五
エヴァはサナの腰に掴まりながら、彼女の肩越しにそれを見た。
歪んだ都市の遠景の向こうに広がる、白亜の絶景を。
「これは……」
「すごい……」
サナが呆然と呟いた。バイクは一度加速を止めて緩やかに減速し、やがて空中で停止した。真っ白な都市の残骸にバイクの影が落ちる、冷えた空気、全天に広がる青すぎる晴天。
「本当でしたね」
「うん……」
サナは後ろを振り返り、そこに都市があることを確認すると、唐突にバイクを急発進させた。
「っと、サナ、危ないですよ」
「なるべくEdenから離れなきゃ」
まるで地平線に落ちるように、バイクは二人を乗せて飛んでいく。ある程度の速度を超えれば風も砂も感じない。無音の世界を、白と青の境界目掛けて真っ逆さまに落ちていく。
「どこまで行くつもりですか?」
「行けるとこまで」
「行って、どうするんです?」
「どうしよう。どうすればいいと思う?」
サナが振り返る。漠然とした不安に追われて泣くこともできずにいる顔ではない。逃げ切ったというには物哀しく、諦めて捕まるのを待っているというよりは希望がある。
それはまるで、いつか見た映画のような。
「死なないでください」
サナが自嘲気味に微笑んだ。エヴァの言葉は彼女が望んだ通りだった。
「Edenはね、私がどうなるか、知ってるんだよ……」
「サナ」
「仮想送りになれば幸せになれるけど、今の私はどっちにしろ死ぬんだ。そんなの許せない。このまま苦しんで生きられないなら死ぬしかない」
「そんなことはないですよ。貴方はその痛みと共存できます。今までのように」
「違うよ、エヴァ。Edenは私に死ぬ権利をくれたんだ。死にたいならどうぞって。だってそうでなきゃ、私たちがここにいられるわけがない」
「サナ」
「止めないで」
「オフラインにしましょう」
サナがきょとんと眉を上げた。
「……なあに、それ」
サナが記憶していないことに、エヴァは確信に似た強い不安を覚える。要求すればEdenとの接続を切れることを知ったのなら、サナは真っ先に実行するはずだ。しかし、今に至るまでその提案はされなかった。
では何故、エヴァは覚えているのか。そんなのは決まっている。サナがオフラインについて知るのは、今この瞬間である必要があった。
「Edenとの通信を切断します。キコさんが教えてくれたことです。やはり、覚えていませんか」
「……そんなこと、できるの?」
サナの目線が横に逸れる。そこには、オフライン用の情報窓が表示されている。
エヴァの視界にも、同じものが表示されていた。
「Edenは、貴方を生かしたいのだと思います。キコさんのようにEdenの外で生きてほしいのかもしれません」
サナは正面に顔を戻した。エヴァは、抱きしめている小さな身体が震えているのを感じ、後ろ頭を撫でてやった。
「外でなら、サナはサナのまま生きていけます。もちろん、私も一緒です」
サナの頬に触れると、人差し指に雫が触れた。サナが鼻を啜る。
「大丈夫ですよ。戻りたくなればいつでも戻れます。私がいるんですから、怖がることなんて何もないですよ」
「わ、私」
「はい」
ぐすぐすとしゃくり上げながら話すサナを、エヴァは静かに見守った。
「今日、死ぬつもりだっ、たからっ……」
「はい」
「先のこと、とかっ、考えてなくて……怖、こわくて」
「大丈夫ですよ。先のことなんて、私だって考えてないです。でも貴方がいればなんとかなります」
「わ、私、なにもできない」
「そんなことないですよ。サナはとびきり賢くて、優しい心を持ってます。それにEdenの補正なしで過ごしてきたんですから、外だって何処だって大丈夫です。何にも泣くことないんですよ」
サナを抱きしめながら、涙を指で拭ってやる。
頭を撫でながら、サナの呼吸が落ち着くのを待った。
「一旦、帰りますか? 誕生日までは、まだ日がありますし」
「ううん。……やる」
サナは顔を上げ、そこにある情報窓に向き合ってから、ちらりとエヴァを振り返った。
「エヴァは解析済でしょ? いいの?」
「関係ないですよ。私も外には興味があります。大丈夫、ずっと一緒です」
「……エヴァって、優しいんだね」
二人は、同時にボタンに指を翳した。それでも躊躇うサナの後ろで、エヴァは平然と承諾を押す。
「切りましたよ」
「えっもう?」
「特に何も変わらないですね」
サナは指をくるくる回し、やがてその勢いに任せてボタンを押した。
「ほんとだ、別に普通……」
「取り敢えず、キコさんの拠点を目指しましょうか。まだ残っているはずですし……」
「待ってエヴァ、あれなんだろう……」
「どれですか?」
サナが指差した空中で、人のような黒い影が空を舞っていた。
二人は訳も分からず視線を下ろしていき、そこで声を上げた。
夥しい数のアンドロイドが、壊れては生え、砕かれては生え、黒い人影に向かって何かを撃ち合ったり突進したりしている。
「なにあれ……うわっ」
突如、バイクが急減速した。前につんのめりながら、やがてコツンと音を立てて止まる。目の前には砂漠と化した純白の地平が続いている。障害物など何もない。
「何にぶつかったんでしょう」
「……これ、もしかして」
バイクを右旋回させ、サナは手を伸ばした。
宙を掻くかと思われたその手が、そっと何かに触れた瞬間。
「あ」
その手のひらが、音を立てて弾け飛んだ。
「サナ?」
エヴァがサナへ視線を戻すと、そこに彼女はいなかった。
代わりに生暖かい液体が噴きかかる。
「え?」
エヴァは未だ、サナの腰を掴んでいた。
そこにあるはずの上半身はなく、ただ真っ赤な断面が、エヴァの視界を埋め尽くしていた。
「サナ……?」
溢れる血がシートから広がり落ちていく。未だ離せずにいるエヴァの手に、腕に、先ほどまで感じていた暖かい体温が伝っていく。
バシン、と音が再び弾けて、ぐらりとエヴァの身体に重力が掛かった。どこかを破損したらしいホバーバイクが緩やかに下降したかと思うと、ぐるりと逆さになってエヴァとサナを取り落とした。
落ちる。
サナの半身を離せずにいる。
落下の衝撃はそれほど大きくはなかった。ざくりと音を立てて、エヴァは砂地に横になっていた。
サナが心配になって慌てて起き上がるが、手の中には真っ赤な下半身があるだけだった。
ざくりと、足音がした。
呆然と顔を上げると、五メートルほど先に、血塗れの黒い人影が立っていた。身体の所々が欠けているのに後から気づくほどしっかりとした立ち姿で、フィクションで見た銃のようなものを固く握りしめていた。
銃。
こいつだ。
この男がサナを殺したのだ。
瞬間的な激情が沸き起こる。どうして。溢れ出す。憎悪、復讐、どうして、許さない、許さない。
怒りに任せた咆哮を上げる寸前で、カチリと、頭の中で鍵が開いた。
息を呑む。
悲鳴が逆流する。
抑えきれない激情が、冷たい絶望へ、それすらもやがて無機的な認識へと還元されていく。
記憶が解凍されていく。
エヴァ・ロイドが哀し気に笑う。
「……エヴァ?」
目の前に立つ、奇妙に口を歪めたこの男が、兄であることを思い出した。
キコ・カンナヅキが、かつて確かに友人であったことを思い出した。
サナ・アマヤに、殺されたことを思い出した。
そして。
エヴァ・ロイドが、あのとき確かに死んだことを思い出した。
今ここにいる自分が、エヴァ・ロイドをベースにした
生まれた意味を、人生の意味を把握する。Edenの狙いを理解する。これから自分が為すべきことを知っている。
この怒りが失われない理由を知っている。
「……何で、私を撃たなかったんですか」
分かり切った理由を聞かずにはいられない。泣く意味はないのに涙が溢れる。この涙に意味が与えられることが心の底から恐ろしいのに、それはどうにも止まらない。
「エヴァなのか?」
「なんで、サナは死ななければならなかったんです?」
兄である男は銃を構えている。
「撃てばいい。殺せばいい。私は貴方を許さない」
男の銃口が躊躇いを見せる。
それが幸福的にどちらが正しいのか分からないが故の逡巡であることを知っている。
「殺せよ!」
ガシャアンと、ガラスの割れるような音がして、空が割れた。空を映していた壁から罅割れた闇が覗く。
轟音と共に、エヴァのいる地面が跳ね上がった。その拍子にサナの遺体が腕から零れ落ちる。
「サナ!」
しかし、それを取り戻すことは叶わなかった。割れ落ちる地面と空の間隙に呑まれて追えなくなる。エヴァもまた斜面を転げ落ちながら、どうにか体勢を立て直す。身体の使い方は思い出している。けれど、サナは。
エヴァ・ロイドであれば彼女を取り戻そうとしただろうかと考えている。
人として、この瞬間に取るべき行動は何かと検討している。
置いていかないで、と頭の中でサナが言った。
いいから今は走れと、
「……ごめんなさい」
そう呟いて、エヴァは中心部へ駆け出した。
銃撃が頬を掠めた。兄ではない。振り返れば、割れ果てた壁の向こうで無数の他世界がこちらに牙を向いていた。それはそうだろう。多くの世界にとって、Edenは脅威であるだろうから。
Edenは、それを知っているから。
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