四
セントラルタワー前に転送されたトウマは、真下からそれを見上げて溜息を吐いた。天辺が見えない。キコに連れ出されたときとはまた違う。そういえばあの辺りを彼女は走っていたんだっけと懐かしい気持ちになる。
入り口に目を向ければ、人だかアンドロイドだか仮想人格だか分からない人々が、そこそこの頻度で転送されては中に入っていった。どちらかといえば未成年が多い。家族連れや友達同士。父親に手を引かれる幼児はタワーをぽかんと見上げていた。そういえば、直接内部に転送されるわけではないらしい。これからセントラルタワーに入るという実感を得てほしいのか、この圧迫感が娯楽なのか。
これだけ有名なのに、行こうと思ったことなど一度もなかった。
立ち止まるトウマを気に掛ける人などいるはずもない。トウマは気を取り直して無名の人の流れに乗った。
開け放たれた入り口を抜ければ、そこは広いホールになっていた。
ミルキーホワイトの床と、ベビーピンクの内装。中心には太い柱が通っていて、そこには電子広告が映っていた。仮想送り体験、仮想送りをテーマにしたコメディ映画、原作小説、寄贈されたらしい絵画。作品名はどれも聞き覚えがなかったが、トウマの興味のあるジャンルではないので当然だろう。
と、背後に気配を感じて振り返ると、案内用アンドロイドがにこやかにトウマへ近づいてきていた。標準服に帽子を被った肌の白いアンドロイドは、確認も挨拶も飛ばしてトウマに告げた。
「どうぞ、こちらです」
呆気に取られながらも、トウマはそれに頷く前に率直に訊いた。
「キコ・カンナヅキを探しているんだけど」
「承知しております」
アンドロイドは愛想良く、トウマを壁際に連れて行った。それが近づくとカムフラージュが解除され、金属質のエレベーターが現れた。
扉は既に開いていて、アンドロイドに連れられて乗り込むとするすると閉じて上昇を始めた。微かな重力を感じるのは上昇していることを実感するためだろうか。
「転送はできないの?」
「はい。キコ・カンナヅキがいるフロアはプライベートルームですので」
「……誰かの家ってこと?」
管理者が許可しなければ転移できない空間といえばそれしかない。とはいえここはセントラルタワーだ、名前違いだろうと考えているトウマに、アンドロイドは頷いた。
「はい。最上階はミオ・クロサキの保有エリアです」
「ミオの?」
「彼女は一般市民の転移を許可していませんが、立ち入りは禁止していません。そのため、今回はこのような移動手段を構築させていただきました」
「……僕のために?」
「はい。Edenの判断です」
ぱっと、唐突に外の景色が見えた。コーティングされた都市はどこか白々しい。偽窓か本物かの区別はつかないが、どんどん上昇しているのは確からしく、ビルの境も曖昧なほどに都市は遠くなっていった。
「キコは、ミオに捕まっているのか?」
「いいえ。キコ・カンナヅキは仮想送りになりました。現在はコフィンで眠っており、ミオはコフィンごと彼女を引き取りました」
「どうしてそんなこと……」
危害を加えるつもりだろうか。仮想送りになった人間にそんなことができるのか、トウマには示されなかった。
「それは、貴方が直接お確かめください。また、仮想送りになった人間を元に戻すことは基底理念上できないことも、ご承知おきください」
「そんな、何とかならないのか? 彼女は仮想送りなんて望んでいなかった!」
「仮想送りとは、個人が望む世界を生成、付与するシステムです。仮想送りを望まない人間とは、望む世界が存在しない人間のことです」
「そんな……キコは」
キコほど望む世界が明確である人間は、どのくらい存在するのだろう。
彼女は今、幸福なんだろう。宇宙の果てに行っているかもしれない。そこではカフェで一服するためにちょっと火星に行くなんてことが当たり前の世界なのかもしれない。
キコの望む通りの生活と、日常と、たまの危険と非日常を送って、やりたいことを全てやって、あるいは誰かに後を託して、惜しまれたり笑い合ったりしながら死んでいくのかもしれない。
けれど。
それでいいなら、自分だけが幸福でいいなら、彼女はEdenに立ち向かっていないだろう。
「また、Edenが告げるのは真実ではなく、あくまで基底理念に沿った言葉であることをお伝えしておきます」
「どういう意味だ?」
そこで、エレベーターが止まった。
扉が静々と開いていった。
「最上階に到着しました。では、ごゆっくりお過ごしください」
これ以上言うべきことはないとでも言うように微笑むアンドロイドに怪訝な顔を送りながら、トウマはそこから降りた。アンドロイドは整った礼をして、扉は音もなく閉じられた。
半円のフロアの中心に、調律機のような装置があった。
傍らに、ミオが座っていた。
曲面全体を彩る窓からは雲一つない晴天だけが見えていて、太陽が直接差し込まない部屋はどこか青く沈んでいる。磨き上げられた床は鏡のようで、晴天の窓と中央に居座る彼らを、規則的に反射していた。
居住空間という割には、余りに物がない。
トウマは、自分が来たことを知らせるようにゆっくりと、足音を立てながら中央に歩いていった。
ミオは顔を上げない。まるで本でも読むかのように、嫋やかな無表情で調律機――もといコフィンに視線を下ろしている。
コフィンを挟んでミオの対面に立ったトウマもまた、その内部を見ることができた。
そこで、キコが眠っていた。
幸せな夢を見ているのだろう。ピンクのツインテールはそのままに、一目で分かる穏やかな表情で、彼女の裸体が調律液に浮かんでいた。
「何をしに来たのか、訊いてもいいかしら?」
ミオが顔を上げずに言った。切れ長の冷たい目元は、もはや気のせいではないだろう。
「彼女を、起こしに来ました」
「こんなに気持ち良さそうに眠っているのに?」
「はい。何か方法はありませんか」
ミオが短く笑った。
息を吸ってから、今まで息が止まっていたのだと気づくような沈黙があった。
「トウマ・シラハナさん」
「はい」
「貴方は何故、キコを目覚めさせようというの?」
「眠ることは、彼女の望みではないからです」
「そうね、客観的には、彼女は眠っているように見えるでしょう」
でも、とミオは顔を上げた。
「主観的には、彼女の望みは叶っているのよ」
「それでは意味が無いんです。それでいいなら、Edenから逃げていないでしょう。彼女は現実の世界を変えたかったんだ」
「貴方にセントラルタワーの正体を知らせなかったのは、遺伝的にそういう考えをする人間だからなんでしょうね。そういう考えでないと、幸福を維持できない」
トウマが訝し気に眉を顰めると、ミオは淡々とした無表情で口を開いた。
「この世界が現実であると、貴方は断言できる?」
その言葉をトウマが処理するまで、ミオは口を閉ざしていた。
この世界が、ミオが、コフィンで眠るキコが、Edenの外での非日常が、全て仮想である可能性。
映画もカフェもサナも、初めから夢だった可能性。
大いに有り得る。むしろ、今まで何故それを考えてこなかった?
トウマの口が震えるのを見て、ミオは再び口を開いた。
「多くの人が、その事実を受け入れているわ。ここが現実でも仮想でも、だからなんだというの? 私たちは調整素子によって常に感覚を補正されている。網膜に映る景色と、実際に脳が知覚する景色はまるっきり別物。ここが現実だとしても、私たちは水槽の脳と同じようなものよ。本当のことが見えている人間なんて、Edenに存在しやしないわ?」
冷たく微笑む彼女に、トウマは言葉を紡げずにいる。
「今、貴方と私はこうして言葉を交わしているけれど、私が言ったことがそのまま貴方に伝わる訳じゃない。私の言葉は、分かりやすく、耳障りの良い、最も適切な影響を与える言語に変換されて貴方に届く。私には、貴方がショックを受けているように見えるけれど、実際はどうかしら。他人には分からない程度の違いしかないかもしれない。私の目に映る貴方は、とても表情が豊かに見えるわ。貴方に私はどう見えるかしら」
トウマには、優しげに微笑んでいるように見えた。
けれどもう分からない。ミオは実在していないのかもしれない。サナが、エヴァが、キコが、ノヴァが、コーヒーの苦みが、自宅の朝日が、全て嘘なのかもしれない。
だからといって、そこに問題は発生しない。目覚め方が分からない以上、トウマはこれからもここで暮らしていくだろうし、目覚めたいほど悪い夢では決してない。
ああ、とトウマから声が漏れた。
コフィンに揺蕩うキコの、幸せそうな寝顔を見る。
「彼女は、どんな夢を見ているんですか」
「前時代の夢。可変素材もテレポートも調整素子も仮想送りもない、Edenの開発者が生まれてもいない大昔」
「それは、幸せなんですか?」
「もちろんよ。彼女は未解析者だもの」
未解析者は、現実――トウマが現実だと思っている世界では幸福になれない存在。
Edenが存在しない世界では幸せになれる存在。
「それでも貴方は、彼女を起こしたいと思うの?」
トウマの知るキコなら、きっと起こしてほしいと言うはずだった。けれど、コフィンで眠る彼女は、トウマのことなど知らないだろう。トウマの知る彼女と、仮想送りにされたキコは、恐らく全くの別人だ。それでも。
それでも、彼女なら。
「はい。方法はありませんか」
ミオの表情は変わらない。出会ってからずっと、彼女には優美な無表情が張りついている。
「無いわ。基底理念を騙す方法は存在しないもの」
「僕がオフラインになれば壊せますか」
「可変素材製の物体が人の手で壊せるとでも?」
「武器はないんですか。銃は、貴方も使っていましたよね」
「私はEdenじゃないわ。要求してみたらどう?」
トウマがちょっと目を上げれば、表示された情報窓には『不許可』の文字があった。
いや、とトウマは記憶を辿る。既に存在している銃を奪う方法、オフライン下で、トウマはその銃撃を受けなかったか?
「ノヴァは、今どこにいるんです?」
ふふ、とミオが楽しげに笑った。トウマは一瞬目を瞠った。
ミオが、初めて心の底から笑ったと、唐突にそう感じた。
「今、隔壁が破れたわ。彼がやったのね」
本当かどうかを訊くのは無意味だった。
「Edenは間に合わなかったんですか?」
「間に合わなかったのかしらね。世界が終わってしまうイベントだというのに」
ミオの目が、口が、規則的な弧を描く。その目にトウマは映っていない。きっと最初からそうだった。誰しもがそうだった。トウマの目にも、きっとミオは映っていない。
「これから、僕たちはどうなるんです?」
「仮想送りに決まっているでしょう? 多世界収束が頻発する世界でこそ幸福を感じる未解析者でもない限り」
部屋は未だ静寂に満ちている。終末は影も形もない。
「なんとかならないんですか」
「このときのために、私は百年生きてきたのよ」
「百年?」
ミオは、遥か遠い昔に焦点を結んでいるようだった。
「Edenが未解析者を未解析者として都市に受け入れ始めた頃の、初期の人類。それまで、人類は生まれることすらなかったの。前時代の人類を仮想送りにして人類は一度終わった。そして今、ようやく本当の意味で終わることができる」
ミオは美しく微笑んだ。
「誰もがこのときの為に生まれたのよ。貴方が自殺する為。そうでしょうEden……」
その顔はコフィンで眠る彼女と同じ、心底から幸せそうな微笑みだった。
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