瞼に光を感じてから数分もすれば、いつものアラームが聞こえてくる。

『新暦1000年4月26日、調律終了。ただいまの時刻は午前9時――』

 アナウンスを聞き終える前に飛び起きて、ガラス窓に強く頭を打ち付け、反動でカプセルの底にもぶつかってトウマは呻いた。

 それが救いになった。

 本日の予定を続けようとする合成音声を遮って、トウマは鋭く訊いた。

「キコ・カンナヅキはどうなった?」

 そして、まだ名前を思い出せることに心の底から安堵した。

『仮想送りになりました』

 ささやかな安堵は、滑らかな合成音声のただその一言で呆気なく失われた。

「……死んだってこと?」

『仮想送りを死と見做すことについては議論の余地がありますが、基底理念上での扱いは同一です』

 トウマは歯を食いしばって、調律機から起き上がった。青い朝日とコーヒーの香り。構造は間違いなく自宅だった。

「キコを解放してくれ」

『サルベージは可能ですが、仮想送りになった場合は意思の確認が困難であり、基底理念に抵触しかねませんので例外を除き非推奨となっています』

「サルベージ?」

『仮想送りになった個人を収集したデータに基づいて復元することを強制蘇生サルベージと呼称します』

 生き返りたくないと思っているかもしれない、それを確認できないとEdenは言っているのだろうが、キコは生き返りたいと思うに決まっている。

「復元してくれ。彼女はそう望むはずだ」

『申し訳ありませんが、貴方には権限がありません』

「権限ってなんだ? どうすれば取得できる?」

『本日は午後10時より仕事の予定が入っています』

 その音声と同時に、トウマの視界がぶれた。

 バチンと光が弾けるように一瞬の虚空が晴れると、トウマは見慣れた部屋に立っていた。一面のフィックス窓から見えるセントラルタワーと壁沿いに置かれたソファと、今時珍しいフローリング。

 壁掛けのアナログ時計はぴったり十時を差していた。さっきまでは九時だったはずだ、時間が弾かれている。

 向かいの扉の前で、短い白髪の同僚が振り返った。

「ああ、おはようございます。お待ちしていました」

「え、ああ、おはよう……」

 無意識的な反射で挨拶を返すと、エヴァの眼孔が鋭くなった。

「お尋ねしたいことがあります。もし心当たりがなければ、私の質問は忘れてください」

「何だろう?」

「キコ・カンナヅキという人をご存じですか」

 トウマは息を呑んだ。

「そうか、そうだった。君も彼女に会ったのか」

「ご存じなんですね」

 彼女を覚えているなら弾かれることはないだろうと、トウマは正直に話すことにした。

「ああ。彼女は仮想送りになってしまった。なんとか、助けたいんだけど……」

「仮想送り? 何があったんです?」

 すると、エヴァの背後にある扉が細く開いた。

「あの人、仮想送りになったの……?」

 そこからサナが、べそをかいたような顔でトウマを見上げた。

「お礼も言ってないのにな……」

 サナは、手にしていた黒い立方体を寂しそうに見下ろした。それを見てトウマは心から安堵する。エヴァだけじゃない。二人とも、キコとの記憶が一切弾かれていない。届け物はきちんと届いている。

「私たちは、Edenの外に行こうと思っています」

 エヴァに視線を映せば、真剣な碧眼がそこにある。

「この件について、Edenは何の反応も示していません。ならばどちらでもいいのだと判断できます。シラハナ先生、私たちは彼女のことも、Edenの外についても何も知りません。一体何があったんですか? 外とはどういう意味ですか?」

「……そうだな、記憶の共有をしてもいい? 僕の身に何があったのか、外に何があるのか、大体分かると思うから」

 ほとんどサナに向けて訊いていた。サナは、補正必須のサービスを軒並み嫌っている。案の定サナが渋った。

「……説明すると長くなるけど、構わない?」

 そんな時間があるのかどうかも分からなかったが、現状、トウマがキコにできることは何もなかった。

「お願いします……」

「では、一旦座りましょう」

 エヴァはサナを連れてソファに、トウマは生成した椅子に腰かけた。

 順に記憶を辿って、トウマは説明を始めた。トウマに起きたこと。

 カフェで補正を切ったところでキコを見つけたこと。

 Edenの外に連れて行かれたこと。

 この空が偽物で、人類は滅びかけているらしいこと。

 サナを助けてほしいと頼み、実際にバイクを届けてくれたこと。

「キコさんはやはり、私と友達だったと言ったんですね」

 意外なところで待ったがかかり、驚きつつも頷いた。

「違うの?」

「私が彼女と会ったのは先日が初めてです。ですが……」

「あの人、エヴァが覚えてないって言ったら悲しそうだった」

「……解析済になったときに、弾かれたんでしょうか」

 考え込むように俯きかけたエヴァは、すぐに気を取り直して顔を上げた。

「すみません、続けてください」

「……キコがいない間に、君の兄だっていう人が来るんだけど」

「兄?」

「君にお兄さんはいる?」

「同一の遺伝子から生成された人ってことですよね。いるかもしれませんが……少なくとも、私は把握してません」

「分かった。続けよう」

 ノヴァ・ロイドの来訪を話すときも、トウマの胸はわずかに痛んだ。キコもノヴァも、トウマが垣間見ただけでも、相当エヴァを慕っているようだったのに。

 キコが帰ってきて、装置を作るよう脅されたことを簡潔に話す。

 トウマが眠っている間にノヴァは出発し、Edenにそれを伝えるためトウマたちも発ったこと。そこで攻撃を受け、意識を失ったこと。目覚めると家にいて、彼女は仮想送りにされたと回答があったこと。

「それで今に至るって感じかな。記憶補正されてないのが不思議なくらい、いろんなことがあった。されてるのかもしれないけどね……」

「なんか……大変……」

「サナたちが外に行く分には、問題ないと思う。ノヴァもEdenが追っているようだし、外には危険も何もないから」

「サナ、それでも行きたいですか?」

「行きたい」

 サナは力強く頷いた。エヴァも頷き返し、改めてトウマに目を向けた。

「では、私たちはこれから向かってみようと思います。いつこの記憶が弾かれるか分かりませんから」

「これから? ……分かった。どうか気をつけて」

「……シラハナさんは、キコさんを助けるつもりですか?」

 責めるような物言いに、トウマは言葉に詰まる。

「彼女は十分に幸福ですよ」

「それは……」

「それに恐らく、救出しようとすれば基底理念に違反します」

「でも、違反するならこんな考えは持っていないはずなんだ」

 今度はエヴァが言葉に詰まった。

「先生、お願い。助けてあげて」

 サナが、彼女にしては大きい声で、縋るようにトウマに言った。

「もし、仮想送りから戻ってこられるなら、怖いことなんて何もないと思うから」

 トウマの中で、何かが腑に落ちた。

 仮想送りになりたくない。

 今のトウマだって、彼女と同じことを思っている。

「分かった」

 そう頷いてみせたものの、目下のところ彼女の居場所すらトウマは知らない。

「二人とも、仮想送りにされた人がどこにいるか、心当たりはないかな」

「え、先生知らないの」

「え?」

 二人が同じくらいに口を開けた。

「知ってるの?」

「知ってるも何も、仮想送りにされた人がいる場所はモルグツリーに決まってます」

「え?」

「ご存じなかったんですか、あの塔はお墓ですよ」

「いつでも見学できるでしょ? それ見て嫌になったんだけど……」

「モルグツリーって、もしかしてセントラルタワーのことかい……?」

 トウマは窓の外を見た。青い月の直下にある、尖形の都市のシンボル。シンボルである以上の情報を、言われてみれば持っていない。

「ええ、あれのことです。セントラルタワーと呼んでも間違いではありませんが……」

「先生に必要になったから、Edenが弾かなくなったのかもね」

 サナはどこか嬉しそうだった。

「公開エリアにキコさんがいるかは分かりませんが、行ってみる価値はあるのではないでしょうか」

「……あれがお墓っていうのは、そんなに誰もが知ってる話?」

「みんな知ってるって私は思ってた」

「そうですね。シラハナさんは、あれが墓標に見えると気持ちが悪くなる人間だったのかもしれません」

 そうだろうか。そうかもしれない。一番目立つところに死の象徴を置く理由が分からない。

 ともかく目的地は定まった。


 トウマはベランダでバイクを起動する二人を見送り、セントラルタワーへのテレポートを要求した。それは問題なく受理された。

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