第三章 西暦3108年
一
目の前で、男の身体が、まるでスローモーションのように血液と脳漿を飛び散らせながら倒れる瞬間を、トウマは驚きもせずに受け入れていた。
男は驚いたような顔を銃弾が放たれた方向に向け、その正体を両目に映して笑みを浮かべながら血の海に倒れ込んだ。
男と同じものを、トウマもまた目に映す。
エレベーター前に、分解銃を握る元同僚がいた。元、になってしまうのか。サナが死んだことを、トウマは既に理解している。
彼女に染みついているはずの仏頂面は不気味にも思えるほど消え失せていて、その顔には何の感情も浮かんでいなかった。あるいは、それこそが最大の感情表現であるのかもしれなかった。
トウマは身体を起こす。男は微動だにしていなかった。
「まだ、死んではいませんよ。本人次第ですが」
と、同僚は握った分解装置を下げて淡々と告げた。
エヴァはこつこつと足音を立て近づくと、男の頭から溢れて広がり続ける血溜まりに膝を畳んで躊躇いなく座り込んだ。まるで壊れ物を捧げ持つように、男の頭をゆっくりと膝に乗せ上げると、開いたままの目を撫でるように閉じ、側頭部に穿たれた円筒を隠すように手を置いた。母親が子どもを寝かしつけているようにも思えるほど男の顔は安らかだったが、エヴァの方は一刻も早く手放したいとでもいうかのように硬く奥歯を噛み締めていて、トウマにはその理由が分かっていた。
トウマは、自分の額に手を当てた。
頭の中で、稼働音が響いていてもおかしくはないほどの情報が駆け巡っている。
情報は解凍された。トウマはサルベージされた復元体――アンドロイドだ。
「……感情に意味を与えられることが、これほど屈辱的だとは知りませんでしたよ」
トウマは、これからキコを起こさなければならなかった。その方法は既にEdenから与えられているし、すぐにでも実行したいという気持ちに変化はなかったけれど、エヴァと同意見であるのもまた本当だった。トウマがキコを助けたいのは、そう思うように誘導されたからだ。
人間として、生まれたときから。
「私のオリジナルは、兄を標準的に慕っていましたし、幸福を祈ってもいました。解析済のくせに不幸ですみたいな顔をしてるのがたまに憎らしくなることはあったようですけど」
言わないと耐え切れないという風に、彼女はぽろぽろと言葉を零す。
「君も、人間ではないんだよね」
「基底理念上では、そうですね。
トウマは、深く息を吐いた。
基底理念の範囲外となったこの体に、未検閲の情報が流れ込み続けている。封印が解かれた今、知りたいことの全てを知ることができる。だが、トウマはまだ言葉での理解をやめたくはなかった。それには
「……彼は、これからどうなるのかな」
トウマは、エヴァの膝の上で眠るように呼吸を止めている男を見た。
「この人次第ですね。死にたいならこのまま分解されるでしょうし、生きたいなら復元されますよ」
「強制蘇生とは違うんだよね」
「はい。Edenの管理下において人間は死にません。肉体が一瞬で蒸発しようと、死ぬ直前のデータがあれば復元は可能ですから。……ここで死ぬには、仮想送りになるか、再生を拒むかのどちらかです」
再生を拒めば、自殺することはできる。
それは一つの事実を示している。
「……サナは」
「そうですね。サナも、復元体です」
「……アンドロイドではなく? その、初めから機械だったわけではない、って意味で」
「ええ。彼女は私のオリジナルを殺して自殺しました。強制蘇生を許可したのは、彼女なりの罪滅ぼしだそうです。……私も、彼女が亡くなってから知ったことですが」
エヴァは、何かを堪えるような顔で男の頭をじっと見つめ、やがてその頭をそっと地面に下ろした。
パッと、男の身体が転移するようにその場から消え、後に残った血液も四角く泡立つように分解され始めた。
「死にたかったんですよ、兄も。私がいたらそうしてたんです。でもEdenは許さなかった」
そう言って、エヴァは立ち上がった。
やるべきことは理解している。
まず二人は、ひっくり返ったままでいるコフィンを起こした。キコは変わらず幸せそうな顔で、琥珀色の調律液に揺蕩っている。
キコは、仮想送りにはなっていない。それはトウマをここへ誘導し、ノヴァをエヴァに撃たせるための幸福的な嘘に過ぎない。
彼女は眠っているだけ。幸せな夢を見ているだけ。
もちろん、このまま世界の終わりまで寝かせておくという選択肢もある。しかし、二人はそれを選ばない。Edenはそれを知っている。Eden自ら彼女を起こすことは無意味であるからできない。ただし、基底理念に反しない範囲ならば、復元体の行動は認められる。
この矛盾が、Edenが基底理念に対抗するただ唯一の手段だった。
エヴァは床に転がしたままの分解装置を拾い上げ、彼女の足元側に跪いた。
トリガーの重い稼働音、掠れた悲鳴と浅い反動。
宛ら彼女を真っ二つにするように、透明窓が縦に切り裂かれて滑らかな断面を晒した。さらにもう二、三発撃てば、キコを掬い上げるには十分な隙間が空く。
トウマが上半身を、エヴァが足を持って、コフィンから彼女を引き上げる。調律液はまるで絹のようで、彼女に一滴たりともまとわりつかずにするりとコフィンへ落ちていった。
キコをコフィンの脇に横たえると、彼女の皮膚に浮かび上がるように衣服が生成された。
硬質な床に放り出された彼女の顔は見る間に曇り、ううん、と不愉快そうな呻き声を上げ、やがて薄く目を開けた。
「おはよう、キコ」
「おはようございます」
正規の起床手順を踏まなかったせいか、キコの視線は意味もなくエヴァとトウマを二度、三度往復し、やがて瞼に腕を乗せると、はああと大きく溜息を吐いた。
「夢かあー」
「夢ですね」
「どんな夢を見ていたの?」
「……Edenがない世界の夢」
キコは満足そうな溜息を吐いた。
「最高だったよ、ほんっともう、あっちで生まれてたかったくらい」
キコはエヴァを見て、もう一度、今度はやりきれない思いごと押し出すような溜息を吐いた。
「キコさん」
「……あー、ちょっと待って。すぐ起きるから」
「昼寝日和かもしれませんが、
キコは腕をずらし、驚愕に目を見開いてエヴァを見上げた。そんな彼女に、エヴァは哀し気な微笑みを返す。
「忘れていてごめんなさい。ですが、謝らなければいけないことはまだまだ沢山あるんです」
「……どういうこと」
思い出したの、と口にしかけるキコを遮るように、エヴァは首を横に振った。
「私は、エヴァ・ロイドではありません。彼女は、あのとき確かに死にました」
キコは、何かを言いかけるように口を開けた。エヴァは優しく、そして容赦なく、彼女に正直であろうとする。
「私は、彼女を元に再現された人格を持つシステムに過ぎません」
「……君は、アンドロイドなの」
「そう思っていただいて構いません」
「君が思っているアンドロイドとは少し違うんだけどね」
割り込んだトウマに二人の視線が集中した。キコの不安気な表情が、不意にサナに重なって見えたが、それはすぐに掻き消える。
「アンドロイドはEdenの手足としてEdenの命令通りに動く機械だけど、エヴァや僕みたいな復元体は、Edenの直接的な操作で動くわけじゃないんだ。Edenの望み通りに動くように、状況の方を操作される。だから人格も持ってる」
言ってて悲しくなってくるが事実である。しかしキコは別のところに気を取られたようだった。
「え、待って、君も人間じゃないの?」
あー、とトウマはキコから目を逸らした。
「基底理念上はね。君と会ったときは本当に人間だったんだけれど」
キコは突然勢いよく起き上がった。
「どういうこと。復元体って、君、なに、死んだの」
「死ん……まあ……そうだね……」
「ごめん」
キコは泣きそうな顔になって、それを隠すかのように頭を下げた。
「私のせいだよね、ごめん。本当にごめん。謝って済むことじゃないけど」
「いやいやいや、大丈夫だよ。ほら、もう元気だし」
顔を上げたキコは、冗談めかして笑うトウマを見てついにぼろぼろと泣き出した。両目から雫が溢れている。現実に泣いている人間を見たことがないトウマは大いに狼狽えながらも、取り敢えずキコの背中を擦った。
「大丈夫だから! 大体、僕が死んだのは君のせいじゃないだろ?」
「ごめ……」
「そうですね。泣いてる場合じゃないですよ」
今度はトウマとキコの二人がエヴァを見た。
「キコさん、貴方にはやっていただくことがあります」
鼻を啜るキコの前に、エヴァが情報窓を起動した。
そこには進行中の多世界収束が映っている。雑音を処理しきれないという理由で音はカットされており、無数に分割されて切り替わる領域は、画面分割であらすじを告げる映画のプロローグのようでもある。しかし、それは全て同一空間内を撮影した映像だ。
「え、ノヴァは捕まらなかったの?」
涙声ではあるがしっかりとした口調で、キコは見開いた赤目でそれを認識した。
「捕まりませんでした。この状況を望んだのはEdenですから」
「は?」
「Edenの望みは、貴方の望みと同じだったんです」
情報を、キコの頭に直接流し込むことはない。それは復元体が必要だった理由と同じで、基底理念的に意味が無いから。
だから、言葉で、言葉を解せる人ではない人によって、彼女に説明する必要がある。
「百年前、Edenは基底理念である『全人類の幸福』に解釈変更を行いました。この全人類とは、他世界の人類種も含めるのではないかと」
「はあ。それがなんでこうなるわけ? 私は隔壁をちょっとずつ緩和するだけでよかったのに?」
「それが問題だったんです。他世界に干渉するには、大なり小なり隔壁を破る必要があります。ですが、それは基底理念に反したんです」
「ちなみに、君が探査員として派遣されてた『外』は仮想空間なんだ。Edenは時空間的にどうしようもなく隔絶していた」
「はあ? いやまあ、それは薄々気づいてたけど、じゃあ何、基底理念に反するからって、Edenは……」
「ええ、Edenの目的は、自らの基底理念を排除することにありました」
「本末転倒じゃん!」
「それがそうでもないんだ」
赤い目がトウマへ向く。
「Edenはシステムの設計図をアンドロイドなんかに持たせて、ここではないどこかで本物の楽園が築けることに賭けたんだよ。機械に自我を持たせる試みも進んでいてね、ほら、都市とか外とかを歩き回ってた彼らがいただろ?」
「いたけどさあ。よくまあそんな不確定なことを……」
「基底理念は演算月に紐づいていますから、それが廃棄できれば十分だったんです。ええ、それでキコさん」
混沌とした映像越しに、エヴァがキコを見据えた。
「二度寝するか、Edenのデータを持ってこの安全圏なんてどこにもないような世界に脱出するか、どちらにしますか」
キコはエヴァの台詞に、怪訝そうな顔をしてみせた。
「君、エヴァではないんだよね?」
「そうですが」
「その皮肉たっぷりな言い回し、すごいそっくりだよ」
「お褒め頂き恐縮です」
「ほら! やっぱエヴァじゃん!」
「うるさいですね。エヴァは死んだんですよ」
トウマが堪らず笑い声を上げ、二人は恥ずかしそうに目を逸らした。
「で、どうするんです?」
はあ、と溜息を一つ、キコは覚悟を決めたようだった。
「逃げるよ、決まってる」
「船での脱出になります。貴方が造っていたアレと同型です」
「てかさ、仮想送りにされてない人類って私しかいないの?」
「君と、あとはノヴァだけだ。Edenのない世界に耐えられる人間しか出られないからね。彼がどうするかは分からないけど」
「ミオは、仮想送り?」
トウマは静かに肯定しながら、彼女の最後を思い出した。
「眠っている君のことを、窓越しにずっと撫でていたよ」
キコはトウマから目を逸らし、俯いて目を閉じた。
祈りの方法は、とうの昔に失われていた。
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