルト男爵家自体が取り潰しになってしまうかもしれない。
進むも地獄、退くも地獄。
今のこの状況は、まさにその言葉のとおりだった。
「うぬぅ……くそ……」
リタと両親、エッケルハルト、そしてロレンツォの顔を物凄い目つきで睨みつけながら唸り続けるゲプハルト。
残された選択肢はすでにないはずなのだが、この期に及んで彼は未だ己の運命を決めかねていた。
ここで退いて後日処刑されるか、いまこの場で殺されるか。
まさに究極の選択とも言えるこの状況に悩み抜いた彼は、思わず周りを見回してしまう。
すると全員の顔が、この場を退けと語っていた。
ゲプハルトは別にして、騎士と弓兵、そして魔術師たちの全員が既にここで退くことしか考えていなかった。
ここで前に出れば確実に殺されてしまうが、退けばまだ助かる。
もちろん上司であるゲプハルトは後日処刑されてしまうだろうが、職務として従っただけの彼らにはそこまでのお咎めはないはずだ。
もちろん何もないわけではないだろうが、さすがに命までは取られないだろう。
彼らとて家に帰れば、妻も子も、そして両親もいる身なのだ。
誰もこんなところで、わけもわからぬ化け物になど殺されたくはなかった。
これまで忠実な部下だと思っていた全員に、そんな瞳で見つめられてしまったゲプハルト男爵。
遂に彼は己の運命を受け入れた。
そしてガックリと肩を落とすと、へなへなとその場に座り込んでしまったのだった。
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