九
トウマは扉の前で右往左往することしかできなかった。
建物全体が震え、甲高い耳鳴りに似た残響と破裂音が止まない。キコとノヴァの戦闘音であることは察しがついたが、外に出たところで助けになれるとは思えない。
やがて、特徴的な銃声が連続したのを最後に、辺りは静かになった。
首輪を埋め込まれた辺りにじわじわと嫌な予感が広がり始めたそのとき、扉が開いた。
もう見慣れたといってもいいピンク髪が、疲れた様子で空のコップが並んだままの机に手をついた。
「キコ! 大丈夫? 怪我はない?」
「起きてたんだ、よかった。私は大丈夫だけど急がなきゃなんない」
キコは情報窓を起動して、首輪の設定を実行モードに変更した。ついでに紅茶を生成して、出現したそれを一息で飲み干す。
「ノヴァは……?」
「逃げた。だから、君を連れてEdenに伝えなきゃなんない」
「彼を止めてくれって?」
「うん。装置のデータ渡せば流石に本気出してくれるでしょ」
カップを机に叩きつけると、キコは再び扉を開け、ふと立ち止まって振り返った。
「そういや、君こそ大丈夫だった? 耳……」
「え? ああ、もう全然大丈夫だよ」
痛みには驚いたが、過ぎてしまえばそうでも、いや、できればもう経験したくはないが、今はもう大丈夫だ。
「ごめんね、ほんと、いろいろ……」
目を逸らしながら言うキコを微笑ましく思った。
「全部終わったら、私のことは忘れていいから。ちゃんと忘れさせられるとは思うけど」
「忘れないよ!」
「いや忘れなよ!」
トウマの言葉を冗談と受け取ったのか、キコは笑いながら外へ出た。トウマは後を追いながら、「覚えてるって!」と叫んだ。忘れたくない。だって。
だって、なんだろう。
何故、そう思うのだろう。
宙を滑るホバーバイクの眼下には真っ白な廃墟が続いていて、地平線の果てからは朝日が輝いていた。
その美しさは偽物だと知っていても損なわれることはない。空も、風も、光も、トウマが知覚しているという事実は偽物にならない。本音を言えばちょっとだけ不気味だ、というのも含めて。
「お、見つけた」
バイクが右方向に旋回する。その先に他の廃墟から頭一つ抜けた――元はなんらかの公共施設だったのかもしれない――背の高い建物の広大な屋上を、一体のアンドロイドが歩いていた。可変素材色の肌を除けばどこにでもいる少年にしか見えないアンドロイドは、左右をきょろきょろ見回しながら辺りを探索している。
キコは右手でハンドルを握りながら、左手で銃を抜いた。
アンドロイドがふと振り返って、こちらを見上げた。
そのぽかんとした表情を見てトウマは唾を飲んだ。
キン、と高い音が響いた。反動でバイクが揺れる。アンドロイドの下半身が消滅し、屋上に浅いクレーターが穿たれる。
「急降下するよ、離れないで!」
ほとんど落下するようにして、キコはバイクの鼻先を屋上へ向けた。みるみる近づく地面に思わず目を閉じると、激突寸前で鮮やかに立て直し、バイクはアンドロイドの傍らで停止した。キコはトウマの腕を振りほどいて飛び降りる。仰向けのアンドロイドはキコとトウマを不思議そうに見上げている。敵意も武器も持っていないらしい。
キコはアンドロイドをひっくり返してうつ伏せにし、凹凸のない滑らかなうなじに親指を突き入れた。アンドロイドの手がばたばた動く。
「な、何してるの」
「アンドロイドの通信回線は頭にあるんだよ」
メキミシという嫌な音を立てながら、うなじに突き入れた親指を後頭部へ動かしていった。白い外皮が髪ごと縦に割られていく。めくれ上がった歪な断面から、基盤が密集した黒い中身が露出する。アンドロイドはばたばたと抵抗している。
頭頂部まで割り終えると、キコは頭の中に手を突っ込んだ。アンドロイドの腕がねじくれ、埴輪のように上下を向いて停止する。
キコは手を入れたまま微動だにしない。
「大丈夫?」
キコは、しばらく屋上の何もない白紙の空間を眺めていたが、やがてはっと気づいたように声を上げた。
「よし、繋がった! 調整素子のマニュアル操作って結構気ぃ使うんだよ。今からEdenと話すから――」
バシン、と、破裂音がした。
「いっ……」
反射的に閉じていた目を開けると、アンドロイドがいた場所に、同程度の大きさのクレーターができていた。
そこに、ぽたぽたと血が垂れる。
キコが、自分の手を押さえている。突っ込んでいた左手の指のほとんどが失われている。
「キコ……! っ、が」
突如、首から背筋に激痛が走った。脊椎に氷の刃が突き刺さるような寒気と痛み、頭が。
「トウマ! 待って」
キコが叫んでしばらくすると、その痛みは治まった。首輪が作動しかけた、のだろう。
「大丈夫?」
「だい、だいじょうぶ」
辺りを見回せば、狙撃手はすぐに見つかった。
後方十メートル先に、銃を構えたままの女が黒髪を靡かせながら悠々と立っていた。
その姿を、トウマは知っている。
「助けに来たわ、シラハナさん。遅くなってごめんなさい」
「ミオ……」
テレポートで現れたのだろう。
キコは無事な方の、しかし血塗れの手で、トウマの手をぎゅっと握った。
「怖い思いをさせてしまったわね。でも、もう大丈夫。さあこっちに来て」
「そっちから来るなんて珍しいじゃん。いつもはアンドロイドを寄越すくせに」
言いながら銃を生成しようとするキコの足元に、バゴンと音がしてクレーターができた。痺れるような反動が足裏を伝う。キコは手を止め、ミオの切れ長な瞳を睨みつけた。
「私になんかあったらこいつも死ぬことになるよ。それもとびっきり苦しんで!」
「酷いことをするのね」
「言っとくけど、私から引き離しても死ぬから」
そうなんだ、とトウマは他人事のように思った。
ミオは悲し気に首を振りつつも、銃口はこちらに向けられたままだった。
「シラハナさん、私に接触すればEdenに再接続できるわ。そうすれば、何もかもうまくいく」
「僕は――」
「ミオ聞いて。ノヴァが、隔壁を壊そうとしてる」
キコがそう言っても、ミオは表情を変えない。薄っすらと微笑んでいるような、真顔がそう見えているだけのような、優しさと配慮が抜け落ちたような表情でキコだけを見つめていた。
「多世界収束が起きる。止めないとEdenが崩壊する」
「そう……」
ミオは、ふう、と、作業が一段落した芸術家のような溜息を吐いた。
「知ってるわ」
キコは怯まない。
「今、私がEdenに接続したときの情報を見たから?」
「見る前から知ってるわ。彼に貴方を追うよう頼んだのは私だもの。オフラインになった時点で察しはつくわ」
「なっ……」
トウマは冷静に口を開く。
「どうして止めなかったんですか?」
「どうして止める必要があるの?」
その台詞で、この黒髪の女がノヴァと同じ思想を持っていることが理解できた。
「シラハナさん、どうか私の手を握ってくれないかしら。大丈夫よ、貴方が何に侵されていようと、Edenは治してくれるから」
そう言って銃口を向けたまま、ミオは空いている掌をトウマに差し出した。
トウマを掴む手に力が篭る。
トウマはその手を、優しく握り返してやる。
「その前に、彼女の願いを聞いて頂けませんか?」
ミオの表情は変わらなかった。ただ、僅かに頭を傾けただけだった。
「貴方もキコと同じ意見なの?」
「同意見というわけではありませんが、少なくとも、今終わらせようとするのは反対です」
「あら、Edenは彼を追ってるわよ?」
「え……」
「直に彼は捕まるでしょうし、万が一、ええそう、万が一やり遂げたのだとしたらそれもEdenの思し召しよ。ふふ、何も心配しなくていいわ」
ぼたぼたと、キコの血とトウマの汗が混ざり落ちる。
「キコさんの願いを、叶えることはできませんか」
「勿論できるわ。Edenに戻ればね」
「はっ、現実じゃなきゃ意味がない」
キコが吐き捨てると、ミオは穏やかに目を細めて見せた。
「現実でも、できるわよ? 私はそんなのまっぴらだけど――」
ガチン、と音がした。トウマの手が強く引かれたかと思うと、身体が後ろへ吹っ飛んでいた。
キコに背後から受け止められる。キコはトウマから手を離し、後退しながら抜いた銃をミオに向けた。
放たれた弾丸は空振りに終わる。
前方に、直径五メートルほどの穴が空いていた。ミオは対岸で微笑んでいる。穴の縁からさらさらと砂が落ちていく。衝撃は一瞬で、強調された無音が耳に痛い。
「貴方の願いを、きっとEdenは聞き届けるわ。でもね」
ミオの声は、相変わらずよく響いた。
「私は人類が、これ以上続くなんてこと、耐えられないのよ」
「そんなに焦るってことは、Edenに人質は相当効くってことだね」
「そうね。だから私が来たの。こういうときのための私だもの」
「殺しに来たの? Edenの代わりに?」
ミオはそれには答えず、ふとトウマに視線を移した。
「シラハナさん、もう一度だけ聞くわ。Edenに戻る気はない?」
「……貴方は、そんなにEdenを終わらせたいんですか?」
「私は、Edenに従っているだけよ?」
ミオの長髪が風に揺れた。ニュートラルな笑みで銃を構えたまま、何かに気づいたかのように、ミオは口調を変えた。
「想像してみてほしいのだけど」
説くように、謳うように、読み聞かせるように。
「もしもこの世に、あらゆる生命が満ち足りた、それこそ神話のような楽園があったとしたら、誰もがそこを目指すでしょう?」
言いながら、ミオはほんの僅かに銃口を下げた。それでも均整のとれた顔は、目を逸らすことを許さない。
「その楽園に、ついに辿り着いた人がいたの。その人はまだ楽園の外にいた人々を導いて、人類はそこで繁栄することになった。ええ、それで思うのだけれど」
言い聞かせるように。
「楽園に辿り着いた人間と、楽園で生まれ育った人間。一体どちらが幸福なのかしら。ええ、後者に決まっているわよね?」
「何の話を……」
「今の話よ。人類が滅ぶと貴方は言うけれど、宇宙が永遠でない限り、遅かれ早かれそのときは来るわ。いつか滅ぶのなら、幸福な終わりを選んだっていいでしょう。人間はね、Edenが成立したときから何も変わっていない。滅んだことにも気づかずに幸福のまま終わる。五百年後に滅ぼうが今滅ぼうが、そこに主観的な違いはないのよ。仮想送りの開発で、完全な楽園は手に入った」
「……その楽園を、拒絶する人間だっているんですよ」
「それは、サナ・アマヤのことかしら」
知っているのか。ミオはほんの少し口角を上げ、まるで嘲笑うかのような酷薄な笑みを見せた。
「彼女がアンドロイドではないという証拠がどこにあるというの?」
頭を割られたアンドロイドと眼鏡越しに笑うサナの姿が同時に思い浮かんで、トウマは叫んだ。
「有り得ない! サナは人間だ!」
「そうかしら。貴方のような、人助けに幸福を感じる人間のために配置された機械だと考える方が自然じゃない? だって、Edenは基底理念に違反できないのだもの」
「それは――――」
反論の言葉を、トウマは持っていない。
「私も彼も、不安なのよ。せっかくこんなに素晴らしい世界なのに、貴方たちのような存在が楽園を転覆させてしまうんじゃないかって。Edenがそれを望んでいたら、どうしましょうって」
ミオの銃口がさらに下がる。いっそ美しいくらいに、青空を背にして笑っている。
「不安なのに、私たちは仮想送りにされずにいる。貴方がいなくなればいいのにと考えても、世界が終わってほしいと考えても生きている。解析済なのに!」
その顔が、銃口と共にトウマを狙った。
「なら、理由があるはずよね。Edenは私たちの行動を許容している。だから急ぐの。不安は解消すべきでしょう?」
その瞬間、トウマの首筋に電流のような衝撃が走った。
視界が途絶える。硬直する身体がざらついた地面に倒れ伏す感覚。
「トウマ!」
「ねえキコ」
そのミオの声は、トウマのすぐ近くで聞こえた。
「貴方を殺してあげたいけれど、殺さないわ。生きたがっている人を殺すのは、基底理念に反するもの」
キコの呻き声。同時に、トウマの硬直した体に激しい痛みが走る。首が、頭が、背骨が、縦に裂ける。裂かれる。痛みではない。恐怖と苦痛が流れ込む。痛いという感覚が髄液を駆け巡って侵食する。トウマは目を見開いて涙を零していることを自覚する。視界は閉ざされている。
その苦痛は唐突に終わった。
引き延ばされる肉体のような闇が、瞼を閉じて見る太陽のように赤みを帯びる。肉体感覚は苦痛と共に消え失せ、暖かい海に意識だけが揺蕩っているような幸福がトウマを包む。
恢復と忘却が許される感覚の内で、トウマは理性をかき集めた。
忘れたくない。
音にもならない声で叫ぶ。忘れたくない。それが不必要で正しくないのだとしても。彼女を助けられるのは、覚えていられるのは自分しかいない。そう思いたい。そうであってほしい。
僕の手で救いたいと思っていたい。
「建前はね、それが例え口に出すことのない本心だとしても必要なのよ。そうでしょうEden、これで満足……」
まるで独り言のようなその言葉が、遠のく意識の海を伝い、やがて泡と帰して消えていった。
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